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ヤマレコ質問箱 カテゴリ:山の情報

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穂高あたりの三角点名
質問2015年05月19日 19:19 (2015年05月23日 16:46更新)
三角点名を国土地理院のサイトで確認することができます。

国土地理院HP
 →基準点・測地観測データ
  →基準点成果等閲覧サービス
    この中の「標準システム」内に入れば、地図上で日本の三角点の名前がわかります。

http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/lt/index.aspx

一般に知られている山名と概ね一致しますが、全く違う名前もあります。
まあ、山頂と三角点の場所が微妙に違うこともあるので、それはそれとして、、。

しかし、北アルプスの誰でも知っている山にある名前が、違うところの山名なのですが、これはどのような理由から付けられたのでしょうか?
この辺の名前が付けられた経緯・歴史など、詳しい方、お願いします。

  地図上 南岳 → 三角点名 「北穂高」
       涸沢岳 → 三角点名「奥穂高」
       西穂高 → 三角点名「前穂高」
       前穂高 → 三角点名「穂高岳」
回答2015年05月23日 05:56 (2015年05月23日 16:46更新)
個人的見解も入ってますが、三角点は一等から四等まであります。
一等三角点を設置しないと、二等以下の三角点は設置できません。

そこで日本百名山の穂高岳を読むと、「今の前穂高が、当時これが最高点と思われていた。」とあり、当時最初に登った前穂に一等三角点を設置、「穂高岳」と名付けのだと思われます。

その後一括して穂高と呼ばれた岩峰群に、北穂高・奥穂高・涸沢岳。前穂高・西穂高・明神岳と名称された(日本百名山書より)とあり、奥穂高が国内第三位の高さと判明しました。
三角点は高ければ何処にでも設置できる訳ではなく、視通が出来る事と、等間隔に設置する事が設置条件の一つです。
なので今の南岳・涸沢岳・西穂高が視通ができ、間隔も丁度良かったので三等三角点を設置。既に「穂高岳」は使われているので、穂高より北にあるので「北穂高」、奥穂高岳より奥にあるので「奥穂高」、最後の西穂は「前穂高」と名付けるしかなかったのでは、と思われます。
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お礼 
確かに前穂まで登って、そこを穂高として他を名付けたので、こうなったのかもしれませんね。

しかし、ではなぜ折角 三角点として名付けたものが、変えられて(それも別の山に移行)しまったのでしょうかね?(隣の山の名前をワザワザ付けるとは、、、)

ありがとうございました。
回答2015年05月22日 22:30 (2015年05月23日 16:46更新)
DIY さん、こんにちは。

直接の回答ではないのですが、『現代登山全集〈第2〉槍,穂高,上高地 (1961年)』でこの辺の事情は分かると思います。
横浜市では図書館でも借りられますが、 amazon でネット購入されることをお勧めします。
登るルートを調べるのでしたら「日本登山大系」の方が新しいので参考になりますが、歴史を知るのであれば断然「現代登山全集」が興味深いです。
本(中古)の価格は数百円です。
配送料金は、Amazon.co.jp が発送する商品をお選び下さい。通常、配送料金は無料のはずです。

ちなみに元のご質問の話題が、ちょうど加藤文太郎の時代と重なりますが、その頃にやっと穂高の名前が決まり始めたと思うと感慨もひとしおです。

また、この本は槍・穂高・上高地なので残念ながら東餓鬼岳は出ていません。
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そうですね!
登山全集だと何がしかわかるかもしれませんね!
8と10巻は持っているのですが、書棚のこやし状態でまったく思いも掛けませんでした。

さっそく2巻探して入手してみます、貴重な情報ありがとうございます。

東餓鬼岳は出ていませんか?!
→現地山頂に説明板があることを期待して行ってみたいと思います  笑
回答2015年05月19日 20:27 (2015年05月23日 16:46更新)
以下のホームページが参考にされてはどうでしょうか。

史跡と標石で辿る
日 本 の 測 量 史
上西 勝也
http://uenishi.on.coocan.jp/

目次の
5 明治後期から第二次大戦までの測量
  三角測量の項目から抜粋すると

点の記には最初に点の名称がでてきますが、この点名というのは必ずしも山名や地名と一致しません。あくまで初期の段階で他の点と区別するために名づけたものがそのまま残っているのです。たとえば点名「穂高岳」は現在の前穂高岳、点名「前穂高岳」は現在の西穂高岳、点名「奥穂高岳」は現在の涸沢岳、点名「北穂高岳」は現在の南岳を表しています。これら穂高の現在の山名は1924年(大正13)に慶応義塾大学山岳部の大島亮吉さんらが同部会誌に載せられたものが定着しました。[大島亮吉、青木勝:穂高岳スキー登山 登高行 第五年 十週年紀念號 慶應義塾體育會山岳部 1924 p29]

また白馬岳の点名は「白馬」ですが三角点の設置当時はまだ白馬岳という名称がなく田植え時期に残雪が馬の形になることからこれを「代馬」(しろうま)と地元で呼んでいたので陸地測量師、館潔彦が「白馬」としたそうです。
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さっそくありがとうございます。

三角点名として存在していたにも関わらず、「慶応義塾大学山岳部の大島亮吉さんらが同部会誌に載せられたもの」が一般的に使われて定着したのですね!

貴重な情報 ありがとうございます、助かります。

しかし、ここで更に疑問が、、、?
大島さんは、余程山岳会に影響があった人だったのでしょうか?(会誌の権威があった?)
この会誌に載せた名前はなぜ、先にある三角点名と違う名前を付けたのでしょうか?
→山名と違うのは、いくらでもあるのですが、隣の山の名前をわざわざ付けるのが不思議です。
それとも、三角点名(お役人)のほうが、地元の呼称を無視して勝手に付けた?
  →大島さんが、地元の呼称に合わせて記載した。

どなたかの回答も待ってみたいと思います。
この辺の、命名経緯や歴史はおもしろそうな気がします。