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Yamareco

記録ID: 1319100
全員に公開
無雪期ピークハント/縦走
北陸

駅から登山「一乗城山」〜[一乗山城跡+一乗谷朝倉氏遺跡]を巡る〜併せて[福井城跡]を遊覧〜

2018年04月29日(日) ~ 2018年05月20日(日)
 - 拍手
体力度
7
1~2泊以上が適当
GPS
511:42
距離
81.6km
登り
1,570m
下り
1,620m
歩くペース
とても速い
0.60.7
ヤマレコの計画機能「らくルート」の標準コースタイムを「1.0」としたときの倍率です。

コースタイム

1日目
山行
3:22
休憩
2:53
合計
6:15
7:58
20
復元町並
8:18
8:24
16
8:40
8:41
1
復元町並
8:42
11:00
2
朝倉氏遺跡
11:02
11:19
24
復元町並
11:43
11:50
41
三万谷登山口
12:31
12:34
28
一乗城山山頂
13:02
13:03
70
三万谷登山口
14:13
美山温泉
2日目
山行
7:10
休憩
1:21
合計
8:31
7:31
11
福井駅
7:42
7:58
1
福井城本丸址
7:59
8:02
5
福井神社
8:07
8:09
3
歴史博物館
8:12
8:15
14
養浩館庭園
8:29
8:34
7
北ノ庄城址・柴田神社
8:41
8:15
18
福井駅
8:33
8:34
77
一乗谷駅
9:51
9:52
102
下城戸登山口
11:34
11:37
22
千畳敷跡
11:59
12:00
12
三等三角点
12:12
12:13
22
一乗城山山頂
12:35
12:37
50
千畳敷跡
13:27
13:28
28
馬出登山口
13:56
14:14
1
朝倉氏遺跡
14:15
14:24
36
復元町並
15:00
15:02
7
下城戸
15:09
15:17
7
安波賀春日神社
15:24
15:29
7
西山光照寺跡
15:36
一乗谷駅
● 第一部:『一乗谷城下』散策・『一乗城山』登山(三万谷から)
        2018年4月29日
 
(開始):朝倉氏遺跡(周遊)−≪林道美山線≫−[三万谷ルート]−一乗城山(※)−[三万谷ルート]−あさくら水の駅−資料館−美山温泉−大野市公園−朝倉公園:(帰投)

※:一乗城山(いちじょうしろやま)の山頂は「三の丸跡」になります。

● 第二部:駅から『一乗城山』・駅から『福井城』
        2018年5月20日

(開始):福井駅−福井城跡−福井神社−北の庄城址==越美北線(九頭竜線)==一乗谷駅−[下城戸ルート※]−一乗城山−[馬出ルート]−−朝倉氏遺跡(周遊)−一乗谷駅==福井駅:(帰投)

※:『下城戸(安波賀)』から[下城戸ルート]を登り、『千畳敷跡−山頂(三の丸跡)』で折り返し[馬出ルート]を下り、『城戸ノ内』に降りました。しかし、今回私は、[下城戸ルート]の途中から[送電鉄塔巡視路]に進入してしまいました。幸い、「不動清水」の手前でなんとか、[馬出ルート]に合流し『千畳敷跡』に上がることが出来ました。登山ルートの周辺には、[鉄塔巡視路]の他、[旧・蛇谷ルート]の踏み跡も残されていますので、迷い込む事のないように注意して下さい。
天候 晴れ
過去天気図(気象庁) 2018年04月の天気図
アクセス
利用交通機関:
電車 自家用車
___【 タイトルについて 】___

 駅から始める登山=「一乗城山へ登る」を旨としています。サブタイトルとして、

〜[一乗山城跡+一乗谷朝倉氏遺跡]を巡る〜併せて[福井城跡]を遊覧〜

 としましたのは、登山のみならず、方々を巡る旅となったからです。

 2度にわたり、朝倉氏遺跡のある[一乗谷]と[一乗城山]を訪問しました。1回目の2018年4月29日は、車で越前に向かい、一乗谷を巡ってから、一乗城山を登山しました。3週間後の2回目(5月20日)は、『福井駅から福井城跡』を巡った後、一乗谷駅に移動し『駅から登山』(2度目の一乗城山登山)をしました。

 登録した写真(後出)は2部構成としています。

● 第一部:『一乗谷城下』散策・『一乗城山』登山(三万谷から) 

 ◇ 一乗滝−朝倉氏遺跡−一乗城山(三万谷ルート)−美山温泉−大野市の義景公園

● 第二部:駅から『一乗城山』・駅から『福井城』

 ◇ 福井駅から福井城跡・北ノ庄跡−一乗谷駅から一乗城山(̪下城戸・馬出ルート)−朝倉氏遺跡

___【 紛らわしい〜山と城の名前 】___

 今回の目標に山は「一乗城山」ですが、近隣にある「一乗山」と名前が似ています。また、「一乗城山」と[一乗谷城]は、違うものを指しているのに、字面が似ているので長文の中に単語として出てくると、読み間違えしまいそうな気がします。

≪山の名前≫

 一乗城山(いちじょうしろやま)=一乗という名の冠した・城山(Mt.Shiroyama)

≪城の名前≫

 一乗谷城(いちじょうだにじょう)=一乗谷の・城(Castle)

___【 一乗城山と一乗山について 】___

 地図を見ると、[一乗城山※1]は、[一乗山※2]の山系に属しているように思われます(私見)。[一乗山]を主峰として、北西方向に[白椿山※3]−[一乗城山]と連山しています。『足羽川』が、[一乗山]の南側から流れてきて、[一乗山山系(仮称)]の東側から北側に回り込む様に流れています。そして、城跡のある[一乗城山]の山稜部分が、北方向に突き出し、西方向に流を替えている『足羽川』にぶつかっているように見えます。また、[一乗城山]の東西が、『足羽川』の2本の支流(谷)に挟まれています。西は『一乗谷川※4』、東は『三万谷川』です。

※1:一乗城山(いちじょうしろやま、標高:474m)

※2:一乗山(いちじょうざん、標高:741m)

※3:白椿山(しろつばきやま、標高:720m)

※4:一乗山の西麓から一乗谷川の流れが始まります。「一乗滝」で落差してから、一乗谷を北上して『足羽川(あすわがわ)』に合流しています。

−−−< 一乗城山の標高 >−−−

 ネット上では、一乗城山の標高を435mと表記されていることがありますが、一乗城山の頂上(≒山頂)より西方向に位置する三角点「松尾」の標高を指しているのだと思います。実際は、一乗谷城の[三の丸跡]が、一乗城山の頂上にあたり、その標高は約474mです。山頂には、旧・足羽町(あすわちょう)によって設置された基準点があり、正確な標高473.58mです。

(注):三角点「松尾」のある場所を山頂だとするならば、一乗城山の標高は436m(正確には435.70m)としとも良いでしょう。

−−−< 一乗城山が一乗山と混同? >−−−

 グーグルマップでは、[一乗城山]を[一乗山]と表記されています。これでは、近隣に同名の[一乗山]が2つになってしまいます。[一乗城山]の南東約2.0kmに[白椿山]、さらに1kmほど南東に[一乗山]が、並んでいます。

___【 一乗谷朝倉氏遺跡 】___

 一乗谷川の流れる[一乗谷]内の〜東西500m/南北約3km〜の谷間に、戦国大名の朝倉氏は、館や城砦を巡らして[一乗谷]を本拠地(御屋形)としました。初代「朝倉孝景」に始まり、氏景、貞景、孝景、義景〜と続きます。5代「義景」を最後として、織田勢に滅ぼされるまで朝倉一族は、越前を5代100年にわたり支配しました。
 『一乗谷朝倉氏遺跡』は、福井市城戸ノ内町(きどのうちちょう)の一乗谷に所在します。谷の南北の入口には、上城戸(南側)・下城戸(北側)と呼ばれる防壁があり、2つの城戸の間を[城戸ノ内]と呼びます。[城戸ノ内]には、館群(朝倉氏および家臣の居館)跡と城下町跡があります。また、谷の東側の城山には『一乗谷城(山城)』が築城されていました。
 山麓に造られていた[朝倉義景館]は、濠に囲まれていましたので、いわゆる≪平城≫のような城砦でした。もっといえば、平地で山と谷を利用した城でありますから→[平・山・谷・城]=平山谷城(創作)〜という城郭分類としては如何でしょうか(私見)。
 遺跡全体(城戸ノ内を中心とした一乗谷+一乗谷城を中心とした山域)が国の特別史跡です。中でも一乗谷にある四つの日本庭園(※)は、一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けています。

※:北から順に〜南陽寺跡庭園・朝倉義景館跡庭園・湯殿跡庭園・諏訪館跡庭園〜です。

___【 曲輪・城砦の配置について 】___

 「一乗谷城」は、[連続曲輪群]=[一・二・三の丸]と、一段下にある千畳敷跡周辺の[山上御殿群]で構成されています。城山の西麓=[一乗谷]にある朝倉義景館=居城(跡)を防御する山城であると同時に、いざ、敵軍に[一乗谷]が侵された時の、籠城するための詰城(つめのしろ)でもありました。
 さらには、一乗谷の朝倉館(いわば本城)を四方から守るように〜北は[成願寺(じょうがんじ)城]、南は[三峯(みつみね)城]、東はここ[一乗谷城]、西は[東郷槇山(とうごうまきやま)城]と[大味(おおみ)城]〜と城砦が配置されていました。

___【 但馬朝倉氏と越前朝倉氏 】___

 古来の朝倉氏(あさくらし)は、山陰道の但馬国(たじまのくに)を拠点とした豪族でした。のちに、越前国を拠点として発展して戦国大名が、越前朝倉氏となります。
 但馬には、平安時代から武士団を形成し栄えていた「日下部氏(かすかべし)」があり、朝倉氏は、この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつでした。「朝倉氏」発祥の地は、但馬国養父郡(やぶぐん)朝倉(あさくら)[現・兵庫県養父市八鹿町(ようかちょう)朝倉]です。発祥の地の[あさくら]を名乗り、「但馬朝倉氏」を興しました。その「但馬朝倉氏」から分かれ越前に移った系統が、「越前朝倉氏」となりました。
 南北朝時代の13世紀後半、北朝の越前守護「斯波高経(※)」に従って、但馬から越前に進出したのが「朝倉広景(あさくらひろかげ)」で、越前朝倉氏の初代当主となります。越前朝倉氏の2代目以降は、主君の斯波氏に離反と恭順を繰り返しながらも、甲斐氏、織田氏に次ぐ[斯波三守護代]の第三席となりました。そしてついには、第7代朝倉孝景(英林孝景)が守護に任命され、越前国を支配する戦国大名になりました。

※:斯波高経(しばたかつね)は、尾張足利氏4代当主です。斯波氏一族は、室町幕府将軍足利氏の有力一門であり、かつ細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名でした。越前・尾張・遠江などの守護を世襲しています。

−−−< 越前一乗谷朝倉氏の由緒のまとめ >−−−

 一族誕生から最後までを、判りやすくフォローチャートしてみました。

・「日下部氏」ゆかりの氏族→・『朝倉』を名乗る→・但馬朝倉氏→・但馬朝倉氏より分かれる→・「越前朝倉氏」が興る=越前朝倉氏初代[広景]→・守護「斯波氏」の守護代になる→・第7代[孝景]が「斯波氏」に取って代わり越前国守護になる=一乗谷朝倉氏初代[孝景]→・一乗谷朝倉氏第5代[義景]=織田勢に敗れ滅亡

−−−< 朝倉氏の代々の数え方 >−−−

 15世紀後半、越前朝倉氏7代[孝景(※)]が越前国守護に任ぜられた事により、[孝景]は、戦国大名としての一乗谷朝倉氏初代(第1代)と言われるようになりました。つまり、最後の当主[義景]は、越前朝倉氏第11代にして一乗谷朝倉氏第5代になります。
 ところで、15世紀中頃(?)、第7代[孝景]が、黒丸(足羽郡もしくは坂井郡にあったとされる庄)から、一乗谷に本拠地を移したとされていましたが、通説に過ぎないらしい。実際は、もっと早い時期(14世紀?)に、一乗谷に御屋形(拠点となる屋敷)が移されていたという。つまり、[孝景]が、本拠地を一乗谷に移したから初代当主と言われるようになったのではなく、あくまで、越前国守護に昇格したことで初代として敬われるようになったのでしょう。

___【 最後の当主「朝倉義景」の運命 】___

○ 天文2年(1533年)9月:[孝景]の長男として生まれる。生母は広徳院(光徳院)。
○ 天文17年(1548年):父の孝景が死去により、16歳で家督を相続して第11代当主(一乗谷第5代)となり[延景]と名乗る。
○ 天文21年(1552年)6月:室町幕府の第13代将軍[足利義輝]より「義」の字を与えられ[義景]と改名。さらに、一等官である『左衛門督(さえもんのかみ)』に任官し(朝倉家としては異例の名誉)=室町幕府と親密になる。
○ 永禄6年(1563年)8月:謀反を起こしていた若狭国に出兵。
○ 永禄7年(1564年)9月:一向一揆勢の加賀国に出兵(4年後には本願寺顕如および加賀一向一揆勢と和睦)。
○  永禄11年(1568年)4月:[足利義秋]が一乗谷朝倉館で元服し、名を[義昭]と改める。[義昭]は、[朝倉義景]に上洛戦を求めていたが、同年6月に義景の嫡男である[阿君丸]が急死(毒殺説あり?)したこともあってか[義景]は[義昭]が望む上洛戦に関心を示さず。よって[義昭]は、勢いに乗る[織田信長]を頼ることに。
○ 永禄11年(1568年)9月:織田信長は足利義昭を奉じて上洛。[義昭]を将軍とした。[義景]に対して将軍[義昭]の命令として2度にわたって上洛を命じるが、[義景]は拒否し続けた。
○ 永禄13年(1570年)4月:[義景]に叛意ありとされてしまい、織田信長・徳川家康の連合軍が越前に侵攻してきた。ところが、同盟関係にあった[浅井長政]がもう一方の同盟者である[信長]を裏切って織田軍の背後を襲ったため、織田軍は撤退。ここで、「朝倉氏・浅井氏」はともに織田軍と対決することとなった。
○ 元亀元年(同年で改元、1570年)6月28日:織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突(姉川の戦い)。[朝倉・浅井]勢が敗退、浅井方の「横山城」が、織田軍に落ちてしまい、のちの戦況が不利となった。
○ 元亀2年(1571年)8月:[義景]は、浅井軍と共同して「横山城」などを攻撃するも敗退。この後[信長]は、朝倉方と内応していた「比叡山」を焼き討ちした。
○ 元亀3年(1572年)7月:[信長]は「小谷城」を包囲し、「虎御前山」などに砦を整備。これを対して[義景]は、北近江に援軍を派兵したが、織田軍に寝返る者を出すなどして、成果を出せないまま撤退した。
○ 元亀4年(1573年)4月:朝倉氏と同盟関係にあった[武田信玄]が陣中で病死し、三河に侵攻していた武田軍は甲斐に引き揚げてしまった。このため[信長]は、織田軍の主力を越前朝倉に向けることが可能になった。
○ 天正元年(同年で改元、1573年)8月8日:[信長]は3万の軍を率いて北近江(浅井領)に侵攻。対して[義景]は、自ら2万の軍勢を率いて出陣したものの、近臣の[朝倉景鏡]は出陣に応じず、軍の士気も低かったという。
○ 8月12日:小谷山に造られた朝倉方の砦である「大嶽砦」が攻め落とされる。
○ 8月13日:朝倉に味方していた「平泉寺」の僧兵が守る「丁野山砦」が陥落したのを機に、朝倉軍は撤退を開始。しかし追撃され、柳瀬(現・余呉町柳ヶ瀬)の刀根坂で壊滅的な被害を受けた(刀根坂の戦い※)。
○ 8月16日:[義景]は、一乗谷に戻るも、守備軍が集まらず。わずかな手勢を伴い、近臣の[景鏡]を頼って、大野郡に避難。「平泉寺」に救援を要請するも、すでに織田方の調略を受けていて、逆に攻撃を受ける。
○ 8月18日:織田軍は[柴田勝家]を先鋒として「一乗谷」に攻め込み、炎上させた(一乗谷城の戦い※)。
○ 8月20日:[景鏡]に裏切られ、避難先の「賢松寺」で、[義景]自刃(享年41)。

※:『刀根坂の戦い』・『一乗谷城の戦い』は、一連の戦闘なので、2つの戦いをまとめて[一乗谷城の戦い]としてしまた方が良いかも知れません。朝倉義景軍敗退の部分をチャートにしてみました。

・小谷山の大嶽砦の陥落→・朝倉軍の撤退開始→・刀根坂で織田軍から壊滅的な被害を受ける→・一乗谷に帰還→・義景は大野に避難→・攻め込まれ「一乗谷」は炎上→・義景自刃

〜これにて、朝倉氏は滅亡、同盟していた浅井氏も同じ運命に〜

 越前一乗谷を落とした後、織田軍はすぐに引き返します。北近江の「小谷城」を返す刀で攻撃し落城させました。9月1日に、[浅井長政]自刃。
 驚愕すべきは信長軍の強さです。[信長]が、8月8日に出陣してから一月を経ずして、朝倉・浅井の両氏を滅ぼしてしまったのです。

−−−< 一乗谷城の廃城 >−−−

 朝倉氏滅亡の後、一乗谷には、信長から守護代を命ぜられた[桂田長俊(前波吉継)]が入ったが、『一乗谷城の戦い』のおよそ5ヶ月後の天正2年1月(1574年2月)、一向一揆の襲撃を受け討ち取られてしまうことに。その後、越前の一揆勢を殲滅し、越前に入部した[柴田勝家]が、天正3年(1575年)9月、「北庄城」を居城としたため、一乗谷(朝倉館群と一乗谷城)は廃城となりました。

−−−< 朝倉を裏切ったものたち >−−−

 朝倉義景の重家臣で織田方に内応した3名を挙げます(没した順です)。

● 前波吉継(まえばよしつぐ)→桂田長俊(かつらだながとし)

 [前波吉継]は、朝倉義景の家臣でした。同盟していた朝倉氏と浅井氏が滅ぼされる(※)前年の元亀3年(1572年)のことです。朝倉景鏡(あさくらかげあきら)らとともに[吉継]は軍を率いて、浅井氏を救援に北近江に向かったものの、敵の総大将である[信長]の本陣に駆け込んで降伏、許されて織田信長の家臣となりました。翌・天正元年(1573年)8月、小谷城を救援に来た朝倉義景軍が形勢不利と判断し撤退を開始するやいなや、期を見たかのように織田軍に追撃されました。越前朝倉攻めが始まり[吉継]は、織田軍の越前案内役を務め朝倉氏滅亡に一役買いました。その功績により[信長]から越前の守護代に任命され、名前も信長から一字を貰い受けて『桂田長俊』と改めました。しかし、彼が桂田氏と呼ばれていたのもつかの間のことでした。翌・天正2年(1574年)1月、対立していた冨田長繁(とだながしげ)が一揆勢を率いて一乗谷を襲撃してきました。桂田長俊(前波吉継)は衆寡敵せずの状態で殺されました。

※:朝倉氏滅亡は、天正元年(1573年)8月20日/浅井氏滅亡は、天正元年(1573年)9月1日〜です(いずれも、当主が自刃した日)。救援にむかった朝倉氏の方が先に倒れています。

● 朝倉景鏡(あさくらかげあきら)→土橋信鏡(つちはしのぶあきら)

 [景鏡]は、朝倉氏最後の当主[義景]の親族(従兄弟?)です。元亀3年(1572年)、同盟関係にあった浅井氏の小谷城の眼前に、織田軍が城砦を構築(虎御前山城)したことに対して、朝倉氏当主[義景]は[景鏡]を、小谷城救援に派遣しました。しかし、派遣軍は敗退、この時、織田軍に寝返るものも出してしまいました。翌・天正元年(1573年)8月、織田軍に取り囲まれた「小谷城」に救援に出兵することになったが、[景鏡]出陣を拒否したため、当主の[義景]は自ら浅井氏救援に出陣することになった。結果、浅井軍は敗退。追撃をくらい、『刀根坂・一乗谷城の戦い』で朝倉軍は壊滅。越前に留まっていた[景鏡]は、あろうことか自領の大野郡に逃れてきた[義景]を裏切りました。義景の首級を信長に差し出し、降伏を許され本領を安堵された。おまけに、信長から一字を貰って、[土橋信鏡]と改名しました。しかし、翌・天正2年(1574年)、朝倉を裏切った者同士で諍いが起き、[桂田長俊]を滅ぼそうと[富田長繁]が起こした土一揆が、越前一向一揆に進展してしまいました。不運というか因果応報というか、土橋信鏡(景鏡)は、七里頼周(※)が率いる一向一揆軍の標的にされ大野郡の「平泉寺」に籠もるも戦死しました。天正2年4月14日(1574年5月4日)の事でした。

※:七里頼周(しちりよりちか)は、本願寺[顕如]の家臣で一向一揆の指揮を任され加賀に派遣されていました。天正2年(1574年)1月下旬、加賀の尾山御坊(現・金沢城趾)より出陣し、一乗谷の戦い後に混乱していた越前に赴くことに。越前の一揆勢の指揮とり善戦しました。越前を支配下に治めかけた(一揆持ちの国になりかけた)が、天正3年(1575年)8月、一向門徒の分裂に乗じて、織田の大軍が越前に攻め込んできたため、加賀に逃げ帰ることになった。翌年には死亡したらしい。

● 富田長繁(とだながしげ)

 元亀3年(1572年)、[富田長繁]は浅井氏救援に向かった先の北近江で、[前波吉継(のちの桂田長俊)]らに続いて織田軍の陣に走り込み寝返り、織田の家臣になりました。同じく織田に寝返った[桂田長俊]が越前守護代に任じられたのに対して、[長繁」は越前国南仲条郡の府中(現・越前市)領主にとどまったため、不満が募っていたらしい。天正2年(1574年)1月、[長繁]は圧政に苦しむ民を扇動して土一揆を引き起こし、一揆勢を率い、一乗谷に侵攻して[桂田長俊]を殺害しました。ところが、[長繁]の横暴な振る舞いに嫌気がさした一揆勢は、加賀国から一向宗の[七里頼周]を呼び、指揮官として担ぎ上げました。そして、[長繁]は、一向一揆勢の攻撃を受けることになりました。戦にたけた[長繁]は、しばらくは善戦したものの、天正2年2月、味方に裏切られ、背後から鉄砲で射殺されたという。

−−−< 朝倉義景を裏切った『平泉寺』 >−−−

 [義景]を裏切ったのは家臣ばかりではありません。越前で朝倉氏と協力関係にあった『平泉寺』も[義景]を裏切っています。この寺院は、大野郡北部(現・勝山市)に所在していた霊応山『平泉寺』(現・平泉寺白山神社)です。比叡山延暦寺の勢力下で多くの僧兵をかかえて、大名級の権力を誇っていました。平泉寺の僧兵が、北近江「小谷城」の西に位置する「丁野城」を守っていましたが、天正元年(1573年)8月、織田軍に降伏。刀根坂・一乗谷城の戦いで敗退し大野郡に逃れてきた[義景]の救援要請を断り見殺しに(既に信長の調略を受けていた)。その後、同じく[義景]を裏切った大野郡領主の朝倉景鏡(土橋信鏡)と共闘して、[七里頼周]が指揮する一向一揆軍と戦うも、翌・天正2年(1574年)4月、景鏡(信鏡)が一揆軍に敗れ戦死、『平泉寺』は焼き討ちされ焼失しました。

※:焼失した平泉寺は、天正年間のうちに再興されています。明治時代になり神仏分離令が出されると、寺号を捨て神社(平泉寺白山神社)となりました。現代では、『白山平泉寺旧境内』という名称で国の史跡に指定されています。

___【 一乗谷へのアクセス 】___

 一乗谷を縦走する遊歩道は、一乗谷駅から近い「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」から始まり、南側の「一乗ふるさと交流館」まで続いています(全長、約3km)。列車で一乗谷駅に降り立ち、駅から遊歩道を歩き始める〜のが、通の方むけかも知れません。

−−−< 列車では >−−−

 越前福井に向かう路線は、色々ありますが、とにかく、「福井駅」を経由するしかありません。

● 北陸本線「福井駅」⇒越美北線(通称:九頭竜線)⇒一乗谷駅⇒周遊バス(週末のみ運行)/もしくは徒歩⇒朝倉氏遺跡

※:一乗谷駅から資料館まで約300m/朝倉氏遺跡(景義館跡)まで約2km〜です。

−−−< 車では >−−−

 )摸ζ察嵎^IC」−国道158号線−天神橋−県道31号線−安波賀(あばか)橋の手前で右折−県道18号線−朝倉氏遺跡

◆‥豎に摸自動車道「白鳥IC」(※1)−国道158号線(※2)−(大野市を経由)−国道158号線→朝倉氏遺跡

※1:[油坂峠道路]の無料区間を通行して、『美濃街道(国道158号線)』に入ります。
 ちなみに、「白鳥IC」のある位置で、『美濃街道(国道158号線)』と『越前街道(国道156号線)』が接続しています。

※2:いわゆる『美濃街道』の部分を通行します。[白鳥IC〜朝倉氏遺跡]間は80km近くもあつて、運転が辛いかもしれません。きっと、建設中の[大野油坂峠道路=約35km]が完成すれば、通行が便利になることでしょう。
 ちなみに、[永平寺大野道路]−[大野油坂峠道路(未完成)]−[油坂峠道路]〜は、福井−高山−松本を結ぶ『中部縦貫道路』の福井県側部分です。

−−−< バスでは >−−−

 福井駅から『京福バス』を利用します。

  ]線バス=東郷線/大野線
 ◆…捷團丱后當倉特急バス(朝倉・永平寺ライナー)

−−−< 航空機では >−−−

 飛行機でのアクセスは石川県の「小松空港」を利用します。小松空港からは、バスと列車を組み合わせて一乗谷までの経路を計画して下さい。

※:「福井空港」(福井県坂井市)には定期旅客便がありません。

___【 越美北線(通称:九頭竜線)について 】___

 『越美北線(えつみほくせん)』は、福井市の[越前花堂駅]から大野市の[九頭竜湖駅]に至るJR西日本の地方交通線です。「九頭竜線」(くずりゅうせん)の愛称が付けられています。
 元は国鉄(JR)の路線で、福井県と岐阜県を結ぶ鉄道『越美線』として建設されたものの、全通は果たせまんでした。福井県側の『越美北線』はJR西日本に承継され、通称「九頭竜線」と呼ばれていますが、岐阜県側は国鉄民営化を契機に、第三セクター化され、長良川鉄道『越美南線(えつみなんせん)』となりました。

※:越美南線「美濃白鳥駅」と越美北線「九頭竜湖駅」との間には、国鉄バス大野線が運行されていたものが、JR東海バスへの承継後の2002年に廃止されてしまいました。これにより、公共交通手段では、[福井−岐阜]間の連結がなくなってしまいました。

___【 周辺の道路・林道 】___

 車で、一乗城山の周辺を回る場合、国道158号、県道18号、県道31号、林道美山線}などを通行することになります。

−−−< 国道158号線 >−−−

起点:福井県福井市和田の交差点「西方」/終点:長野県松本市渚1の交差点「渚一」

−−−< 福井県道18号鯖江美山線 >−−−

起点 : 福井県鯖江市長泉寺町の交差点「長泉寺」(=国道8号交点)/終点 : 福井県福井市市波町の足羽川左岸の「下新橋」詰め(=国道158号交点)

※:[阿波賀(あばか)橋−下新橋]間の約1.8kmの区間が、県道31号線と重複しています。

−−−< 福井県道31号篠尾勝山線 >−−−

起点 : 福井県福井市篠尾町の交差点「天神」(=国道158号交点)/終点 : 福井県勝山市荒土町伊波の交差点「北部中学校口」(=国道416号交点)

−−−< 広域基幹林道美山線 >−−−

 一乗城山の登山道の[三万谷ルート]に入るためには、国道158号線を進み、田尻町の高田大橋(足羽川)の手前180mに位置する林道美山線の起点から進行します。

起点:福井市田尻町/終点:福井市赤谷町

※:今回の訪問に時点では、土砂崩れのため、林道途中の登山口のある位置で、通行止めになっています(2018年7月末に解除予定)。

___【 一乗城山の登山ルート 】___

 一乗城山には登山道が3本(※)あります。それぞれの登山口へのアクセスなどをご紹介します。

※:下記の〜下城戸(安波賀)ルート、馬出ルート、三万谷ルート〜の3ルートですが、いずれも登山口から山頂(三の丸跡)までの間にはトイレ/水場はありません。

−−−< 下城戸(しもきど)=安波賀(あばか)ルート >−−−

・山頂までの距離:1.8km/山頂までの時間:1時間半

 一乗谷川が足羽川に合流する場所に[安波賀橋]が架かっています。この橋の袂が、一乗谷の入口になります。この橋から県道18号線を200mほど谷に進む(南下)と、巨石を積みあげて造られた[下城戸]があります。[下城戸]の近くに一乗谷川に架かる[向山橋]があります。その橋を渡った先に登山口があります。下城戸のある安波賀町にあるので、下城戸ルートとも安波賀ルートとも呼ばれます。

※:実は、[安波賀橋]の所から直接、登山口に行くことができます。折角ですから、[下城戸]を見て[向山橋]渡ってから登山しましょう。

−−−< 馬出(うまだし)ルート >−−−

・山頂までの距離:1.5km/山頂までの時間:1時間

 [下城戸]からだと、県道18号線を100mほど南下し斜めに脇道に入り約300m進み[下城戸橋]を渡ります。「一乗谷史跡公園センター」(駐車場あり)からだと、県道18号線を約150m北進し[東福橋]を渡ります。いずれも一乗谷川の右岸(東側)の道に出て、さらに山側に入る横道に少し入ると登山口です。高台にある「八幡神社」参道口の鳥居の横に登山口があります。このルートは、一乗山城の大手道と伝えられています。屋敷跡の石垣、小見放城(こみはなちじょう)跡や石仏など、一乗山城の遺構を見ることが出来ます。小見放城の馬出という郭を通るコースなので馬出ルートと呼ばれています。

−−−< 三万谷(さんまんだに)ルート >−−−

・山頂までの距離:1km/山頂までの時間:30分

 林道美山線の通る山間(三万谷)に登山口があり、3つの登山ルートのうち最も早く山頂に至るルートです。林道美山線の入口は、「越前高田駅」の近くで、足羽川を挟んで対岸にあります。足羽川左岸側を走る国道158号線(バイパスと本線と2本あるが、本線の方)から林道美山線が分岐しています。一乗谷から進んでくると、[高田橋]の少し手前に林道の入口(林道の起点)があります。その林道口から林道を約3.3km進むと三万谷ルートに到着します。資料館からこの登山口までは車で15分ほどで行けますが、倒木などがあったりして林道の状態が良くないかもしれません。

−−−< 閉鎖されたルート >−−−

 「蛇谷(英林塚)ルート」〜という登山道がかってありました。朝倉氏遺跡の南側にあったルートです。英林塚(初代孝景公墓所)を経て、谷筋の道を東に登る登山道でした。平成16年の福井豪雨により、この蛇谷コースは閉鎖されてしまいました。再開の予定はなく、廃道の状態です。

___【 周囲にある基準点/三角点 】___

● 基準点「足羽町No.24」

 標高473.58m。一乗城山山頂(三の丸跡)に所在。旧・足羽町(あすわちょう)によって設置された基準点(三角点ではない)のようです。ちなみに、1971年、旧・足羽町が、福井市に編入され、現在は[福井市足羽]になっています

● 三等三角点「松尾」

 標高435.70m。一乗城山山頂より西方向約280mに位置。二の丸の西側にある空濠にかかる土橋を渡りって行きます。

● 一等三角点「星峠」

 標高740.73m。一乗山の山頂に所在。一乗城山山頂より南東方向約3.2Kmに位置。ちなみに、一乗城山と一乗山の中間には、白椿山(720m)が存在しています。

___【 周辺の観光スポット 】___

● 一乗谷朝倉氏遺跡資料館

 朝倉氏遺跡と朝倉氏の歴史について紹介しています。足羽川の左岸そばに所在し、一乗谷駅から300mほどの距離になります。

・住所:福井市安波賀町(あばかちょう)
・開館時間:午前9時00分〜午後5時00分
・休館日:年末年始(12/29〜1/2)
・入館料:常設展示:100円/企画展開催期間中は、別料金(400円)/復原町並との共通券あり(230円)。

● 一乗谷朝倉氏遺跡の『復原町並』

 一乗谷駅・下城戸方面から遊歩道を進んでくると[平面復元地区]を通り抜けた所に、復原町並「北出入口」があります。入場して250mほど町並みを南下すると、復原町並「南出入口」側にでます。南出入口には、管理棟・あさくら売店、トイレ、休憩所・蕎麦処〜と建物が並んでいます。

・住所:福井市城戸ノ内町(きどのうちちょう)
・開館時間:午前9時00分〜午後5時00分
・休館日:年末年始(12/28〜1/4)
・入館料:210円/案内予約=4,000円/朝倉氏遺跡復元町並・資料館の共通入場券=230円
・駐車場:南北両方の出入口に駐車場があります。

● 一乗谷あさくら水の駅

 ふれあい情報館、トイレ、粉ひき小屋、三連水車、ビオトープ、広場、体験農場〜などで構成されています。また、裏手にまわり足羽川の土手に上がると、足羽川頭首工(とうしゅこう)を見ることが出来ます。ちなみに、「水の駅」から「朝倉氏遺跡資料館」まで約600m、「一乗谷駅」まで約900mです。

・住所:福井市安波賀中島町
・情報館の開館時間:軽食コーナー/特産品販売コーナー/情報発信コーナーで構成。開館・開店時間は、時期により変動します。
 9:00−18:00(3〜6月、9〜12月)、9:00−19:00(7〜8月)、9:00−18:00(1〜2月)/※:トイレ・駐車場・公衆電話は24時間利用可能。
・情報館の休館日:毎週水曜日・年末年始
・情報館の入館料:無料

−−【【【 福井城跡/北ノ庄城跡 】】】−−

★ 『北ノ庄城』が『福井城』になった!?

 慶長5年(1600年)、家康の次男の[結城(松平)秀康]が、北ノ庄に入封、翌・慶長6年から約6年かけて築城されたのが『福井城』ですが、始めは、焼失した柴田勝家の居城「北ノ庄城」と同じ名称で呼ばれていました。結城氏の北ノ庄城が『フクイ城』と呼ばれるようになったは、十数年後のことでした。寛永元年(1624年)、福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名されました。後年、さらに字を変えて「福井城」となりました(諸説あり)。また、福井城趾の控天守台(小天守台)のそばには[福の井]という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったといいます。福居城→福井城となったときに、語呂合わせで元々あった井戸を[福の井]としたようも思えますが(私見)?

★ 『福井城』は『北ノ庄城』を拡張したものだった!?

 最初の「北ノ庄城」※=「福井城」の前身〜と考えると、『広義の[北ノ庄城]』には2期に分けられる事になります。

※:越前を平定し終えた[柴田勝家]が、天正3年(1575年)に築城した北ノ庄城が、最初の『北ノ庄城』 でした。

 ■ 広義の[北ノ庄城]=第1期[北ノ庄城]+第2期[北ノ庄城]

 ■ 第1期=柴田氏北ノ庄城=最初の[北ノ庄城]

 ■ 第2期=結城氏北ノ庄城=改築・拡張された[北ノ庄城](のちに福井城と改名)

 すなわち〜
○ 元祖・北ノ庄城(柴田氏)⇒改・北ノ庄城(結城氏)→福居城→福井城

※:柴田氏の城の跡に結城氏によってまったく別の城が築かれた〜という解釈ならば、結城氏の城は[改・北ノ庄城]ではなく[新・北ノ庄城]となります。よって、元祖・北ノ庄城が廃城⇒結城氏より新築された城(新・北ノ庄城)〜と理解することもありかも知れません?

___【 元祖・北ノ庄城(柴田氏北ノ庄城) 】___

 「北ノ庄城」の屋根は「丸岡城(勝家の甥の勝豊が築城)」と同じく総石葺=青緑色を帯びた笏谷石(しゃくだにいし) で、街の規模はあの安土城の2倍はあったという。本能寺後の1582年7月、信長亡き後の織田家の行く末を決める清須城での会議 (通称 “清洲会議”) で[勝家]は[秀吉]と対立。翌1583年3月に直接対決となる「賤ヶ岳の戦い」が発生。敗れた[勝家]は「北ノ庄城」まで撤退するも、秀吉軍に城を包囲されてしまう。追い詰められた[勝家]は降伏することなく妻[お市]と共に自害、城は焼失した。後に当地に入った[結城秀康]により跡地を大きく改変し近代城郭(後に福井城と改名)を築城したため、「柴田氏北ノ庄城」の遺構はあまり残っていない 。

−−−< 柴田勝家の最期 >−−−

 天正11年3月(1583年5月)、[勝家]は、[佐久間盛政]、[前田利家]を従え、北近江に出兵。4月(今の暦だと6月)、賤ヶ岳(長浜市木之本町大音に位置)周辺で、秀吉軍と激突(賤ヶ岳の戦い)。伊勢の[滝川一益]と、岐阜の[織田信孝]が内応して挙兵しており、長浜の[秀吉]を三方から囲む形になり、勝家軍が有利かと思われたが、勝家の思惑が外れてしまいました。[秀吉]は、岐阜城の[織田信孝]を倒すために美濃にいたはずが、短時間で軍勢を北近江の木之本にまで進めた(美濃大返し)ことに加えて、[前田利家]の裏切りがあったからです。[利家]が突如、戦線離脱しことが契機となり、勝家軍は総崩れとなり敗退。さらに、[利家]は、北ノ庄に退却した柴田勝家を討伐に向かった秀吉軍の先方を務めた。4月24日(6月14日)、[勝家]は、『北ノ庄城』に火をはなち(火薬で天守を吹き飛ばしたとも?)、[お市]とともに自害、享年62。 辞世は『 夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)』。現在も、福井市左内町の「西光寺」に、柴田勝家の墓が残されています。

___【 城結城氏北ノ庄城(福井城) 】___

 慶長5年(1600年)、家康の次男の[結城(松平)秀康]が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より天下普請による築城を開始(※)する。1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。完成した城は2km四方に及んだ。5重の水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが1669年に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。
 現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。また、控(小)天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという説がある。

※:元々あった「北ノ庄城」を改築したので、「福井城」の築城年は天正3年(1575年)と言うことになります。

−−−< 結城秀康(ゆうきひでやす) >−−−

 越前北ノ庄藩(※1)初代藩主。越前松平家宗家初代。江戸幕府の始祖にして、権現様となられた[徳川家康(松平元康)]の次男です(母は[於万の方])。家康は11人の息子をつくりました、長男の[松平(岡崎)信康]は、[信長]の怒りを買って、母[築山殿]とともに殺されてしまいました。本来は、次男である[秀康]が、徳川将軍家を嗣ぐはずでしたが、[秀康]は[豊臣秀吉]のもとへ養子(実際は人質)に送られてしまったため、家康の直系とはなり得ませんでした(※2)。[秀吉]の計らいで、[秀康]は婿養子として、北関東の大名「結城家」に入り、[結城秀康]となりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、[秀康]は、家康により「下総結城10万石」から「越前北庄68万石」に加増移封され、さらには、元の「松平」姓に復することを赦されました。将軍家徳川氏の御家門のひとつとなった「越前松平家」を盤石なものとしましたが、若くして病没しました。慶長12年(1607年)、享年34でした。

※1:のちに、福井藩(あるいは越前藩)と呼ばれます。初代の[結城(松平)秀康]から2代の[忠直]までの時代をとくに「北ノ荘藩」と呼ばれていました。

※2:江戸時代になり、家康の後を嗣ぎ、江戸幕府の第2代征夷大将軍となったのは、母親が[西郷局]の三男の[秀忠]でした。

___【 福井城(北ノ庄城)跡周辺にある施設 】___

● 北ノ庄城址・柴田公園

 住所は、福井市中央1。現在の福井城本丸跡のおよそ0.5km南側に位置します。柴田神社境内に北ノ庄城址があり、発掘調査が行われた上で、北の庄城址・柴田公園として整備・遺構展示されています。広くない場所ですが、見どころが沢山あります。

・北の庄城址資料館:開館時間9:00〜18:00、入館無料。
・九十九橋(つくもばし)の橋脚:当時は足羽川に架かる北陸道の橋でした。橋の南半分が石、北半分が木で造られている、半石半木という構造でした。
・北ノ庄城堀跡
・日向門の礎石:福井城三の丸南曲輪にあった門。
・福井城堀と石垣
・柴田神社
・三姉妹神社:そばに、お市の方と三姉妹の像があります。

● 養浩館庭園

 江戸時代につくられた庭園で「御泉水屋敷(おせんすいやしき)」と称されていました。園池を主体とした回遊式林泉庭園になっています。かつては福井藩主松平家の別邸でした。また、お隣に「郷土歴史博物館」があります。

・住所:福井市宝永。県庁(本丸跡)から約700m、本丸内からは、北側の「北不明御門(きたあかずごもん)」から出ると近くなります。
・開館時間:3月1日〜11月5日=午前9時00分〜午後7時00分/11月6日〜2月末日=午前9時00分〜午後5時00分(※:6:00〜8:45の時間帯で、庭園部分のみ無料開放)
・休館日:休館日なし・年末年始(12月28日〜1月4日)は休み。
・入館料:210円/歴史博物館との共通券340円

● 福井市立郷土歴史博物館
 
 昭和28年、足羽山に開館していましたが、平成16年、「養浩館庭園」の隣に移転新築オープン。また、この場所にある福井城舎人門(とねりもん)遺構の「舎人門」が復原されています。この博物館には、郷土福井、福井藩、越前松平家に関する資料が充実しています。また、隣接している「養浩館庭園」も合わせて訪問して下さい。

・住所:福井市宝永3丁目。県庁(本丸跡)から約400m。
・開館時間:午前9時00分〜午後7時00分/11月7日〜2月末日=午前9時00分〜午後5時00分)
休館日:休館日なし・年末年始(12月28日〜1月4日)は休み。
・入館料:210円/養浩館庭園との共通券340円
コース状況/
危険箇所等
___【 コースの状況等 】___

● 一条城山の3本の登山道は、いずれも危険箇所はありません。

● ただし、「下城戸ルート」の途中から分岐している[送電鉄塔巡視路]には、立ち入らないで下さい。だいぶ道が崩落しています。
その他周辺情報 ● 美山森林温泉「みらくる停」

 住所は福井市市波町。旧・足羽郡(あすわぐん)美山町(みやまちょう)だった所です。美山という旧地名のとおり、美しい森林で覆われた場所にある温泉宿で、森林浴と温泉浴の両方を体験できます。一乗谷(朝倉氏遺跡)から「みらくる停」までは、5km程の距離です。県道18号線から国道158号線に入り、足羽川上流方向に進みます。

・泉質:ナトリウム・カルシウム−硫酸塩泉(低張性・中性・低温泉)
・営業時間:午前10時00分〜午後9時00分
 (※毎週火曜15:30〜21:00)
・朝風呂:午前6時00分〜午前9時00分
・休館日:なし
・外来入浴料:510円
・宿泊料金:1泊2食10,900円〜
ーー《 第一部 》ーー
2018年4月29日、車での訪問です。一乗滝、朝倉氏遺跡を見て回った後、一乗城山(いちじょうしろやま)に登山しました。一乗谷からではなく、山の東側の林道美山線に入り、[三万谷(さんまんだに)ルート]を登りました。
2018年04月29日 04:25撮影
4/29 4:25
ーー《 第一部 》ーー
2018年4月29日、車での訪問です。一乗滝、朝倉氏遺跡を見て回った後、一乗城山(いちじょうしろやま)に登山しました。一乗谷からではなく、山の東側の林道美山線に入り、[三万谷(さんまんだに)ルート]を登りました。
< 一乗谷へのアクセス >
● 列車では=北陸本線「福井駅」−越美北線(通称:九頭竜線)−一乗谷駅−周遊バス(週末のみ運行)/もしくは徒歩−朝倉氏遺跡
● 車では=北陸道「福井IC」−国道158号線−天神橋−県道31号線−安波賀(あばか)橋の手前で県道18号線−朝倉氏遺跡
< 一乗谷へのアクセス >
● 列車では=北陸本線「福井駅」−越美北線(通称:九頭竜線)−一乗谷駅−周遊バス(週末のみ運行)/もしくは徒歩−朝倉氏遺跡
● 車では=北陸道「福井IC」−国道158号線−天神橋−県道31号線−安波賀(あばか)橋の手前で県道18号線−朝倉氏遺跡
< 福井ICを出る >
私は、石川県七尾市(能登)に在住しています。初日は自家用車で、朝早く七尾を出発しました。運転時間は、七尾市から福井市まで約2時間です。
2018年04月29日 07:45撮影
4/29 7:45
< 福井ICを出る >
私は、石川県七尾市(能登)に在住しています。初日は自家用車で、朝早く七尾を出発しました。運転時間は、七尾市から福井市まで約2時間です。
< 天神交差点で右折 >
国道158号線を東に進み(大野方面)、この交差点を右折して、県道31号線に入ります。
2018年04月29日 07:50撮影
4/29 7:50
< 天神交差点で右折 >
国道158号線を東に進み(大野方面)、この交差点を右折して、県道31号線に入ります。
< 天神橋を渡り左折 >
足羽川(あすわがわ)の左岸側を通行します。
2018年04月29日 07:51撮影
4/29 7:51
< 天神橋を渡り左折 >
足羽川(あすわがわ)の左岸側を通行します。
< 水の駅−資料館 >
足羽川頭首工(あすわがわとうしゅこう)のある付近です。この辺りは、登山のあとに訪問します。
2018年04月29日 07:52撮影
4/29 7:52
< 水の駅−資料館 >
足羽川頭首工(あすわがわとうしゅこう)のある付近です。この辺りは、登山のあとに訪問します。
< 踏切を渡り県道31から18号線へ >
[九頭竜線]が県道31号線を横切る踏切「安波賀(あばか)村下」を渡ります。
2018年04月29日 07:53撮影
4/29 7:53
< 踏切を渡り県道31から18号線へ >
[九頭竜線]が県道31号線を横切る踏切「安波賀(あばか)村下」を渡ります。
< 安波賀橋のたも >
〜にある案内図です。先ずは、[一乗谷川]上流にある「一乗滝」を見に行きます。
2018年04月29日 07:53撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 7:53
< 安波賀橋のたも >
〜にある案内図です。先ずは、[一乗谷川]上流にある「一乗滝」を見に行きます。
< 向山橋−下城戸(しもきど) >
「安波賀橋」の約170m上流に、左手にみえる「向山橋」が位置しています。この向山橋を渡った先に、一条城山(いちじょうしろやま)の登山道(下城戸ルート)があります。あとで、下城戸(Simokido Gate)も併せてあとで訪問します。
2018年04月29日 07:53撮影
4/29 7:53
< 向山橋−下城戸(しもきど) >
「安波賀橋」の約170m上流に、左手にみえる「向山橋」が位置しています。この向山橋を渡った先に、一条城山(いちじょうしろやま)の登山道(下城戸ルート)があります。あとで、下城戸(Simokido Gate)も併せてあとで訪問します。
< 公園センター−朝倉大橋 >
城戸ノ内(きどのうち)を通る県道18号線車を走らせていると〜一乗谷史跡公園センター、朝倉大橋、御屋形橋、諏訪館橋〜と左手に景色が流れていきます。
2018年04月29日 07:54撮影
4/29 7:54
< 公園センター−朝倉大橋 >
城戸ノ内(きどのうち)を通る県道18号線車を走らせていると〜一乗谷史跡公園センター、朝倉大橋、御屋形橋、諏訪館橋〜と左手に景色が流れていきます。
< 地区と町並 >
〜を横切ります。平面復元地区−雲正寺地区−復元町並〜とならんでいます。「一乗滝」を見てきてから、復元町並の南出入口に戻ってきます。
2018年04月29日 07:55撮影
4/29 7:55
< 地区と町並 >
〜を横切ります。平面復元地区−雲正寺地区−復元町並〜とならんでいます。「一乗滝」を見てきてから、復元町並の南出入口に戻ってきます。
< 上城戸を2度横切り >
〜ます。「一乗滝」への往復した時の写真(ドライブレコーダーの物)です。上城戸(かみきど、Kamikido Gate)は、一乗谷の南側の城壁です。つまり、Upper Castle Door〜でもあります。
2018年04月29日 08:28撮影
4/29 8:28
< 上城戸を2度横切り >
〜ます。「一乗滝」への往復した時の写真(ドライブレコーダーの物)です。上城戸(かみきど、Kamikido Gate)は、一乗谷の南側の城壁です。つまり、Upper Castle Door〜でもあります。
< 一乗滝園地駐車場 >
「一乗滝」はこの駐車場から200mほど歩いた先にあります。途中、2つの橋を渡ります(免弥橋と小次郎橋)。
2018年04月29日 08:12撮影
4/29 8:12
< 一乗滝園地駐車場 >
「一乗滝」はこの駐車場から200mほど歩いた先にあります。途中、2つの橋を渡ります(免弥橋と小次郎橋)。
< 小次郎の姿入の案内図 >
〜に手を加えてみました。一乗城山の登山道である〜[下城戸ルート]、[馬出ルート]、[蛇谷ルート]の3本が描かれていましたが、[蛇谷ルート]は2004年に閉鎖されました。この図では描かれていませんが、山の東側と通行する『林道美山線』にある登山口から登る[三万谷ルート]もあります。
2018年04月29日 08:12撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 8:12
< 小次郎の姿入の案内図 >
〜に手を加えてみました。一乗城山の登山道である〜[下城戸ルート]、[馬出ルート]、[蛇谷ルート]の3本が描かれていましたが、[蛇谷ルート]は2004年に閉鎖されました。この図では描かれていませんが、山の東側と通行する『林道美山線』にある登山口から登る[三万谷ルート]もあります。
< どうぞぅ(銅像)ご覧あれ! >
『佐々木小次郎』の銅像(どうぞぅ)を〜
おっと、必殺「燕返し」を喰らいそう?
2018年04月29日 08:16撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 8:16
< どうぞぅ(銅像)ご覧あれ! >
『佐々木小次郎』の銅像(どうぞぅ)を〜
おっと、必殺「燕返し」を喰らいそう?
< 佐々木小次郎のいわれ >
『二天記(にてんき)』という書物によると、「佐々木(岩流)小次郎」どのは、この近くの〜浄教寺(じょうきょうじ)村=現・福井市浄教寺町〜の出身とか。
2018年04月29日 08:17撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 8:17
< 佐々木小次郎のいわれ >
『二天記(にてんき)』という書物によると、「佐々木(岩流)小次郎」どのは、この近くの〜浄教寺(じょうきょうじ)村=現・福井市浄教寺町〜の出身とか。
< 一乗谷川の上流である一乗滝 >
プラス効果のあるマイナスIon〜がタップリです。
2018年04月29日 08:18撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 8:18
< 一乗谷川の上流である一乗滝 >
プラス効果のあるマイナスIon〜がタップリです。
< 一乗滝の由来 >
滝の落差は12m、滝に上には白滝神社が建てられています。滝の源流は、小白山とも呼ばれる『一乗山(いちじょうざん、741m)』です。グーグルマップではなぜかしら、今回、登山する『一乗城山(いちじょうしろやま、474m)』と混同されています。さて、朝倉氏遺跡のある所に引き返します。
2018年04月29日 08:18撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 8:18
< 一乗滝の由来 >
滝の落差は12m、滝に上には白滝神社が建てられています。滝の源流は、小白山とも呼ばれる『一乗山(いちじょうざん、741m)』です。グーグルマップではなぜかしら、今回、登山する『一乗城山(いちじょうしろやま、474m)』と混同されています。さて、朝倉氏遺跡のある所に引き返します。
< 諏訪館橋 >
〜を渡ります。はるばる能登から走らせてきたマイカーは、復元町並南出入口の駐車場(川合殿駐車場)に停めました。
2018年04月29日 08:42撮影
4/29 8:42
< 諏訪館橋 >
〜を渡ります。はるばる能登から走らせてきたマイカーは、復元町並南出入口の駐車場(川合殿駐車場)に停めました。
< 遺跡めぐりの遊歩道 >
一乗谷全体に遺跡が広がっていますが、朝倉義景館と4つの庭園を中心にめぐる部分をラインマークしてみました。
1
< 遺跡めぐりの遊歩道 >
一乗谷全体に遺跡が広がっていますが、朝倉義景館と4つの庭園を中心にめぐる部分をラインマークしてみました。
< 橋の上で振り返る >
〜と、復元町並南出入口の管理棟が見えます。一乗谷川の上流側を見ると、「上城戸」があるのが判ります。
2018年04月29日 08:43撮影
4/29 8:43
< 橋の上で振り返る >
〜と、復元町並南出入口の管理棟が見えます。一乗谷川の上流側を見ると、「上城戸」があるのが判ります。
< 6本の樹木 >
〜が綺麗に並べられています。南の上城戸の方向です。この先、遊歩道は、「上城戸跡」を通り、「一乗ふるさと交流館」まで延びています。一乗谷の遊歩道は、「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」から始まり、南側の「一乗ふるさと交流館」で終わっています。全長、約3kmにも及びます。
2018年04月29日 08:44撮影
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< 6本の樹木 >
〜が綺麗に並べられています。南の上城戸の方向です。この先、遊歩道は、「上城戸跡」を通り、「一乗ふるさと交流館」まで延びています。一乗谷の遊歩道は、「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」から始まり、南側の「一乗ふるさと交流館」で終わっています。全長、約3kmにも及びます。
< 第60回全国植樹祭 >
アカマツ(1本)、ケヤキ(1本)、スダジイ(1本)、トチノキ(1本)、ウワズミザクラ(2本)〜の5種類が植樹されています。平成21年の全国植樹祭にあわせて、天皇皇后両陛下が行幸されました。
2018年04月29日 08:46撮影
4/29 8:46
< 第60回全国植樹祭 >
アカマツ(1本)、ケヤキ(1本)、スダジイ(1本)、トチノキ(1本)、ウワズミザクラ(2本)〜の5種類が植樹されています。平成21年の全国植樹祭にあわせて、天皇皇后両陛下が行幸されました。
< 御製(ぎょせい) >
生徒らの
心を込めて
作りたる
鍬を手に持ち
苗植ゑにけり
2018年04月29日 08:46撮影
4/29 8:46
< 御製(ぎょせい) >
生徒らの
心を込めて
作りたる
鍬を手に持ち
苗植ゑにけり
< ウワズミザクラ(上溝桜) >
バラ科ウワミズザクラ属。他属の「イヌザクラ(犬桜、バラ科サクラ属)」とよく似ています。ウワズミザクラと違い、イヌザクラの花序枝には葉がつかないので、区別できます。
2018年04月29日 08:47撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 8:47
< ウワズミザクラ(上溝桜) >
バラ科ウワミズザクラ属。他属の「イヌザクラ(犬桜、バラ科サクラ属)」とよく似ています。ウワズミザクラと違い、イヌザクラの花序枝には葉がつかないので、区別できます。
< 花ビラより雄しべ >
〜が目立つバラ科の花です。雄しべが長くなっているため、白いブラシのように見えます。
2018年04月29日 08:47撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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4/29 8:47
< 花ビラより雄しべ >
〜が目立つバラ科の花です。雄しべが長くなっているため、白いブラシのように見えます。
< 米津に置かれているマップ >
諏訪館橋を渡った前の広場が、[米津(よねづ)]という場所です。刀装具を製作していた場所らしい。
2018年04月29日 08:50撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 8:50
< 米津に置かれているマップ >
諏訪館橋を渡った前の広場が、[米津(よねづ)]という場所です。刀装具を製作していた場所らしい。
< シャガ(射干) >
アヤメ科アヤメ属。蛇谷の小川が一乗谷川の流れ込む手前の所で、この花たちが群生していました。ちなみに、よく似ている同属の「ヒメジャガ(姫射干)」は水が苦手なので、水を好むシャガと違って、乾いた尾根沿いに見られることが多いです。
2018年04月29日 08:53撮影
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< シャガ(射干) >
アヤメ科アヤメ属。蛇谷の小川が一乗谷川の流れ込む手前の所で、この花たちが群生していました。ちなみに、よく似ている同属の「ヒメジャガ(姫射干)」は水が苦手なので、水を好むシャガと違って、乾いた尾根沿いに見られることが多いです。
< ヤマザトタンポポ(山里蒲公英) >
キク科タンポポ属。川合殿駐車場には、外来種のセイヨウタンポポの大軍団が押し寄せて(咲き誇って)いました。一方、この在来種のヤマザトタンポポは、庭園の中に立て籠もっていました。
2018年04月29日 08:53撮影
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< ヤマザトタンポポ(山里蒲公英) >
キク科タンポポ属。川合殿駐車場には、外来種のセイヨウタンポポの大軍団が押し寄せて(咲き誇って)いました。一方、この在来種のヤマザトタンポポは、庭園の中に立て籠もっていました。
< 諏訪館跡庭園 >
諏訪館の跡とその庭園です。「諏訪館」は、一乗谷朝倉氏第5代[義景]の側室[少将]のために建てられたといいいます。[少将]殿は、諏訪館に住むようになってから、『諏訪殿』とも呼ばれるようになりました。
2018年04月29日 08:55撮影
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< 諏訪館跡庭園 >
諏訪館の跡とその庭園です。「諏訪館」は、一乗谷朝倉氏第5代[義景]の側室[少将]のために建てられたといいいます。[少将]殿は、諏訪館に住むようになってから、『諏訪殿』とも呼ばれるようになりました。
< 英林塚 >
〜は、初代[孝景]公墓所です。[孝景]は、越前朝倉氏第7代ですが、一乗谷朝倉氏としては第1代(初代)です。15世紀後半、第7代[孝景]が越前国守護に任ぜられた事により、一乗谷の初代となりました。ちなみに、[孝景]が初めて本拠地をここ一乗谷に移したというのは通説で、もっと前から、一乗谷に御屋形の屋敷が出来ていたという。
2018年04月29日 09:04撮影
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< 英林塚 >
〜は、初代[孝景]公墓所です。[孝景]は、越前朝倉氏第7代ですが、一乗谷朝倉氏としては第1代(初代)です。15世紀後半、第7代[孝景]が越前国守護に任ぜられた事により、一乗谷の初代となりました。ちなみに、[孝景]が初めて本拠地をここ一乗谷に移したというのは通説で、もっと前から、一乗谷に御屋形の屋敷が出来ていたという。
< シロヤブケマン(白藪華鬘) >
ケシ科キケマン属。英林塚のそばに咲いていました。ムラサキケマンの変種です。朝倉氏遺跡には、なんだか不思議な(珍しい)品種の植物が多いのかも?
2018年04月29日 09:08撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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< シロヤブケマン(白藪華鬘) >
ケシ科キケマン属。英林塚のそばに咲いていました。ムラサキケマンの変種です。朝倉氏遺跡には、なんだか不思議な(珍しい)品種の植物が多いのかも?
< ムラサキケマン(紫華鬘) >
ケシ科キケマン属。前出のシロヤブケマンから少し離れた所で群生していました。こちらのものは、沢山見られます。
2018年04月29日 09:09撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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< ムラサキケマン(紫華鬘) >
ケシ科キケマン属。前出のシロヤブケマンから少し離れた所で群生していました。こちらのものは、沢山見られます。
< 南陽寺跡庭園 >
南陽寺は尼寺でした。右手奥にある庭園を過ぎたところには「ビクニン清水」という湧き水が出ています。[ビクニン]は、比丘尼(びくに)=尼僧〜を表しているのだと思います。
2018年04月29日 09:11撮影
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< 南陽寺跡庭園 >
南陽寺は尼寺でした。右手奥にある庭園を過ぎたところには「ビクニン清水」という湧き水が出ています。[ビクニン]は、比丘尼(びくに)=尼僧〜を表しているのだと思います。
< 南陽寺跡の由緒 >
一乗谷朝倉氏第3代[貞景(さだかげ)]=越前朝倉氏第9代が、廃れていた先祖のお寺を、この場所に再興したものだという。
2018年04月29日 09:12撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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< 南陽寺跡の由緒 >
一乗谷朝倉氏第3代[貞景(さだかげ)]=越前朝倉氏第9代が、廃れていた先祖のお寺を、この場所に再興したものだという。
< 歌碑 >
永禄11年(1568年)4月、幕府最後の将軍[足利義昭]公を招き、この場所で、観桜の歌会を催したという。義昭公は、朝倉館で元服し義秋あらため義昭に改名しました(この時の加冠役は朝倉義景)。この年の9月には織田・浅井軍に守られ、上洛をはたし、第15代将軍に就任しています。
2018年04月29日 09:13撮影
4/29 9:13
< 歌碑 >
永禄11年(1568年)4月、幕府最後の将軍[足利義昭]公を招き、この場所で、観桜の歌会を催したという。義昭公は、朝倉館で元服し義秋あらため義昭に改名しました(この時の加冠役は朝倉義景)。この年の9月には織田・浅井軍に守られ、上洛をはたし、第15代将軍に就任しています。
< 歌碑 >

もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はば [義昭]

君が代の時にあいあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉 [義景]

※:糸桜とは、枝垂桜(しだれざくら)のことです。
2018年04月29日 09:13撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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< 歌碑 >

もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はば [義昭]

君が代の時にあいあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉 [義景]

※:糸桜とは、枝垂桜(しだれざくら)のことです。
< 瓜割清水へ下ります >
民家の間を通行し道路に出ます。右手に出てすぐの所に清水(しょうず)があるのですが〜手前に1つ建物があります。
2018年04月29日 09:19撮影
4/29 9:19
< 瓜割清水へ下ります >
民家の間を通行し道路に出ます。右手に出てすぐの所に清水(しょうず)があるのですが〜手前に1つ建物があります。
< 消防団一乗分団 >
〜です。隣の広場の奥に「瓜割清水」があります。
2018年04月29日 09:21撮影
4/29 9:21
< 消防団一乗分団 >
〜です。隣の広場の奥に「瓜割清水」があります。
< 瓜割清水の由緒 >
[瓜割清水(うりわりしょうず)]−南陽時跡の[ビクニン清水]−城山の山腹にある[不動清水」〜と上下に水脈が結ばれているらしい?
2018年04月29日 09:23撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 9:23
< 瓜割清水の由緒 >
[瓜割清水(うりわりしょうず)]−南陽時跡の[ビクニン清水]−城山の山腹にある[不動清水」〜と上下に水脈が結ばれているらしい?
< 瓜が割れる >
〜くらい冷たい清水? 冷たい水で瓜が自然に割れたという故事が、名の由来のようです。
2018年04月29日 09:24撮影
4/29 9:24
< 瓜が割れる >
〜くらい冷たい清水? 冷たい水で瓜が自然に割れたという故事が、名の由来のようです。
< 馬出(うまだし)ルート >
〜の入口を見てきます。瓜割清水から、一乗谷川の右岸側の道路を約500m下流側(北方向)に歩きました。斜めに伸びている横道を60mほど進むと登山口です。
2018年04月29日 09:32撮影
4/29 9:32
< 馬出(うまだし)ルート >
〜の入口を見てきます。瓜割清水から、一乗谷川の右岸側の道路を約500m下流側(北方向)に歩きました。斜めに伸びている横道を60mほど進むと登山口です。
< 馬出ルート登山口 >
左側にある鳥居をくぐり石段を登ると「八幡神社」のお社があります。右ななめに登る坂道が馬出ルートです。
2018年04月29日 09:33撮影
4/29 9:33
< 馬出ルート登山口 >
左側にある鳥居をくぐり石段を登ると「八幡神社」のお社があります。右ななめに登る坂道が馬出ルートです。
< 馬出ルートと山城の説明 >
山頂まで約1.5km/約1時間〜となっています。往々にして、案内されている所要時間には、休憩時間が含まれていないと思いますので、一気に登ることの出来る健脚の方以外は、2,3割多く時間をみた方が良いでしょう。
2018年04月29日 09:34撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 9:34
< 馬出ルートと山城の説明 >
山頂まで約1.5km/約1時間〜となっています。往々にして、案内されている所要時間には、休憩時間が含まれていないと思いますので、一気に登ることの出来る健脚の方以外は、2,3割多く時間をみた方が良いでしょう。
< 登山道は3本 >
〜あります。
[馬出ルート]:この登山口からのルート。
[下城戸(しもきど)ルート]:下城戸のある安波賀(あばか)集落から登るルートで安波賀ルートとも呼ばれます。
[三万谷(さんまんだに)ルート]:東麓側の三万谷を通る『林道美山線』の途中にある登山口から登るルート。
2018年04月29日 09:43撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 9:43
< 登山道は3本 >
〜あります。
[馬出ルート]:この登山口からのルート。
[下城戸(しもきど)ルート]:下城戸のある安波賀(あばか)集落から登るルートで安波賀ルートとも呼ばれます。
[三万谷(さんまんだに)ルート]:東麓側の三万谷を通る『林道美山線』の途中にある登山口から登るルート。
< 下城戸橋を渡り >
〜一乗谷川の左岸側の県道18号線に出ました。今朝、車で通り過ぎていた「下城戸(しもきど)」です。英語の表記は[Simokido Gate]ですが、意訳すると[ Lower Castle Door]となります。
2018年04月29日 09:50撮影
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4/29 9:50
< 下城戸橋を渡り >
〜一乗谷川の左岸側の県道18号線に出ました。今朝、車で通り過ぎていた「下城戸(しもきど)」です。英語の表記は[Simokido Gate]ですが、意訳すると[ Lower Castle Door]となります。
< 遺跡の案内 >
案内図にある[蛇谷コース]は、閉鎖(廃道)されています。平成16年(2004年)の福井豪雨で道が損壊したからは、再開されていません。
2018年04月29日 09:50撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 9:50
< 遺跡の案内 >
案内図にある[蛇谷コース]は、閉鎖(廃道)されています。平成16年(2004年)の福井豪雨で道が損壊したからは、再開されていません。
< 向山橋 >
山側に向かうための橋(向かう山・橋)です。
2018年04月29日 09:55撮影
4/29 9:55
< 向山橋 >
山側に向かうための橋(向かう山・橋)です。
< 下城戸ルートへ >
下城戸ルートの登山口を確認してきます。一乗谷川の最下流(足羽川との合流点)に位置する県道18号線の[安波賀橋](※)からも、このルートに入って来れます。
※:県道18号線の安波賀橋から国道158号線とぶつかる位置(下新橋の袂)までの1.8kmの区間が、県道31号線と重複しています。
2018年04月29日 09:57撮影
4/29 9:57
< 下城戸ルートへ >
下城戸ルートの登山口を確認してきます。一乗谷川の最下流(足羽川との合流点)に位置する県道18号線の[安波賀橋](※)からも、このルートに入って来れます。
※:県道18号線の安波賀橋から国道158号線とぶつかる位置(下新橋の袂)までの1.8kmの区間が、県道31号線と重複しています。
< 下城戸ルート登山口 >
登山の口はチャックされています?=ファスナー付のネットフェンスで防御されています。
2018年04月29日 09:58撮影
4/29 9:58
< 下城戸ルート登山口 >
登山の口はチャックされています?=ファスナー付のネットフェンスで防御されています。
< 城山と下城戸ルート >
〜の説明パネルです。さて、ここでUターンします。県道18号線を南下して、復元町並に戻ります。
2018年04月29日 09:59撮影
4/29 9:59
< 城山と下城戸ルート >
〜の説明パネルです。さて、ここでUターンします。県道18号線を南下して、復元町並に戻ります。
< 朝倉景鏡館跡 >
[義景(朝倉氏最後の当主)]の従弟であったとされる(諸説あり)[景鏡(かげあきら)]の館跡です。
2018年04月29日 10:13撮影
4/29 10:13
< 朝倉景鏡館跡 >
[義景(朝倉氏最後の当主)]の従弟であったとされる(諸説あり)[景鏡(かげあきら)]の館跡です。
< 最後の当主となった義景を >
〜[景鏡]は裏切ってしまいました。天正元年(1573年)、一乗谷城の戦いで一乗谷が炎上してしまった時、[義景]は、[景鏡]をたより、大野郡にあった賢松寺(のちに廃寺)に避難したにですが、翻意した[景鏡」に襲われ自害に追い込まれました。
2018年04月29日 10:14撮影
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< 最後の当主となった義景を >
〜[景鏡]は裏切ってしまいました。天正元年(1573年)、一乗谷城の戦いで一乗谷が炎上してしまった時、[義景]は、[景鏡]をたより、大野郡にあった賢松寺(のちに廃寺)に避難したにですが、翻意した[景鏡」に襲われ自害に追い込まれました。
< 一乗谷史跡公園センター >
前にあるバス停が「一乗谷レストラン前」となっています。実は、2015年、公園センター内の食堂「朝倉亭」を改装して、民間委託の『一乗谷レストラン』がオープンしたのですが、昨年(2017年)廃業してしまいました。
2018年04月29日 10:18撮影
4/29 10:18
< 一乗谷史跡公園センター >
前にあるバス停が「一乗谷レストラン前」となっています。実は、2015年、公園センター内の食堂「朝倉亭」を改装して、民間委託の『一乗谷レストラン』がオープンしたのですが、昨年(2017年)廃業してしまいました。
< 旧・一乗谷レストラン >
公園管理事務所(センター)の離れになっている棟が、レストランだった部分です。
2018年04月29日 10:19撮影
4/29 10:19
< 旧・一乗谷レストラン >
公園管理事務所(センター)の離れになっている棟が、レストランだった部分です。
< 色々ある案内図の中でも >
〜このように秀逸なマップが掲示されていました。
2018年04月29日 10:19撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 10:19
< 色々ある案内図の中でも >
〜このように秀逸なマップが掲示されていました。
< 平面復元地区 >
地名では[赤渕・奥間野]地区になります。奥にある谷間は[八地谷(やちだに)]と呼ばれます。[八地谷]から峠を越え尾根伝いに進むと、「槇山城(まきやまじょう)」に至ります。さて、県道に沿って南下し、[復元町並]の手前で[朝倉義景館]跡に入館します。
2018年04月29日 10:20撮影
4/29 10:20
< 平面復元地区 >
地名では[赤渕・奥間野]地区になります。奥にある谷間は[八地谷(やちだに)]と呼ばれます。[八地谷]から峠を越え尾根伝いに進むと、「槇山城(まきやまじょう)」に至ります。さて、県道に沿って南下し、[復元町並]の手前で[朝倉義景館]跡に入館します。
< 朝倉大橋 >
〜を渡ります。トイレと休憩所の横を通り、[朝倉義景館]の『唐門』の前の広場(通称=犬の馬場)に出ます。
2018年04月29日 10:33撮影
4/29 10:33
< 朝倉大橋 >
〜を渡ります。トイレと休憩所の横を通り、[朝倉義景館]の『唐門』の前の広場(通称=犬の馬場)に出ます。
< 朝倉館とその周辺 >
この案内板に載っている地図を見ると、外濠と空濠に囲まれた朝倉館は[本丸]のように見えます。城山の上にある[一乗山城]の曲輪が、下から上に〜一の丸−二の丸−三の丸〜と並んでいるのは、本丸である朝倉館側(一乗谷側)から見た順番になっているようです。
2018年04月29日 10:34撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 10:34
< 朝倉館とその周辺 >
この案内板に載っている地図を見ると、外濠と空濠に囲まれた朝倉館は[本丸]のように見えます。城山の上にある[一乗山城]の曲輪が、下から上に〜一の丸−二の丸−三の丸〜と並んでいるのは、本丸である朝倉館側(一乗谷側)から見た順番になっているようです。
< [犬の馬場]の西側 >
〜(一乗谷川の川渕)から撮影しました。朝倉館跡の後方(東側)には、一乗城山(いちじょうしろやま)が控えています。曲輪の位置を推測してみましたが、山頂部分(三の丸)見えません。おそらく、[八地谷]を西方向に数100m進まないと山頂は見えないと思います。
2018年04月29日 10:35撮影
4/29 10:35
< [犬の馬場]の西側 >
〜(一乗谷川の川渕)から撮影しました。朝倉館跡の後方(東側)には、一乗城山(いちじょうしろやま)が控えています。曲輪の位置を推測してみましたが、山頂部分(三の丸)見えません。おそらく、[八地谷]を西方向に数100m進まないと山頂は見えないと思います。
< 唐門 >
館の西門(※)に相当します。唐破風の山門です。
※:かって、館には〜北門・西門・中門〜の三門がありました。
2018年04月29日 10:36撮影
4/29 10:36
< 唐門 >
館の西門(※)に相当します。唐破風の山門です。
※:かって、館には〜北門・西門・中門〜の三門がありました。
< かっての「松雲院」 >
〜の山門でした。昔、敷地内にあった寺院の「松雲院」の山門を館跡の正面に据えた(移築した)物だそうです。「松雲院」は福井市足羽町にある「心月寺」に統合されてしまい、今はありません。
2018年04月29日 10:35撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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4/29 10:35
< かっての「松雲院」 >
〜の山門でした。昔、敷地内にあった寺院の「松雲院」の山門を館跡の正面に据えた(移築した)物だそうです。「松雲院」は福井市足羽町にある「心月寺」に統合されてしまい、今はありません。
< 朝倉義景館の説明 >
大きく2つのパートに分けられます。庭園などを配した=接客機能の[主殿]と、キッチン(台所)も備えた=主の日常生活の場となる[常御殿]〜に大別されます。
2018年04月29日 10:37撮影
4/29 10:37
< 朝倉義景館の説明 >
大きく2つのパートに分けられます。庭園などを配した=接客機能の[主殿]と、キッチン(台所)も備えた=主の日常生活の場となる[常御殿]〜に大別されます。
< 義景公墓所 >
天正4年(1576年)、村民が建てた祠が始まりでした。のちに、福井藩主「松平光通」によって現在の墓塔が建立されました。大野市の[義景公園]にも、義景公の墓所がありますが、江戸時代に建立されたものです。
2018年04月29日 10:40撮影
4/29 10:40
< 義景公墓所 >
天正4年(1576年)、村民が建てた祠が始まりでした。のちに、福井藩主「松平光通」によって現在の墓塔が建立されました。大野市の[義景公園]にも、義景公の墓所がありますが、江戸時代に建立されたものです。
< 4庭園が特別名勝に指定 >
〜されています。[義景館跡庭園]、[湯殿跡庭園]、[諏訪館跡庭園]、[南陽寺跡庭園]〜の4つです。ここ[義景館跡庭園]は、規模は小さいながらも、巧みに造られた九十九折りの導水路が見事です。
2018年04月29日 10:41撮影
4/29 10:41
< 4庭園が特別名勝に指定 >
〜されています。[義景館跡庭園]、[湯殿跡庭園]、[諏訪館跡庭園]、[南陽寺跡庭園]〜の4つです。ここ[義景館跡庭園]は、規模は小さいながらも、巧みに造られた九十九折りの導水路が見事です。
< 導水路の上の方から >
〜見下ろしました。庭園右手の階段を登ると、見晴らし場所がありました。
2018年04月29日 10:42撮影
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4/29 10:42
< 導水路の上の方から >
〜見下ろしました。庭園右手の階段を登ると、見晴らし場所がありました。
< 第5代当主=[義景] >
〜の館の図面。義景公は、一乗谷朝倉氏としては、第5代ですが、越前朝倉氏としては第11代です。越前朝倉氏第7代孝景公が、一乗谷に本拠地を置いたことで、一乗谷の朝倉氏として初代=[孝景]と数えられるようになりました。
2018年04月29日 10:43撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 10:43
< 第5代当主=[義景] >
〜の館の図面。義景公は、一乗谷朝倉氏としては、第5代ですが、越前朝倉氏としては第11代です。越前朝倉氏第7代孝景公が、一乗谷に本拠地を置いたことで、一乗谷の朝倉氏として初代=[孝景]と数えられるようになりました。
< ムラサキサギゴケ(紫鷺苔) >
ハエドクソウ科サギゴケ亜科サギゴケ属。[義景館跡庭園]の導水路のそばで咲いていました。
2018年04月29日 10:44撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 10:44
< ムラサキサギゴケ(紫鷺苔) >
ハエドクソウ科サギゴケ亜科サギゴケ属。[義景館跡庭園]の導水路のそばで咲いていました。
< 朝倉館の上に上がりました >
この十字路かた見上げると、今朝、通行した[英林塚−南陽寺跡]間の通路が見えました。
2018年04月29日 10:50撮影
4/29 10:50
< 朝倉館の上に上がりました >
この十字路かた見上げると、今朝、通行した[英林塚−南陽寺跡]間の通路が見えました。
< 湯殿跡庭園 >
曲がってすぐに、この庭園があります。
2018年04月29日 10:51撮影
4/29 10:51
< 湯殿跡庭園 >
曲がってすぐに、この庭園があります。
< 庭園の平面図を拡大 >
〜してみました。[湯殿跡庭園]から南東方向に[英林塚]がありますが、両者の間には築山のような小山があり、『観音山』と呼ばれています。義景公も、この庭から観音山を仰ぎ見ていたことでしょう。
2018年04月29日 10:52撮影
4/29 10:52
< 庭園の平面図を拡大 >
〜してみました。[湯殿跡庭園]から南東方向に[英林塚]がありますが、両者の間には築山のような小山があり、『観音山』と呼ばれています。義景公も、この庭から観音山を仰ぎ見ていたことでしょう。
< 空濠に架かる橋 >
〜を渡り、「中の御殿跡」に行きます。橋の上から、西方向を見下ろしました。橋の下を通る空濠が下側に下がると、水をたたえた外濠に移行しています。
2018年04月29日 10:53撮影
4/29 10:53
< 空濠に架かる橋 >
〜を渡り、「中の御殿跡」に行きます。橋の上から、西方向を見下ろしました。橋の下を通る空濠が下側に下がると、水をたたえた外濠に移行しています。
< 中の御殿跡 >
義景の実母「広徳院(光徳院)」の屋敷跡と言われています。
2018年04月29日 10:54撮影
4/29 10:54
< 中の御殿跡 >
義景の実母「広徳院(光徳院)」の屋敷跡と言われています。
< 往時は庭園が >
〜造られていました。建物跡の南側の砂利が敷かれている部分が庭園でした。もし現存していたら『中の御殿跡庭園』〜とでも呼ばれていたかも知れません。
2018年04月29日 10:54撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 10:54
< 往時は庭園が >
〜造られていました。建物跡の南側の砂利が敷かれている部分が庭園でした。もし現存していたら『中の御殿跡庭園』〜とでも呼ばれていたかも知れません。
< 朝倉館は三方を >
〜外濠に囲まれています。三方それぞれに門がありました=北門、西門(現・唐門)、中門〜です。
※:中の御殿跡から見下ろした写真です。
2018年04月29日 10:54撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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4/29 10:54
< 朝倉館は三方を >
〜外濠に囲まれています。三方それぞれに門がありました=北門、西門(現・唐門)、中門〜です。
※:中の御殿跡から見下ろした写真です。
< 中の御殿の南門 >
〜から「中の御殿」を出ます。削平地(何かの跡地)とその削平地の前後を通行する二本の道を挟んで、ここから約70m南側に「諏訪館跡」があります。
2018年04月29日 10:55撮影
4/29 10:55
< 中の御殿の南門 >
〜から「中の御殿」を出ます。削平地(何かの跡地)とその削平地の前後を通行する二本の道を挟んで、ここから約70m南側に「諏訪館跡」があります。
< 中の御殿南門から下り >
〜始めた所で見下ろしました。降りてみて判りましたが、忠魂碑の隣りにある建物は、[朝倉神社]のお社でした(パンフレットや案内図に載っていません)。
2018年04月29日 10:58撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 10:58
< 中の御殿南門から下り >
〜始めた所で見下ろしました。降りてみて判りましたが、忠魂碑の隣りにある建物は、[朝倉神社]のお社でした(パンフレットや案内図に載っていません)。
< お参りしてから >
〜復元町並(北出入口)に向かいます。
2018年04月29日 10:59撮影
4/29 10:59
< お参りしてから >
〜復元町並(北出入口)に向かいます。
< 朝倉神社 >
由来はよくわかりませんが、ここ朝倉氏遺跡のある[城戸ノ内(きどのうち)]の方々が、奉つたのでしょう。
2018年04月29日 11:00撮影
4/29 11:00
< 朝倉神社 >
由来はよくわかりませんが、ここ朝倉氏遺跡のある[城戸ノ内(きどのうち)]の方々が、奉つたのでしょう。
< 北入場口へ >
[御屋形(おやかた)橋]をわたり、「復元町並」に入町します。
2018年04月29日 11:02撮影
4/29 11:02
< 北入場口へ >
[御屋形(おやかた)橋]をわたり、「復元町並」に入町します。
< 朝倉氏遺跡の観覧順路 >
復元町並北出入口−朝倉館−湯殿跡庭園−中の御殿跡−−諏訪館跡庭園−復元町並南出入口〜これでは国指定の4庭園の一つである[南陽寺跡庭園]を廻らないことに!
2018年04月29日 11:04撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 11:04
< 朝倉氏遺跡の観覧順路 >
復元町並北出入口−朝倉館−湯殿跡庭園−中の御殿跡−−諏訪館跡庭園−復元町並南出入口〜これでは国指定の4庭園の一つである[南陽寺跡庭園]を廻らないことに!
< もう少し大回り >
〜の観覧順路を考えてみました。復元町並南出入口からスタートします。反時計回りに進み−諏訪館跡庭園−英林塚−南陽寺跡庭園−朝倉館跡−湯殿跡庭園−中の御殿跡−復元町並北出入口−復元町並に入館−南出入口に戻る。
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< もう少し大回り >
〜の観覧順路を考えてみました。復元町並南出入口からスタートします。反時計回りに進み−諏訪館跡庭園−英林塚−南陽寺跡庭園−朝倉館跡−湯殿跡庭園−中の御殿跡−復元町並北出入口−復元町並に入館−南出入口に戻る。
< 受付・北入場口 >
〜を入りました。受付と棟続きでガイダンス(展示室)があり、鎧兜などが展示されています。
2018年04月29日 11:04撮影
4/29 11:04
< 受付・北入場口 >
〜を入りました。受付と棟続きでガイダンス(展示室)があり、鎧兜などが展示されています。
< 共通入場券 >
〜を購入しました。朝倉氏遺跡復元町並・資料館の共通入場券=230円です。復元町並の入館料は210円/資料館の入館料は100円(常設展示のみ)〜なのでオトクです。
< 共通入場券 >
〜を購入しました。朝倉氏遺跡復元町並・資料館の共通入場券=230円です。復元町並の入館料は210円/資料館の入館料は100円(常設展示のみ)〜なのでオトクです。
< 板葺きの屋根 >
〜と土塀が続きます。復元された屋敷の中で、背伸びをしてみました。御屋形橋とお館跡が覗けました。
2018年04月29日 11:10撮影
4/29 11:10
< 板葺きの屋根 >
〜と土塀が続きます。復元された屋敷の中で、背伸びをしてみました。御屋形橋とお館跡が覗けました。
< 復元武家屋敷 >
武家屋敷の座敷では、お侍や使用人に扮した人びとが、お芝居を披露してくれていました。リアルな感じで、再現ドラマ風でした。
2018年04月29日 11:13撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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< 復元武家屋敷 >
武家屋敷の座敷では、お侍や使用人に扮した人びとが、お芝居を披露してくれていました。リアルな感じで、再現ドラマ風でした。
< 復元町並地区 >
〜のマップ。往時より長い年月がたちました。一乗谷川の流が移動してい、町並みの遺構の一部が失われているようです。
2018年04月29日 11:16撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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< 復元町並地区 >
〜のマップ。往時より長い年月がたちました。一乗谷川の流が移動してい、町並みの遺構の一部が失われているようです。
< 町の南側で振り返りました >
下の写真は、南出入口の管理棟です。入場口と退場口が別々になっていて、出るときは、「あさくら売店」の中を通行します。
2018年04月29日 11:17撮影
4/29 11:17
< 町の南側で振り返りました >
下の写真は、南出入口の管理棟です。入場口と退場口が別々になっていて、出るときは、「あさくら売店」の中を通行します。
< 南出入口 >
〜には、 椨◆甦浜棟、=トイレ、ぁ甬抃峠蝓Χ焦処〜と建物が並んでいます。このうち、管理棟の,良分は「受付・南入場口」、△良分は「あさくら売店・出口(※)」〜となっています。
※:北から入場した場合の出口です。つまり、退場者は売店の中を通り抜けるようになっています。
2018年04月29日 11:19撮影
4/29 11:19
< 南出入口 >
〜には、 椨◆甦浜棟、=トイレ、ぁ甬抃峠蝓Χ焦処〜と建物が並んでいます。このうち、管理棟の,良分は「受付・南入場口」、△良分は「あさくら売店・出口(※)」〜となっています。
※:北から入場した場合の出口です。つまり、退場者は売店の中を通り抜けるようになっています。
< 三万谷に向かいます >
県道18号線を北上します。[下新橋]の所で、県道18号線が終点し、国道158号線(バイパスではなく本線)に入ります。
2018年04月29日 11:29撮影
4/29 11:29
< 三万谷に向かいます >
県道18号線を北上します。[下新橋]の所で、県道18号線が終点し、国道158号線(バイパスではなく本線)に入ります。
< 広域林道美山線 >
[下新橋]から800mほど走行すると、林道美山線の起点があります。[高田橋]の手前200mほどの位置が、林道入口(起点)です。
2018年04月29日 11:32撮影
4/29 11:32
< 広域林道美山線 >
[下新橋]から800mほど走行すると、林道美山線の起点があります。[高田橋]の手前200mほどの位置が、林道入口(起点)です。
< 登山口に到着 >
くねくね道(美山線)を10分間ほど運転しました。
2018年04月29日 11:40撮影
4/29 11:40
< 登山口に到着 >
くねくね道(美山線)を10分間ほど運転しました。
< 駐車場とベンチ >
林道はこの位置で通行止めでした。この先の土砂崩れが原因です。福井県のホームページによると、2018年7月末までの通行止めのようです。
2018年04月29日 11:41撮影
4/29 11:41
< 駐車場とベンチ >
林道はこの位置で通行止めでした。この先の土砂崩れが原因です。福井県のホームページによると、2018年7月末までの通行止めのようです。
< 白山・別山・三ノ峰 >
〜が見えました。眼下の谷間(画面右下)に、宇坂別所町(うさかべっしょちょう)の集落が見えました。三万谷町の集落が手前側にあるのですが、木々が邪魔して見えていません。
2018年04月29日 11:42撮影
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< 白山・別山・三ノ峰 >
〜が見えました。眼下の谷間(画面右下)に、宇坂別所町(うさかべっしょちょう)の集落が見えました。三万谷町の集落が手前側にあるのですが、木々が邪魔して見えていません。
< 美山線ルートマップ >
国道158号線の林道口(田尻町にある美山線の起点)からこの登山口まで約3.3kmです。白椿山(しろつばきやま)の山名が綺麗ですね。ここからは進めませんが、「一乗滝」の上から、藤懸線−白椿線〜と上がって行けば、白椿山に登れるかも(未確認)?
2018年04月29日 11:43撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 11:43
< 美山線ルートマップ >
国道158号線の林道口(田尻町にある美山線の起点)からこの登山口まで約3.3kmです。白椿山(しろつばきやま)の山名が綺麗ですね。ここからは進めませんが、「一乗滝」の上から、藤懸線−白椿線〜と上がって行けば、白椿山に登れるかも(未確認)?
< 一乗城山の三万谷ルート >
〜の説明パネル。一乗谷城の防御設備が完璧でした。しかし、一乗谷に織田軍が、攻め込んで来る前に、朝倉軍が壊滅していたため、一乗谷城が戦場とはなりませんでした。
2018年04月29日 11:43撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 11:43
< 一乗城山の三万谷ルート >
〜の説明パネル。一乗谷城の防御設備が完璧でした。しかし、一乗谷に織田軍が、攻め込んで来る前に、朝倉軍が壊滅していたため、一乗谷城が戦場とはなりませんでした。
< 2018年4月29日の山行 >
〜三万谷から[一乗城山(いちじょうしろやま)※1]に登山しました。林道美山線(※2)の途中にある登山口からのルート(三万谷ルート)です。
※1:ヤフーのマップでは、[一乗城山]を、別の峰である[一乗山(いちじょうざん)]と誤表記されています。
※2:当日、登山口の場所で通行止めになっていて車では、白椿山(しろつばきやま)・一乗山の方面には行けませんでした。
< 2018年4月29日の山行 >
〜三万谷から[一乗城山(いちじょうしろやま)※1]に登山しました。林道美山線(※2)の途中にある登山口からのルート(三万谷ルート)です。
※1:ヤフーのマップでは、[一乗城山]を、別の峰である[一乗山(いちじょうざん)]と誤表記されています。
※2:当日、登山口の場所で通行止めになっていて車では、白椿山(しろつばきやま)・一乗山の方面には行けませんでした。
< 急階段から始まる >
〜登山口です。50mほど登ると、一息つけます。
2018年04月29日 11:50撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 11:50
< 急階段から始まる >
〜登山口です。50mほど登ると、一息つけます。
< 尾根に上がった位置 >
〜で早くも小休止。登山口からまだ50mしか進んでいません。
2018年04月29日 11:52撮影
4/29 11:52
< 尾根に上がった位置 >
〜で早くも小休止。登山口からまだ50mしか進んでいません。
< マップを拡大 >
赤(紅)のラインは史跡の境界線です。3本の青(紺)のラインが登山道です。今回は、ピンクでラインマークしたルートを通行します。
2018年04月29日 11:52撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 11:52
< マップを拡大 >
赤(紅)のラインは史跡の境界線です。3本の青(紺)のラインが登山道です。今回は、ピンクでラインマークしたルートを通行します。
< 上がってきた所を >
〜振り返りました。進行方向とは180°反対方向にも道が続いています。きっと、どこかで林道側に下っているのだと思います。
2018年04月29日 11:53撮影
4/29 11:53
< 上がってきた所を >
〜振り返りました。進行方向とは180°反対方向にも道が続いています。きっと、どこかで林道側に下っているのだと思います。
< 下城戸ルートに合流 >
〜しました。中段の写真は下城戸(安波賀)ルート側からの撮影。下段の写真は進行方向から振り返った物です。
2018年04月29日 12:04撮影
4/29 12:04
< 下城戸ルートに合流 >
〜しました。中段の写真は下城戸(安波賀)ルート側からの撮影。下段の写真は進行方向から振り返った物です。
< 馬出ルートに合流 >
この合流点は、堀切の上部の部分になっていて、通り道がやや複雑になっています。馬出(うまだし)とは、城門の前に設けられた郭の事ですが、ここの馬出ルートの馬出とは、小見放城(こみはなちじょう)直下にあった郭の事です。
2018年04月29日 12:18撮影
4/29 12:18
< 馬出ルートに合流 >
この合流点は、堀切の上部の部分になっていて、通り道がやや複雑になっています。馬出(うまだし)とは、城門の前に設けられた郭の事ですが、ここの馬出ルートの馬出とは、小見放城(こみはなちじょう)直下にあった郭の事です。
< 山頂の見どころ >
山頂である「三の丸」を目指します。これから向かうのは、北南に並んだ〜一・二・三の丸〜の[連続曲輪群]です。ここより一段下にある「千畳敷跡」の周辺の曲輪群を、[山上御殿群](馬出ルートが通る)と言いますが、今回は通行しません。
2018年04月29日 12:19撮影
4/29 12:19
< 山頂の見どころ >
山頂である「三の丸」を目指します。これから向かうのは、北南に並んだ〜一・二・三の丸〜の[連続曲輪群]です。ここより一段下にある「千畳敷跡」の周辺の曲輪群を、[山上御殿群](馬出ルートが通る)と言いますが、今回は通行しません。
< 一の丸 >
〜に進みます。一、二、三〜の丸の順に標高が高くなります。通常の山城と順番が逆ですが、下の一乗谷にある[朝倉館]を本丸だとすると、館に近い方から曲輪を数えたのだと思います。
2018年04月29日 12:23撮影
4/29 12:23
< 一の丸 >
〜に進みます。一、二、三〜の丸の順に標高が高くなります。通常の山城と順番が逆ですが、下の一乗谷にある[朝倉館]を本丸だとすると、館に近い方から曲輪を数えたのだと思います。
< 一の丸にある説明板 >
この先にある〜2条の堀切〜を超えた所に[二の丸]があります。
2018年04月29日 12:24撮影
4/29 12:24
< 一の丸にある説明板 >
この先にある〜2条の堀切〜を超えた所に[二の丸]があります。
< 一と二分の一の丸? >
[一の丸]と[二の丸]を繋ぐ尾根部分が2箇所で分断されています(2条の堀切)。今、歩いている登山道は、本来はなかった物だと思います。もし当時こんな道があったら、防御設備としての堀切の意味がなくなってしまったことでしょう。
2018年04月29日 12:26撮影
4/29 12:26
< 一と二分の一の丸? >
[一の丸]と[二の丸]を繋ぐ尾根部分が2箇所で分断されています(2条の堀切)。今、歩いている登山道は、本来はなかった物だと思います。もし当時こんな道があったら、防御設備としての堀切の意味がなくなってしまったことでしょう。
< 二の丸跡 >
ここの西側に大きな堀切があり、土橋を渡った先の尾根筋には伏兵穴(ふくへいあな)という塹壕ああるらしいです。今回私は、その穴の確認には行きませんでした。次回、探索したいと思います。
2018年04月29日 12:27撮影
4/29 12:27
< 二の丸跡 >
ここの西側に大きな堀切があり、土橋を渡った先の尾根筋には伏兵穴(ふくへいあな)という塹壕ああるらしいです。今回私は、その穴の確認には行きませんでした。次回、探索したいと思います。
< 三の丸の手前 >
ここから一段上に上がってすぐの所に、深い堀切りがあります。
2018年04月29日 12:28撮影
4/29 12:28
< 三の丸の手前 >
ここから一段上に上がってすぐの所に、深い堀切りがあります。
< 深い堀切 >
〜を超え山頂へ進みます。
2018年04月29日 12:29撮影
4/29 12:29
< 深い堀切 >
〜を超え山頂へ進みます。
< 最後の防御 >
〜を越え、三の丸(頂上)に到着。おっと、山頂の手前で地べたに打ち込まれている何らかの円柱を見つけました。
2018年04月29日 12:31撮影
4/29 12:31
< 最後の防御 >
〜を越え、三の丸(頂上)に到着。おっと、山頂の手前で地べたに打ち込まれている何らかの円柱を見つけました。
< 基準点「足羽町No.24」 >
〜でした。標高473.58mです。旧・足羽町(あすわちょう)によって設置された基準点(三角点ではない)のようです。ちなみに、1971年、旧・足羽町が、福井市に編入され、現在は[福井市足羽]になっています。
2018年04月29日 12:31撮影
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4/29 12:31
< 基準点「足羽町No.24」 >
〜でした。標高473.58mです。旧・足羽町(あすわちょう)によって設置された基準点(三角点ではない)のようです。ちなみに、1971年、旧・足羽町が、福井市に編入され、現在は[福井市足羽]になっています。
< 一乗城山(いちじょうしろやま) >
〜の山頂を北南の2方向から撮影しました。
2018年04月29日 12:32撮影
4/29 12:32
< 一乗城山(いちじょうしろやま) >
〜の山頂を北南の2方向から撮影しました。
< 一乗谷城・三の丸跡 >
戦国の世、一乗谷の朝倉館を四方から守るように〜北は[成願寺(じょうがんじ)城]、南は[三峯(みつみね)城]、東はここ[一乗谷城]、西は[東郷槇山(とうごうまきやま)城]と[大味(おおみ)城]〜と城が配置されていました。
2018年04月29日 12:32撮影
4/29 12:32
< 一乗谷城・三の丸跡 >
戦国の世、一乗谷の朝倉館を四方から守るように〜北は[成願寺(じょうがんじ)城]、南は[三峯(みつみね)城]、東はここ[一乗谷城]、西は[東郷槇山(とうごうまきやま)城]と[大味(おおみ)城]〜と城が配置されていました。
< てっぺん(城山山頂) >
〜から退却します。
2018年04月29日 12:35撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 12:35
< てっぺん(城山山頂) >
〜から退却します。
< 来た道 >
〜を戻ります。林道美山線の登山口に降りて、登山終了です。
2018年04月29日 13:00撮影
4/29 13:00
< 来た道 >
〜を戻ります。林道美山線の登山口に降りて、登山終了です。
< 三万谷ルート登山口 >
〜に戻りました。この日、[白山]の南側を守る[別山(べっさん)]は、特に綺麗に見えました。[格・別さん]?〜でありました。さて、車で引き返し、「一乗谷あさくら水の駅」を見学しに行きます。
2018年04月29日 13:02撮影
4/29 13:02
< 三万谷ルート登山口 >
〜に戻りました。この日、[白山]の南側を守る[別山(べっさん)]は、特に綺麗に見えました。[格・別さん]?〜でありました。さて、車で引き返し、「一乗谷あさくら水の駅」を見学しに行きます。
< 一乗谷あさくら水の駅 >
[道]の駅なのに[水]の駅になっています。用水路を中心にして〜ふれあい情報館、トイレ、粉ひき小屋、三連水車、ビオトープ、広場〜などで構成されています。隣には、足羽川頭首工管理事務所があり、その事務所裏の足羽川(あすわがわ)の土手道から、見事な頭首工(とうしゅこう)を見ることが出来ます。
2018年04月29日 13:30撮影
4/29 13:30
< 一乗谷あさくら水の駅 >
[道]の駅なのに[水]の駅になっています。用水路を中心にして〜ふれあい情報館、トイレ、粉ひき小屋、三連水車、ビオトープ、広場〜などで構成されています。隣には、足羽川頭首工管理事務所があり、その事務所裏の足羽川(あすわがわ)の土手道から、見事な頭首工(とうしゅこう)を見ることが出来ます。
< ふれあい情報館 >
この情報館の裏手にはビオトープな自然園になっています。水車とその上流にある頭首工を見てきます。
2018年04月29日 13:31撮影
4/29 13:31
< ふれあい情報館 >
この情報館の裏手にはビオトープな自然園になっています。水車とその上流にある頭首工を見てきます。
< 粉ひき小屋と三連水車 >
秀逸な水車です。粉を挽くだけではありません。一段高くなっているビオトープや体験農場へ水を汲み上げています。
2018年04月29日 13:32撮影
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< 粉ひき小屋と三連水車 >
秀逸な水車です。粉を挽くだけではありません。一段高くなっているビオトープや体験農場へ水を汲み上げています。
< 足羽川頭首工 >
取水堰のこちら側(左岸)の足元に取水口があり、ここ[水の駅]の前を用水路が通り、左岸側の農地を潤しています。対岸の右岸側には、足羽川の川底を[酒生(さこう)サイホン]を通って右岸側の用水路に繋がっています。
※:酒生サイホンは、いわゆる『カルバート(川底をくぐる暗渠)』です。
2018年04月29日 13:33撮影
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< 足羽川頭首工 >
取水堰のこちら側(左岸)の足元に取水口があり、ここ[水の駅]の前を用水路が通り、左岸側の農地を潤しています。対岸の右岸側には、足羽川の川底を[酒生(さこう)サイホン]を通って右岸側の用水路に繋がっています。
※:酒生サイホンは、いわゆる『カルバート(川底をくぐる暗渠)』です。
< 旧・足羽川頭首工堰柱 >
ここの頭首工の起源は、17世紀末に福井藩用水奉行が、徳光用水(現・水の駅を流れる水路)の取入れ口に堰堤を造ったのが始まりです。現代になり、昭和38年(1963年)に初代の足羽川頭首工が完成。老朽化に伴い造り替えられたのが、現在の頭首工です。二代目が完成したのは平成20年(2008年)のことでした。
2018年04月29日 13:37撮影
4/29 13:37
< 旧・足羽川頭首工堰柱 >
ここの頭首工の起源は、17世紀末に福井藩用水奉行が、徳光用水(現・水の駅を流れる水路)の取入れ口に堰堤を造ったのが始まりです。現代になり、昭和38年(1963年)に初代の足羽川頭首工が完成。老朽化に伴い造り替えられたのが、現在の頭首工です。二代目が完成したのは平成20年(2008年)のことでした。
< 水の駅からほど近い >
〜[一乗谷朝倉氏遺跡資料館]に立ち寄ってから、一乗谷の東方向にある旧・美山町(2006年に福井市に編入)にある『美山森林温泉』で汗を流します。
2018年04月29日 13:40撮影
4/29 13:40
< 水の駅からほど近い >
〜[一乗谷朝倉氏遺跡資料館]に立ち寄ってから、一乗谷の東方向にある旧・美山町(2006年に福井市に編入)にある『美山森林温泉』で汗を流します。
< 一乗谷朝倉氏遺跡資料館 >
勉強になりそうな資料が豊富でしたが、私はすでに20km以上も歩いていて疲れはてていました。足早に見学を済ませました。
2018年04月29日 13:50撮影
4/29 13:50
< 一乗谷朝倉氏遺跡資料館 >
勉強になりそうな資料が豊富でしたが、私はすでに20km以上も歩いていて疲れはてていました。足早に見学を済ませました。
< 朝倉氏遺跡の案内 >
資料館前に掲示されていた案内図です。今回、このマップに載っている場所の全ては見て回れませんでした。次回は、違うルートを通行したいと思います。
2018年04月29日 13:51撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
4/29 13:51
< 朝倉氏遺跡の案内 >
資料館前に掲示されていた案内図です。今回、このマップに載っている場所の全ては見て回れませんでした。次回は、違うルートを通行したいと思います。
< 美山森林温泉「みらくる亭」 >
『ぽいっとこせ橋』と呼ばれる赤い欄干の橋を渡ると、入亭です。小さな温泉宿かと思えば、さにあらず〜
2018年04月29日 14:18撮影
4/29 14:18
< 美山森林温泉「みらくる亭」 >
『ぽいっとこせ橋』と呼ばれる赤い欄干の橋を渡ると、入亭です。小さな温泉宿かと思えば、さにあらず〜
< 森林浴・温泉浴 >
〜が同時にひたれる山岳?温泉でした。客室は、背後の山腹の斜面に幾つかの棟に分かれて建てられています。玄関からエレベーターで3階に上がり、渡り廊下と階段を進み、施設の最上部行くと、お風呂があります。恐らく70m位歩く(登る)ことになります。内風呂だけですが、露天の替わりに森林浴が出来るウッドデッキが備わっています。
2018年04月29日 14:20撮影
4/29 14:20
< 森林浴・温泉浴 >
〜が同時にひたれる山岳?温泉でした。客室は、背後の山腹の斜面に幾つかの棟に分かれて建てられています。玄関からエレベーターで3階に上がり、渡り廊下と階段を進み、施設の最上部行くと、お風呂があります。恐らく70m位歩く(登る)ことになります。内風呂だけですが、露天の替わりに森林浴が出来るウッドデッキが備わっています。
< 奥越ふれあい公園 >
もう一つ[義景公墓所]にお参りするために、大野市にやって来ました。美山森林温泉から車で約40分でこの公園に到着。快晴なので、大野のお山を眺めに立ち寄りました。広々とした野球場からの眺めは、東側の峰々がバッチリでした。
2018年04月29日 15:43撮影 by  DSC-HX90V, SONY
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4/29 15:43
< 奥越ふれあい公園 >
もう一つ[義景公墓所]にお参りするために、大野市にやって来ました。美山森林温泉から車で約40分でこの公園に到着。快晴なので、大野のお山を眺めに立ち寄りました。広々とした野球場からの眺めは、東側の峰々がバッチリでした。
< 荒島岳(1523m) >
以前、登った時のレコがあります。
● 「荒島岳」と「越前大野城」〜荒島岳・犬山・亀山登山〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-765107.html
2018年04月29日 15:44撮影
1
4/29 15:44
< 荒島岳(1523m) >
以前、登った時のレコがあります。
● 「荒島岳」と「越前大野城」〜荒島岳・犬山・亀山登山〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-765107.html
< 経ヶ岳(1625m) >
大野市と勝山市の境界にある峰です。三万谷の登山口からも、この[経ヶ岳]が見えました。ちなみに同名の山が幾つかあり、勝山市には、もう一つ別の[経ヶ岳(765m)]もあります。765mのほうは、永平寺町との境界に位置しています。
2018年04月29日 15:45撮影
4/29 15:45
< 経ヶ岳(1625m) >
大野市と勝山市の境界にある峰です。三万谷の登山口からも、この[経ヶ岳]が見えました。ちなみに同名の山が幾つかあり、勝山市には、もう一つ別の[経ヶ岳(765m)]もあります。765mのほうは、永平寺町との境界に位置しています。
< 越前大野駅「中央広場」 >
〜に来ました。駅横の「清水(しょうず)広場」の清水を頂きました。次に、越前大野城城下の明倫町(めいりんちょう)に向かいます。
2018年04月29日 16:30撮影
4/29 16:30
< 越前大野駅「中央広場」 >
〜に来ました。駅横の「清水(しょうず)広場」の清水を頂きました。次に、越前大野城城下の明倫町(めいりんちょう)に向かいます。
< 時鐘(ときがね) >
〜越しに、『越前大野城』を仰ぎ見ました。ここ明倫町の大通りを挟んで、「結ステーション(大野商工会議所会館)」と「結楽座(物産処・食時処)」が向かい合っています。最後に、隣の泉町にある「義景公のお墓」をお参りに行きます。
2018年04月29日 16:50撮影
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4/29 16:50
< 時鐘(ときがね) >
〜越しに、『越前大野城』を仰ぎ見ました。ここ明倫町の大通りを挟んで、「結ステーション(大野商工会議所会館)」と「結楽座(物産処・食時処)」が向かい合っています。最後に、隣の泉町にある「義景公のお墓」をお参りに行きます。
< 義景公園 >
〜にやって来ました。祭日でお休みの大野市役所の駐車場に車を停めました。市役所裏から歩いて200m程でしたが、公園には駐車場が完備していました。史跡「朝倉義景公墓」です。
2018年04月29日 17:04撮影
4/29 17:04
< 義景公園 >
〜にやって来ました。祭日でお休みの大野市役所の駐車場に車を停めました。市役所裏から歩いて200m程でしたが、公園には駐車場が完備していました。史跡「朝倉義景公墓」です。
< 義景公墓柱と記念柱 >
墓柱=五輪塔には「朝倉義景公墓」と刻まれているのですが、苔むしていて読めなくなっています。記念柱(裏面)には、義景自刃のいきさつが記されています。
2018年04月29日 17:05撮影
4/29 17:05
< 義景公墓柱と記念柱 >
墓柱=五輪塔には「朝倉義景公墓」と刻まれているのですが、苔むしていて読めなくなっています。記念柱(裏面)には、義景自刃のいきさつが記されています。
< 朝倉義景公墓の由緒 >
天正元年8月20日(1573年9月16日)、[義景]は、一乗谷から逃れ、「六坊賢松寺(※)」に籠もるも、同族の[景鏡(かげあきら)]に襲われ自刃しました。
※:廃寺になっています。ここから、約200m北東方向にある「曹源寺」あたりに賢松寺があったと言われています。
2018年04月29日 17:06撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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< 朝倉義景公墓の由緒 >
天正元年8月20日(1573年9月16日)、[義景]は、一乗谷から逃れ、「六坊賢松寺(※)」に籠もるも、同族の[景鏡(かげあきら)]に襲われ自刃しました。
※:廃寺になっています。ここから、約200m北東方向にある「曹源寺」あたりに賢松寺があったと言われています。
< 義景公園の案内図 >
休家臣「瀧池家」の墓、近臣の[鳥居景近(かげちか)]と[高橋景倍(かげます)=景業(かげあきら)]、母[高徳院]、夫人の[祥順院]、次男[愛王丸※]〜の墓が周囲に建立されています。義景公最後の折、近臣の鳥居と高橋の2人が、義景公の介錯を務めた後に、二人とも自害したのだという。
※:義景の側室[少将]が産んだ子です。義景の長男の[阿君丸]は義景自刃の5年前に亡くなっています。
2018年04月29日 17:07撮影
4/29 17:07
< 義景公園の案内図 >
休家臣「瀧池家」の墓、近臣の[鳥居景近(かげちか)]と[高橋景倍(かげます)=景業(かげあきら)]、母[高徳院]、夫人の[祥順院]、次男[愛王丸※]〜の墓が周囲に建立されています。義景公最後の折、近臣の鳥居と高橋の2人が、義景公の介錯を務めた後に、二人とも自害したのだという。
※:義景の側室[少将]が産んだ子です。義景の長男の[阿君丸]は義景自刃の5年前に亡くなっています。
< 朝倉氏にちなんだ遊具 >
〜が子供たちのために設置されています。遊具には2種類の家紋がつけられています。朝倉氏の先祖「日下部高景」が、源平合戦のおり、「源頼朝」から授けられたというのが〜[三盛木瓜(みつもりもっこうもん)]です。もう一つの[竹丸に亀甲]は、15世紀初め、越前より、伊勢国朝明(あさけ)郡に進出した「朝倉貞冬(平貞冬)」がたてた伊勢朝倉氏の家紋らしい。あるいは、敦賀郡にあった朝倉家の家紋か?(注:正確な情報なし)
※:「もっこう」とは『ボケ(木瓜、バラ科ボケ属)』のことです。
2018年04月29日 17:07撮影
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< 朝倉氏にちなんだ遊具 >
〜が子供たちのために設置されています。遊具には2種類の家紋がつけられています。朝倉氏の先祖「日下部高景」が、源平合戦のおり、「源頼朝」から授けられたというのが〜[三盛木瓜(みつもりもっこうもん)]です。もう一つの[竹丸に亀甲]は、15世紀初め、越前より、伊勢国朝明(あさけ)郡に進出した「朝倉貞冬(平貞冬)」がたてた伊勢朝倉氏の家紋らしい。あるいは、敦賀郡にあった朝倉家の家紋か?(注:正確な情報なし)
※:「もっこう」とは『ボケ(木瓜、バラ科ボケ属)』のことです。
< 義景清水 >
〜にイトヨ(糸魚、トゲウオ科イトヨ属)が生息しています。イトヨは、川から海に下る[遡河回遊型]と、淡水の川や池に留まる[陸封型]に分けられています。ここ大野のイトヨは[陸封型]で、地元では「ハリシン」と呼ばれています。
2018年04月29日 17:08撮影
4/29 17:08
< 義景清水 >
〜にイトヨ(糸魚、トゲウオ科イトヨ属)が生息しています。イトヨは、川から海に下る[遡河回遊型]と、淡水の川や池に留まる[陸封型]に分けられています。ここ大野のイトヨは[陸封型]で、地元では「ハリシン」と呼ばれています。
< シバザクラ(芝桜) >
ハナシノブ科フロックス属。大野市では、5月の連休に、『芝桜祭り』が開催されます。乾側(いぬいかわ)地区(大野市の西部に位置)の田んぼ(畦道)がピンク色のシバザクラで花で覆われます。シバザクラを植えることにより、田の畦道の雑草管理が楽になります。また、除草剤が不要になり、環境に優しい農業といえます。
2018年04月29日 17:10撮影
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4/29 17:10
< シバザクラ(芝桜) >
ハナシノブ科フロックス属。大野市では、5月の連休に、『芝桜祭り』が開催されます。乾側(いぬいかわ)地区(大野市の西部に位置)の田んぼ(畦道)がピンク色のシバザクラで花で覆われます。シバザクラを植えることにより、田の畦道の雑草管理が楽になります。また、除草剤が不要になり、環境に優しい農業といえます。
ーー《 第二部 》ーー
2回目は5月20日、駅からの登城(福井城跡)&駅からの登山(遺跡と山城を訪問)をしました。
2018年05月20日 04:25撮影
5/20 4:25
ーー《 第二部 》ーー
2回目は5月20日、駅からの登城(福井城跡)&駅からの登山(遺跡と山城を訪問)をしました。
< JR七尾駅発 >
JR七尾線−北陸本線−九頭竜線〜を利用して、能登国(石川県七尾市)から越後国一乗谷(福井市一乗谷)に向かいます。七尾駅では午前5時の始発でした。北陸本線・能美根上駅を過ぎた所で、白山が見えました。
2018年05月20日 06:58撮影
5/20 6:58
< JR七尾駅発 >
JR七尾線−北陸本線−九頭竜線〜を利用して、能登国(石川県七尾市)から越後国一乗谷(福井市一乗谷)に向かいます。七尾駅では午前5時の始発でした。北陸本線・能美根上駅を過ぎた所で、白山が見えました。
< 車窓から白山 >
〜を撮影(能美根上駅を過ぎた所で)。この後、雲が流れてきて、白い白山が白い雲の隠されてしまいました。
2018年05月20日 06:58撮影 by  DSC-HX90V, SONY
5/20 6:58
< 車窓から白山 >
〜を撮影(能美根上駅を過ぎた所で)。この後、雲が流れてきて、白い白山が白い雲の隠されてしまいました。
< 鞍掛山 >
〜を撮影(動橋駅”いぶりはしえき”の手前で)。昔、北前船が橋立湊の沖を航行するときに、良い目印になったそうです。鞍掛山の詳細は以下のリンクで。
● 鞍掛山・三童子山スカイライン周回コース
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-752920.html
2018年05月20日 07:07撮影
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< 鞍掛山 >
〜を撮影(動橋駅”いぶりはしえき”の手前で)。昔、北前船が橋立湊の沖を航行するときに、良い目印になったそうです。鞍掛山の詳細は以下のリンクで。
● 鞍掛山・三童子山スカイライン周回コース
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-752920.html
< 福井駅 >
07:28、福井駅に到着。次は、越美北線(九頭竜線)09:08発九頭竜湖行に乗り換えます。100分間の待ち時間を利用して、福井城・北ノ庄城跡を訪問してきます。時間が多くないので、かなり大急ぎの市内観光になります。
2018年05月20日 07:30撮影
5/20 7:30
< 福井駅 >
07:28、福井駅に到着。次は、越美北線(九頭竜線)09:08発九頭竜湖行に乗り換えます。100分間の待ち時間を利用して、福井城・北ノ庄城跡を訪問してきます。時間が多くないので、かなり大急ぎの市内観光になります。
< 駅の壁面が芸術作品 >
〜になっています。トリックアートです。
2018年05月20日 07:37撮影
5/20 7:37
< 駅の壁面が芸術作品 >
〜になっています。トリックアートです。
< 三種類の恐竜 >
上(左前方):フクイラプトル/上(右後方):フクイサウルス/下:トリケラトプス
2018年05月20日 07:37撮影
5/20 7:37
< 三種類の恐竜 >
上(左前方):フクイラプトル/上(右後方):フクイサウルス/下:トリケラトプス
< 恐竜広場 >
駅前西口広場は、恐竜たちに占拠されています。全部作り物ですが、首の長いやつは、動きます。
2018年05月20日 07:37撮影
1
5/20 7:37
< 恐竜広場 >
駅前西口広場は、恐竜たちに占拠されています。全部作り物ですが、首の長いやつは、動きます。
< 恐竜王国福井 >
福井は恐竜化石の産地です。勝山市には、福井県立恐竜博物館がございます。恐竜関係では、福井が国内随一です。
2018年05月20日 07:38撮影
5/20 7:38
< 恐竜王国福井 >
福井は恐竜化石の産地です。勝山市には、福井県立恐竜博物館がございます。恐竜関係では、福井が国内随一です。
< フクイティタン >
〜の動くモニュメントです。驚いて、ひっくり返らないように!
2018年05月20日 07:38撮影
5/20 7:38
< フクイティタン >
〜の動くモニュメントです。驚いて、ひっくり返らないように!
< 恐竜対決 >
青コーナー(左)肉食恐竜「フクイラプトル」VS.赤コーナー(左)草食恐竜「フクイサウルス」。
2018年05月20日 07:38撮影
5/20 7:38
< 恐竜対決 >
青コーナー(左)肉食恐竜「フクイラプトル」VS.赤コーナー(左)草食恐竜「フクイサウルス」。
< 御本城橋(ごほんじょうばし) >
福井駅西口広場(恐竜広場)から約200m歩くと、福井城本丸跡(県庁などがある)の入口です。
2018年05月20日 07:41撮影
5/20 7:41
< 御本城橋(ごほんじょうばし) >
福井駅西口広場(恐竜広場)から約200m歩くと、福井城本丸跡(県庁などがある)の入口です。
< 結城(松平)秀康 >
〜の像。秀康は、北ノ庄藩(のちの福井藩)の藩祖です。
2018年05月20日 07:44撮影
5/20 7:44
< 結城(松平)秀康 >
〜の像。秀康は、北ノ庄藩(のちの福井藩)の藩祖です。
< 3D風の案内図 >
〜が判りやすいです。天守台とその上にある井戸、山里口門などを見て回ります。
2018年05月20日 07:44撮影
5/20 7:44
< 3D風の案内図 >
〜が判りやすいです。天守台とその上にある井戸、山里口門などを見て回ります。
< 大手門跡 >
〜の上に上がります。
2018年05月20日 07:45撮影
5/20 7:45
< 大手門跡 >
〜の上に上がります。
< 門のあった場所 >
〜に、散策路が設けられています。
2018年05月20日 07:46撮影
5/20 7:46
< 門のあった場所 >
〜に、散策路が設けられています。
< 南の方向 >
〜の入城して来た側(御本城橋の架かる側)を眺めました。
2018年05月20日 07:46撮影
5/20 7:46
< 南の方向 >
〜の入城して来た側(御本城橋の架かる側)を眺めました。
< 北側には県庁 >
〜があります。先ほど通行した所を見下ろしました。今私は、馬上の結城公の上にいます。
2018年05月20日 07:47撮影
5/20 7:47
< 北側には県庁 >
〜があります。先ほど通行した所を見下ろしました。今私は、馬上の結城公の上にいます。
< 県庁と議員会館 >
〜の間を通ります。北側に架かる土橋の前に北不明御門(きたあかずのごもん)跡がありますが、通りません。左折して、本丸の北西角に位置する天守櫓台に向かいます。
2018年05月20日 07:48撮影
5/20 7:48
< 県庁と議員会館 >
〜の間を通ります。北側に架かる土橋の前に北不明御門(きたあかずのごもん)跡がありますが、通りません。左折して、本丸の北西角に位置する天守櫓台に向かいます。
< 県庁の裏を通ります >
増設された木製の階段を登り、天守櫓台に上がります。
2018年05月20日 07:50撮影
5/20 7:50
< 県庁の裏を通ります >
増設された木製の階段を登り、天守櫓台に上がります。
< 上がった所で >
〜東側を眺めました。本丸の北側に出入口は土橋になっています。本丸を囲む内濠は、周回がこの土橋で区切られていますので、Cの形の堀〜と言うことになります。
2018年05月20日 07:51撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 7:51
< 上がった所で >
〜東側を眺めました。本丸の北側に出入口は土橋になっています。本丸を囲む内濠は、周回がこの土橋で区切られていますので、Cの形の堀〜と言うことになります。
< 福の井 >
〜と呼ばれる井戸。昔は、北の庄城だったのですから、現代ではどうして、福の井県にしなかったのかしら?
2018年05月20日 07:51撮影
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5/20 7:51
< 福の井 >
〜と呼ばれる井戸。昔は、北の庄城だったのですから、現代ではどうして、福の井県にしなかったのかしら?
< 井の中の私 >
井戸の中を撮るつもりが、逆に井戸に私が撮られてしまいました。
2018年05月20日 07:52撮影
5/20 7:52
< 井の中の私 >
井戸の中を撮るつもりが、逆に井戸に私が撮られてしまいました。
< 天守台「福の井」 >
第2期北ノ庄城(のちの福井城)が築城されたときからあった井戸らしい。福井藩第3代藩主が、「北ノ庄」を「福居」にかえ、さらに後年、「福井」になったという。
2018年05月20日 07:52撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 7:52
< 天守台「福の井」 >
第2期北ノ庄城(のちの福井城)が築城されたときからあった井戸らしい。福井藩第3代藩主が、「北ノ庄」を「福居」にかえ、さらに後年、「福井」になったという。
< 天守の由緒 >
外見は四層でも中味は、五層の天守だった。
2018年05月20日 07:53撮影
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< 天守の由緒 >
外見は四層でも中味は、五層の天守だった。
< 小天守台(控天守台) >
福井地震(1948年)のときに、石垣が崩れてしまったという。
2018年05月20日 07:54撮影
5/20 7:54
< 小天守台(控天守台) >
福井地震(1948年)のときに、石垣が崩れてしまったという。
< 大天守台に上がります >
『本丸』という大きな土台の中の一角に[天守櫓台]があり、[天守櫓台]のなかに[大天守台]と[小天守台(控天守台)]がある〜事になります。北西角から見下ろせる「福井神社」にも、この後、寄っていきます。
2018年05月20日 07:55撮影
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< 大天守台に上がります >
『本丸』という大きな土台の中の一角に[天守櫓台]があり、[天守櫓台]のなかに[大天守台]と[小天守台(控天守台)]がある〜事になります。北西角から見下ろせる「福井神社」にも、この後、寄っていきます。
< 御廊下橋が >
〜見下ろせました。中央公園は改修工事中です。公園の向こうに見えるのは、「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)」です。
2018年05月20日 07:56撮影
5/20 7:56
< 御廊下橋が >
〜見下ろせました。中央公園は改修工事中です。公園の向こうに見えるのは、「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)」です。
< 天守櫓台から >
〜降りました。
2018年05月20日 07:56撮影
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< 天守櫓台から >
〜降りました。
< 山里口御門 >
〜を見学して、その先に架かる橋を渡ります。
2018年05月20日 07:57撮影
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< 山里口御門 >
〜を見学して、その先に架かる橋を渡ります。
< 御廊下橋 >
〜を渡ります。山里口御門の出口が[枡形]になっていて、そのまま「御廊下橋」に繋がっています。
2018年05月20日 07:58撮影
5/20 7:58
< 御廊下橋 >
〜を渡ります。山里口御門の出口が[枡形]になっていて、そのまま「御廊下橋」に繋がっています。
< 南にJA/北に小学校 >
〜を眺めました。
2018年05月20日 07:58撮影
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< 南にJA/北に小学校 >
〜を眺めました。
< 御廊下橋を振り返りました >
5年前から復元工事が進められていた『山里口御門・御廊下橋』は、今年(2018年)3月に完成したばかりです。
2018年05月20日 07:59撮影
5/20 7:59
< 御廊下橋を振り返りました >
5年前から復元工事が進められていた『山里口御門・御廊下橋』は、今年(2018年)3月に完成したばかりです。
< 福井神社 >
〜を参拝します。
2018年05月20日 07:59撮影
5/20 7:59
< 福井神社 >
〜を参拝します。
< 大イチョウ >
戦災でダメージを受け枯死しかけたこの樹が、奇跡的に生き返りました。フェニックス福井のシンボルです。
2018年05月20日 08:00撮影
5/20 8:00
< 大イチョウ >
戦災でダメージを受け枯死しかけたこの樹が、奇跡的に生き返りました。フェニックス福井のシンボルです。
< 福井神社拝殿 >
拝殿には、「菊花紋章」がつけられています。
2018年05月20日 08:00撮影
5/20 8:00
< 福井神社拝殿 >
拝殿には、「菊花紋章」がつけられています。
< 神社の由緒と松平春嶽 >
福井神社は、昭和18年に日本で最後に創建された[別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)]でした。春嶽公を奉祀しています。
2018年05月20日 08:00撮影
5/20 8:00
< 神社の由緒と松平春嶽 >
福井神社は、昭和18年に日本で最後に創建された[別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)]でした。春嶽公を奉祀しています。
< 松平春嶽 >
第16代越前福井藩主です。春嶽は号で、本名は『松平慶永(よしなが)』です。幕末は大名として、明治初期は政治家として、新しき日本の表舞台で活躍した偉人の一人でした。
2018年05月20日 08:01撮影
5/20 8:01
< 松平春嶽 >
第16代越前福井藩主です。春嶽は号で、本名は『松平慶永(よしなが)』です。幕末は大名として、明治初期は政治家として、新しき日本の表舞台で活躍した偉人の一人でした。
< 2つの春嶽像 >
このあと訪れた「歴史博物館」には、若いお姿の春嶽公がおいででした。
2018年05月20日 08:01撮影
5/20 8:01
< 2つの春嶽像 >
このあと訪れた「歴史博物館」には、若いお姿の春嶽公がおいででした。
< 堀の縁を通り >
〜「市立歴史博物館」に向かいます。
2018年05月20日 08:02撮影
5/20 8:02
< 堀の縁を通り >
〜「市立歴史博物館」に向かいます。
< 市立歴史博物館 >
福井神社から400mほど歩きました。会館時間まで待てないので、周囲のパトロールだけ済まし戻ります。
2018年05月20日 08:07撮影
5/20 8:07
< 市立歴史博物館 >
福井神社から400mほど歩きました。会館時間まで待てないので、周囲のパトロールだけ済まし戻ります。
< 春嶽(慶永)公像 >
〜わずか11歳で、第16代福井藩主となりました。歴史に残る名藩主でした。大老「井伊直弼」と争った結果、早くに福井藩主を隠居することになりましが、隠居後も活躍しています。
2018年05月20日 08:07撮影
5/20 8:07
< 春嶽(慶永)公像 >
〜わずか11歳で、第16代福井藩主となりました。歴史に残る名藩主でした。大老「井伊直弼」と争った結果、早くに福井藩主を隠居することになりましが、隠居後も活躍しています。
< 北方を守る「舎人門」 >
「舎人門(とねりもん)」は、福井城外堀の北側に設けられた門でした。スタイルは高麗門形式です。ちなみに、高麗門というのは、日本オリジナルの形式で、朝鮮半島とは関係がありません。さて、お隣の「養浩館」を覗いてきます。
2018年05月20日 08:08撮影
5/20 8:08
< 北方を守る「舎人門」 >
「舎人門(とねりもん)」は、福井城外堀の北側に設けられた門でした。スタイルは高麗門形式です。ちなみに、高麗門というのは、日本オリジナルの形式で、朝鮮半島とは関係がありません。さて、お隣の「養浩館」を覗いてきます。
< 養浩館庭園 >
6:00〜8:45の時間帯が、庭園部分のみ無料開放されています。次の電車の時間が迫っていたので、3分間だけ、お庭を散歩させていただきました。
2018年05月20日 08:10撮影
5/20 8:10
< 養浩館庭園 >
6:00〜8:45の時間帯が、庭園部分のみ無料開放されています。次の電車の時間が迫っていたので、3分間だけ、お庭を散歩させていただきました。
< 藩主松平家の別邸 >
〜でした。元々は、御泉水屋敷(おせんすいやしき)と呼ばれていましたが、明治になって、元藩主の松平春嶽が『養浩館』と名付けました。
2018年05月20日 08:12撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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5/20 8:12
< 藩主松平家の別邸 >
〜でした。元々は、御泉水屋敷(おせんすいやしき)と呼ばれていましたが、明治になって、元藩主の松平春嶽が『養浩館』と名付けました。
< 養浩館をあとにします >
今回は、時間を割けなかったので、また、来・よう−こう館?でした。
2018年05月20日 08:15撮影
5/20 8:15
< 養浩館をあとにします >
今回は、時間を割けなかったので、また、来・よう−こう館?でした。
< 御本丸緑地「内堀公園」 >
内堀を眺める東屋のある小公園です。
2018年05月20日 08:20撮影
5/20 8:20
< 御本丸緑地「内堀公園」 >
内堀を眺める東屋のある小公園です。
< 百間堀の石垣 >
内堀公園と道を挟んで向かいにあります。
2018年05月20日 08:21撮影
5/20 8:21
< 百間堀の石垣 >
内堀公園と道を挟んで向かいにあります。
< 横から見た御本城橋 >
現在は、めがね橋風になってますが、昔は、木造の太鼓橋風だったのでしょうか。
2018年05月20日 08:22撮影
5/20 8:22
< 横から見た御本城橋 >
現在は、めがね橋風になってますが、昔は、木造の太鼓橋風だったのでしょうか。
< 元町商店街通り >
〜を南下しています。通路に案内の石板が埋め込まれています。
2018年05月20日 08:27撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 8:27
< 元町商店街通り >
〜を南下しています。通路に案内の石板が埋め込まれています。
< グローバルな方位盤 >
〜も通り道にありました。この方位盤によると、シンガポールはここから南西5,000km〜です。電車時間まであと40分しかなかったので、早足で移動しました。
< グローバルな方位盤 >
〜も通り道にありました。この方位盤によると、シンガポールはここから南西5,000km〜です。電車時間まであと40分しかなかったので、早足で移動しました。
< ガレリア元町商店街 >
〜の通りは、『歴史の道』にもなっています。ちなみに、歴史博物館のそばには『武士の道』が通っていました。
2018年05月20日 08:28撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 8:28
< ガレリア元町商店街 >
〜の通りは、『歴史の道』にもなっています。ちなみに、歴史博物館のそばには『武士の道』が通っていました。
< 北ノ庄城址 >
〜に到着。柴田神社の境内の中に、天守閣があったらしい。
2018年05月20日 08:29撮影
5/20 8:29
< 北ノ庄城址 >
〜に到着。柴田神社の境内の中に、天守閣があったらしい。
< 見所満載です >
柴田神社、柴田公園、北ノ庄城址、資料館〜などが隣接しているのか併存しているのかよく分からない状態です。
2018年05月20日 08:30撮影
5/20 8:30
< 見所満載です >
柴田神社、柴田公園、北ノ庄城址、資料館〜などが隣接しているのか併存しているのかよく分からない状態です。
< 城の想像図・勝家一家 >
賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、お市の方と共に、ここで自害しました。三姉妹は、助け出され秀吉のもとに〜
2018年05月20日 08:30撮影
5/20 8:30
< 城の想像図・勝家一家 >
賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、お市の方と共に、ここで自害しました。三姉妹は、助け出され秀吉のもとに〜
< 勝家像の後に >
〜お市の方像、三姉妹像も立っています。
2018年05月20日 08:31撮影
5/20 8:31
< 勝家像の後に >
〜お市の方像、三姉妹像も立っています。
< 瓶割の柴田 >
南近江で、近江守護「六角氏」と戦ったおり(長光寺城の戦い)、柴田勝家が善戦したときのエピソードが元となっています。
2018年05月20日 08:30撮影
5/20 8:30
< 瓶割の柴田 >
南近江で、近江守護「六角氏」と戦ったおり(長光寺城の戦い)、柴田勝家が善戦したときのエピソードが元となっています。
< 北側から >
〜「三姉妹神社」に入ります。この城趾の北側を通る道に、柴田神社の[一の鳥居]があります。内側にある[二の鳥居]から入ります。
2018年05月20日 08:31撮影
5/20 8:31
< 北側から >
〜「三姉妹神社」に入ります。この城趾の北側を通る道に、柴田神社の[一の鳥居]があります。内側にある[二の鳥居]から入ります。
< 三姉妹とお市の方 >
左から〜お市の方、茶々、江、初〜の順です。近江小谷城にまつわる母子の物語については、以下のリンクに詳述しました。
● 駅から登山『小谷山』〜河毛駅から小谷城跡を巡る〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1313767.html
2018年05月20日 08:33撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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5/20 8:33
< 三姉妹とお市の方 >
左から〜お市の方、茶々、江、初〜の順です。近江小谷城にまつわる母子の物語については、以下のリンクに詳述しました。
● 駅から登山『小谷山』〜河毛駅から小谷城跡を巡る〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1313767.html
< 三姉妹神社 >
ここ柴田神社の境内に、摂社のようにして、「三姉妹神社」が建立されています。しかし「お市の方神社?」はございません。きっと、お市の方様は柴田勝家と共に柴田神社に祀られているのでしょう。さて、急いで福井駅に戻ります。
2018年05月20日 08:33撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 8:33
< 三姉妹神社 >
ここ柴田神社の境内に、摂社のようにして、「三姉妹神社」が建立されています。しかし「お市の方神社?」はございません。きっと、お市の方様は柴田勝家と共に柴田神社に祀られているのでしょう。さて、急いで福井駅に戻ります。
< Happiring >
パピリンという施設が、福井駅の南西側にあります。
2018年05月20日 08:35撮影
5/20 8:35
< Happiring >
パピリンという施設が、福井駅の南西側にあります。
< ガラスのパピリオン? >
モール、ホール、テラスなどが一体化しています。5階には、セーレンプラネット(福井市自然史博物館分館)というものがありますが見学する余裕がありませんでした。
2018年05月20日 08:36撮影
5/20 8:36
< ガラスのパピリオン? >
モール、ホール、テラスなどが一体化しています。5階には、セーレンプラネット(福井市自然史博物館分館)というものがありますが見学する余裕がありませんでした。
< 2番線のりば >
〜です。九頭竜線09:08発(九頭竜湖行き)に乗ります。なんとか、無事に乗車出来ました。
2018年05月20日 08:57撮影
5/20 8:57
< 2番線のりば >
〜です。九頭竜線09:08発(九頭竜湖行き)に乗ります。なんとか、無事に乗車出来ました。
< 3番と1番 >
〜で2番がない!〜と思いきや、ホームが奥のほうで半分になっていて、3番のりばになっていました。本線から分かれる支線の宿命でしょうか。ちなみに、金沢駅の七尾線のホームも同様です。
2018年05月20日 08:58撮影
5/20 8:58
< 3番と1番 >
〜で2番がない!〜と思いきや、ホームが奥のほうで半分になっていて、3番のりばになっていました。本線から分かれる支線の宿命でしょうか。ちなみに、金沢駅の七尾線のホームも同様です。
< Mystery Project >
〜の09:08発でしたが、8分遅れの発車でした。
2018年05月20日 08:59撮影
5/20 8:59
< Mystery Project >
〜の09:08発でしたが、8分遅れの発車でした。
< チョットだけの白山 >
列車が足羽川(あすわがわ)に架かる「木田橋」を渡った瞬間に、「白山」南部の別山(べっさん)が見えました。
2018年05月20日 09:20撮影
5/20 9:20
< チョットだけの白山 >
列車が足羽川(あすわがわ)に架かる「木田橋」を渡った瞬間に、「白山」南部の別山(べっさん)が見えました。
< 六条駅の前後 >
〜で、山の景観が楽しめました。上の写真は北東方向、下の写真は南方向。北側にある「富士写ヶ岳」は石川県南部にある名峰です。また、南に見える「文殊山(もんじゅさん)」は、北陸道を石川県側から南下してくると、目立って見える山です。
2018年05月20日 09:26撮影
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5/20 9:26
< 六条駅の前後 >
〜で、山の景観が楽しめました。上の写真は北東方向、下の写真は南方向。北側にある「富士写ヶ岳」は石川県南部にある名峰です。また、南に見える「文殊山(もんじゅさん)」は、北陸道を石川県側から南下してくると、目立って見える山です。
< 一乗谷駅 >
〜に到着。09:33着(8分遅れ)でした。福井駅からの乗車時間は17分間です。
2018年05月20日 09:35撮影
5/20 9:35
< 一乗谷駅 >
〜に到着。09:33着(8分遅れ)でした。福井駅からの乗車時間は17分間です。
< 県道31号線に出ます >
一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、前回、立ち寄っています。
2018年05月20日 09:38撮影
5/20 9:38
< 県道31号線に出ます >
一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、前回、立ち寄っています。
< 少し進んで >
〜振り返りました。石仏群のある「西山光照寺跡」が見えますが、復路で立ち寄ります。
2018年05月20日 09:42撮影
5/20 9:42
< 少し進んで >
〜振り返りました。石仏群のある「西山光照寺跡」が見えますが、復路で立ち寄ります。
< 駅から500mほど >
〜歩くと、九頭竜線の踏切があります。その踏切の50m手前に、古風な小屋があります。表札は「一乗防犯隊詰所」となっています。
2018年05月20日 09:43撮影
5/20 9:43
< 駅から500mほど >
〜歩くと、九頭竜線の踏切があります。その踏切の50m手前に、古風な小屋があります。表札は「一乗防犯隊詰所」となっています。
< 第1足羽川橋梁 >
詰所の裏手が、足羽川を渡る鉄道(橋梁)のビューポイントです。
2018年05月20日 09:44撮影
5/20 9:44
< 第1足羽川橋梁 >
詰所の裏手が、足羽川を渡る鉄道(橋梁)のビューポイントです。
< 安波賀村下踏切 >
〜の80m先で、県道31号線が、県道18号線と合流します。合流点で右折して、県道18号線を南下します。
2018年05月20日 09:45撮影
5/20 9:45
< 安波賀村下踏切 >
〜の80m先で、県道31号線が、県道18号線と合流します。合流点で右折して、県道18号線を南下します。
< 向山橋 >
〜です。県道合流点(安波賀橋のある場所)から200m進んで所にこの「向山橋」があります。渡った先で、下城戸(安波賀)ルートに入ります。
2018年05月20日 09:48撮影
5/20 9:48
< 向山橋 >
〜です。県道合流点(安波賀橋のある場所)から200m進んで所にこの「向山橋」があります。渡った先で、下城戸(安波賀)ルートに入ります。
< ファスナーを開けて >
〜入山しました。
2018年05月20日 09:52撮影
5/20 9:52
< ファスナーを開けて >
〜入山しました。
< 九十九折りの急登 >
〜を登り切ると、送電鉄塔の下に出ました。
2018年05月20日 10:15撮影
5/20 10:15
< 九十九折りの急登 >
〜を登り切ると、送電鉄塔の下に出ました。
< 山城まで1.0km >
〜と書かれているのは、千畳敷跡の周辺の曲輪群=[山上御殿群]までの距離です。山頂のある三の丸跡までは、さらに0.5kmほど進みます。
2018年05月20日 10:16撮影
5/20 10:16
< 山城まで1.0km >
〜と書かれているのは、千畳敷跡の周辺の曲輪群=[山上御殿群]までの距離です。山頂のある三の丸跡までは、さらに0.5kmほど進みます。
< まわり道 >
〜がありました。50mほどの区間が上側に迂回しています。ここは、無事に通行したのですが〜
2018年05月20日 10:22撮影
5/20 10:22
< まわり道 >
〜がありました。50mほどの区間が上側に迂回しています。ここは、無事に通行したのですが〜
< 2本目以降の鉄塔 >
〜の下を通行してしまいました。ルートでは送電線を横切るのは一度かぎりのはずでした。
2018年05月20日 10:29撮影
5/20 10:29
< 2本目以降の鉄塔 >
〜の下を通行してしまいました。ルートでは送電線を横切るのは一度かぎりのはずでした。
< 鉄塔巡視路 >
〜に踏み入っていました。
2018年05月20日 10:31撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
1
5/20 10:31
< 鉄塔巡視路 >
〜に踏み入っていました。
< 安波賀ルートではなく >
〜おバカでルート間違い(巡視路を通行)しました。
2018年05月20日 10:22撮影
5/20 10:22
< 安波賀ルートではなく >
〜おバカでルート間違い(巡視路を通行)しました。
< 良い景色です >
視界が広いのは、谷側斜面を通る道であることと。鉄塔の立っている場所の木々は伐採されているからです。
2018年05月20日 11:06撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 11:06
< 良い景色です >
視界が広いのは、谷側斜面を通る道であることと。鉄塔の立っている場所の木々は伐採されているからです。
< 福井市街の南側 >
〜をズームしました。
2018年05月20日 11:06撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
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5/20 11:06
< 福井市街の南側 >
〜をズームしました。
< 足羽川頭首工 >
〜の上流側に朝倉氏遺跡資料館があります。よく見ると、一乗谷駅(無人駅)も確認出来ます。
2018年05月20日 11:07撮影
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5/20 11:07
< 足羽川頭首工 >
〜の上流側に朝倉氏遺跡資料館があります。よく見ると、一乗谷駅(無人駅)も確認出来ます。
< 下城戸のあたり >
〜を拡大。下城戸は樹の影に入っています。今回、進入してしまった巡視路は、危険なルートでした。かなり崩れていて、しかも下草が払われていないので、崩落箇所が見えにくくなっています。
2018年05月20日 11:08撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 11:08
< 下城戸のあたり >
〜を拡大。下城戸は樹の影に入っています。今回、進入してしまった巡視路は、危険なルートでした。かなり崩れていて、しかも下草が払われていないので、崩落箇所が見えにくくなっています。
< 最後の鉄塔 >
途中、道を間違えた事に気がつきましたが、引き返すにも引き返せませんでした。と言うのは、崩れた道の下りは、登りよりも危険だからです。
2018年05月20日 11:15撮影
5/20 11:15
< 最後の鉄塔 >
途中、道を間違えた事に気がつきましたが、引き返すにも引き返せませんでした。と言うのは、崩れた道の下りは、登りよりも危険だからです。
< 城戸内川(谷) >
〜の上流域に出ました。最後の鉄塔から谷に30mほど、下ると、[馬出ルート]に合流できました。
2018年05月20日 11:18撮影
5/20 11:18
< 城戸内川(谷) >
〜の上流域に出ました。最後の鉄塔から谷に30mほど、下ると、[馬出ルート]に合流できました。
< 沢のそばに >
〜小さな案内板が置かれていました。鉄塔の建つ所にあがる道については説明がありません。ここの送電鉄塔巡視路には登山者は入るべからずでした。
2018年05月20日 11:20撮影
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5/20 11:20
< 沢のそばに >
〜小さな案内板が置かれていました。鉄塔の建つ所にあがる道については説明がありません。ここの送電鉄塔巡視路には登山者は入るべからずでした。
< 一条城山の登山道 >
 _湿觚諭憤打伐譟縫襦璽函↓◆’禄丱襦璽函↓ 三万谷ルート、ぁ〜電鉄塔巡視路 〜道を踏み外すことなかれ!
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< 一条城山の登山道 >
 _湿觚諭憤打伐譟縫襦璽函↓◆’禄丱襦璽函↓ 三万谷ルート、ぁ〜電鉄塔巡視路 〜道を踏み外すことなかれ!
< ミヤマヨメナ(深山嫁菜) >
キク科シオン属。よく似た同族の「ノコンギク(野紺菊)」は夏から秋にかけて開花しますが、こちらのミヤマヨメナは春の花です。
2018年05月20日 11:25撮影
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5/20 11:25
< ミヤマヨメナ(深山嫁菜) >
キク科シオン属。よく似た同族の「ノコンギク(野紺菊)」は夏から秋にかけて開花しますが、こちらのミヤマヨメナは春の花です。
< 廃道になったはず? >
〜の[蛇谷ルート]が分岐しています。踏み跡が不明瞭になっているので、間違って入る人はいないと思いますが、目印として赤いリボンとポールがあります。私などは、赤いリボンに釣られて進入してしまいそうです。
2018年05月20日 11:29撮影
5/20 11:29
< 廃道になったはず? >
〜の[蛇谷ルート]が分岐しています。踏み跡が不明瞭になっているので、間違って入る人はいないと思いますが、目印として赤いリボンとポールがあります。私などは、赤いリボンに釣られて進入してしまいそうです。
< 不動清水 >
〜に着きました。この沢(清水)が、蛇谷の源流になっているみたいです。この清水で始まる川は、下流で「英林塚」の横を流れ、一乗谷川に合流します。諏訪館跡庭園にも注いでいます。
2018年05月20日 11:30撮影
5/20 11:30
< 不動清水 >
〜に着きました。この沢(清水)が、蛇谷の源流になっているみたいです。この清水で始まる川は、下流で「英林塚」の横を流れ、一乗谷川に合流します。諏訪館跡庭園にも注いでいます。
< 千畳敷跡 >
〜に到着。この周辺の曲輪群を[山上御殿群]と呼びます。また、ここより上方で1,2,3と連続している「一・二・三の丸」を併せて、[連続曲輪群]と呼ばれています。
2018年05月20日 11:34撮影
5/20 11:34
< 千畳敷跡 >
〜に到着。この周辺の曲輪群を[山上御殿群]と呼びます。また、ここより上方で1,2,3と連続している「一・二・三の丸」を併せて、[連続曲輪群]と呼ばれています。
< 御殿群と連続曲輪 >
〜周辺のルート。山上御殿群では、上下立体的に、道が交差していて、分かりづらくなっています。
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< 御殿群と連続曲輪 >
〜周辺のルート。山上御殿群では、上下立体的に、道が交差していて、分かりづらくなっています。
< 千畳敷跡 >
〜ですが、石柱をよく見ると[一乗谷城]の下に小さめの文字で[本丸址]と書かれています。以前は、この場所を城の本丸と考えられていたのでしょう。本来、上から順に〜本丸−二の丸−三の丸〜であるべき所を、ここでは、下から順に〜朝倉館(御屋形=本丸?)−一の丸−二の丸−三の丸〜となっています。
2018年05月20日 11:35撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 11:35
< 千畳敷跡 >
〜ですが、石柱をよく見ると[一乗谷城]の下に小さめの文字で[本丸址]と書かれています。以前は、この場所を城の本丸と考えられていたのでしょう。本来、上から順に〜本丸−二の丸−三の丸〜であるべき所を、ここでは、下から順に〜朝倉館(御屋形=本丸?)−一の丸−二の丸−三の丸〜となっています。
< 観音屋敷跡 >
〜に移動します。観音屋敷跡の前を通り過ぎると、宿直跡にでます。
2018年05月20日 11:35撮影
5/20 11:35
< 観音屋敷跡 >
〜に移動します。観音屋敷跡の前を通り過ぎると、宿直跡にでます。
< 観音屋敷跡 >
ここにはどんな御屋敷があったのでしょうか。名前からして観音堂のような物が建っていたのかもしれません。また、観音屋敷跡の後方の一段高い場所に「赤渕神社跡」があります。
2018年05月20日 11:36撮影
5/20 11:36
< 観音屋敷跡 >
ここにはどんな御屋敷があったのでしょうか。名前からして観音堂のような物が建っていたのかもしれません。また、観音屋敷跡の後方の一段高い場所に「赤渕神社跡」があります。
< 宿直跡へ >
〜向かいます。行き止まりで展望を楽しんだあとは、引き返して来て、連続曲輪群に向かいます。
2018年05月20日 11:37撮影
5/20 11:37
< 宿直跡へ >
〜向かいます。行き止まりで展望を楽しんだあとは、引き返して来て、連続曲輪群に向かいます。
< 宿直跡 >
見張り番がここで「とのい」していたらしい。
2018年05月20日 11:37撮影
5/20 11:37
< 宿直跡 >
見張り番がここで「とのい」していたらしい。
< とのいの展望場所 >
越前福井平野が見渡せます。
2018年05月20日 11:38撮影
5/20 11:38
< とのいの展望場所 >
越前福井平野が見渡せます。
< ここから一乗谷 >
〜を、武将たちは見守っていたはずです。北の「成願寺城」、東の「槇山城」、南の「三峰城」〜の各支城が見渡せた場所でした。
2018年05月20日 11:38撮影
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5/20 11:38
< ここから一乗谷 >
〜を、武将たちは見守っていたはずです。北の「成願寺城」、東の「槇山城」、南の「三峰城」〜の各支城が見渡せた場所でした。
< 北ノ庄の南東 >
〜に広がる峰々を確認出来ました。
2018年05月20日 11:38撮影
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5/20 11:38
< 北ノ庄の南東 >
〜に広がる峰々を確認出来ました。
< 一乗谷より南の地域 >
〜も見えました。奥の方にちいさく見える「盛源寺」は、一乗谷の南側の守りを固める役目もしていました。
2018年05月20日 11:39撮影
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5/20 11:39
< 一乗谷より南の地域 >
〜も見えました。奥の方にちいさく見える「盛源寺」は、一乗谷の南側の守りを固める役目もしていました。
< 宿直跡から観音屋敷跡 >
〜の上側を登ります。
2018年05月20日 11:40撮影
5/20 11:40
< 宿直跡から観音屋敷跡 >
〜の上側を登ります。
< 下城戸ルートに合流 >
宿直跡から200mほど進むと本道(下城戸ルート)に入る事が出来ました。(注):馬出ルートから登ってくると、合流する位置が2箇所あります。
2018年05月20日 11:46撮影
5/20 11:46
< 下城戸ルートに合流 >
宿直跡から200mほど進むと本道(下城戸ルート)に入る事が出来ました。(注):馬出ルートから登ってくると、合流する位置が2箇所あります。
< 一の丸・二の丸 >
〜を、通り過ぎます。前回も同じ場所を通行しています。
2018年05月20日 11:48撮影
5/20 11:48
< 一の丸・二の丸 >
〜を、通り過ぎます。前回も同じ場所を通行しています。
< 三角点を見に行きます >
二の丸のパネルの立つ位置から30mほど先に、「伏兵穴群」に向かう道が分岐しています。空濠に土橋が架かっている事になっていますが、余り役に立たない橋でした。深い濠なので転んでしまいました。
2018年05月20日 11:51撮影
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5/20 11:51
< 三角点を見に行きます >
二の丸のパネルの立つ位置から30mほど先に、「伏兵穴群」に向かう道が分岐しています。空濠に土橋が架かっている事になっていますが、余り役に立たない橋でした。深い濠なので転んでしまいました。
< 伏兵穴 >
何となく凹んでいる穴らしきものがいくつもあります。伏兵穴(ふくへいあな)群です。
2018年05月20日 11:58撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 11:58
< 伏兵穴 >
何となく凹んでいる穴らしきものがいくつもあります。伏兵穴(ふくへいあな)群です。
< 三角点 >
〜を見つけました。三等三角点「松尾」=標高435.70mです。二の丸の分岐から約150mですが、藪漕ぎが必要でした。
2018年05月20日 12:00撮影
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5/20 12:00
< 三角点 >
〜を見つけました。三等三角点「松尾」=標高435.70mです。二の丸の分岐から約150mですが、藪漕ぎが必要でした。
< 本道に戻ります >
最後の深い堀切を越えて、少し進むと、三の丸跡です。
2018年05月20日 12:10撮影
5/20 12:10
< 本道に戻ります >
最後の深い堀切を越えて、少し進むと、三の丸跡です。
< 三の丸跡(山頂) >
基準点=標高473.58mをまたいで、山頂に到着。
2018年05月20日 12:12撮影
5/20 12:12
< 三の丸跡(山頂) >
基準点=標高473.58mをまたいで、山頂に到着。
< 二度目の登頂 >
〜でした。帰りの電車時間も気になるので、急いで下山します。
2018年05月20日 12:12撮影
5/20 12:12
< 二度目の登頂 >
〜でした。帰りの電車時間も気になるので、急いで下山します。
< 先ほどの分岐 >
伏兵穴群・三角点に繋がる横道ですが、目印のリボンがないと見落としそうです。
2018年05月20日 12:25撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 12:25
< 先ほどの分岐 >
伏兵穴群・三角点に繋がる横道ですが、目印のリボンがないと見落としそうです。
< 先先ほどの分岐 >
〜は、馬出ルートと下城戸ルートの合流点◆畚苗樟廚ら上がってくる道が合流〜しています。ここも通ってきた道ですが、見落としそうな感じです。ここは直進し、もう一つ下の分岐(合流)点で、馬出に下ることにします。
2018年05月20日 12:29撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 12:29
< 先先ほどの分岐 >
〜は、馬出ルートと下城戸ルートの合流点◆畚苗樟廚ら上がってくる道が合流〜しています。ここも通ってきた道ですが、見落としそうな感じです。ここは直進し、もう一つ下の分岐(合流)点で、馬出に下ることにします。
< 馬出ルートが分岐 >
〜馬出ルートと下城戸ルートの合流点 畧蘊敷跡から上がってくる道が合流〜しています。ここで深く左に曲がり下ります。
2018年05月20日 12:31撮影
5/20 12:31
< 馬出ルートが分岐 >
〜馬出ルートと下城戸ルートの合流点 畧蘊敷跡から上がってくる道が合流〜しています。ここで深く左に曲がり下ります。
< 千畳敷跡に向かいます >
空濠が右手にあり、少し下りチョット上がってから緩い下りが続きます。
2018年05月20日 12:32撮影
5/20 12:32
< 千畳敷跡に向かいます >
空濠が右手にあり、少し下りチョット上がってから緩い下りが続きます。
< 左手の上方に >
〜宿直跡から伸びてきている道が見えます。今歩いている道と一部が平行していて、連絡路(下草で判りにくい)で繋がっています。
2018年05月20日 12:33撮影
5/20 12:33
< 左手の上方に >
〜宿直跡から伸びてきている道が見えます。今歩いている道と一部が平行していて、連絡路(下草で判りにくい)で繋がっています。
< 千畳敷跡に出ました >
ここから先は、馬出ルートを一気に下ります。〜その前に、[山上御殿群]周囲の道を整理してみました。
2018年05月20日 12:35撮影
5/20 12:35
< 千畳敷跡に出ました >
ここから先は、馬出ルートを一気に下ります。〜その前に、[山上御殿群]周囲の道を整理してみました。
< 梯子の様な散策路 >
進入経路は2方向(北と北西から)のみです。北からは、下城戸(ないしは三万谷)から上がってきます。北西からは、馬出からのルートです。[千畳敷跡−下城戸ルート]間の道/[宿直跡−下城戸ルート]間の道〜の2本を梯子段の様に、結ぶ横道があると考えると、理解しやすいと思います。
< 梯子の様な散策路 >
進入経路は2方向(北と北西から)のみです。北からは、下城戸(ないしは三万谷)から上がってきます。北西からは、馬出からのルートです。[千畳敷跡−下城戸ルート]間の道/[宿直跡−下城戸ルート]間の道〜の2本を梯子段の様に、結ぶ横道があると考えると、理解しやすいと思います。
< 本丸だったかも >
〜知れない「千畳敷跡」別れを告げました。
2018年05月20日 12:37撮影
5/20 12:37
< 本丸だったかも >
〜知れない「千畳敷跡」別れを告げました。
< 一段降りた所 >
〜にも広い削平地があります。説明文によると、上の「千畳敷」とこの平地を併せて、千畳敷・万畳敷と言われていたのかも知れないとのこと。
2018年05月20日 12:38撮影
5/20 12:38
< 一段降りた所 >
〜にも広い削平地があります。説明文によると、上の「千畳敷」とこの平地を併せて、千畳敷・万畳敷と言われていたのかも知れないとのこと。
< 不動清水を通り過ぎ >
〜城戸内川上流の沢に下ります。
2018年05月20日 12:42撮影
5/20 12:42
< 不動清水を通り過ぎ >
〜城戸内川上流の沢に下ります。
< 間違えた道から >
〜本道に復帰した地点になりますので、よく観察しておきました。
2018年05月20日 12:43撮影
5/20 12:43
< 間違えた道から >
〜本道に復帰した地点になりますので、よく観察しておきました。
< 馬出ルートの詳細 >
馬出ルート五合目以下に、見所があります。磨崖仏、小見放城跡、馬出跡、そして最後に大手道を通り一乗谷に戻ります。
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< 馬出ルートの詳細 >
馬出ルート五合目以下に、見所があります。磨崖仏、小見放城跡、馬出跡、そして最後に大手道を通り一乗谷に戻ります。
< 磨崖仏 >
巨石に仏様が掘られています。
※:ルートに置かれている案内板のマップでは、[磨崖仏のある位置]を『地蔵尊』と記されています。
2018年05月20日 13:07撮影
5/20 13:07
< 磨崖仏 >
巨石に仏様が掘られています。
※:ルートに置かれている案内板のマップでは、[磨崖仏のある位置]を『地蔵尊』と記されています。
< 掲示物の写真 >
〜と比較してみました。だんだん、お姿が薄くなってきているみたいです。
2018年05月20日 13:08撮影
5/20 13:08
< 掲示物の写真 >
〜と比較してみました。だんだん、お姿が薄くなってきているみたいです。
< 城戸内川 >
〜を渡ります。[山上御殿群]でお逢いした方々と、再開会しました。上の方で、道を教えていただいて感謝しています。この沢のそばに、説明パネルが2つありました。
2018年05月20日 13:11撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 13:11
< 城戸内川 >
〜を渡ります。[山上御殿群]でお逢いした方々と、再開会しました。上の方で、道を教えていただいて感謝しています。この沢のそばに、説明パネルが2つありました。
< 櫓や城跡などの説明 >
しかし、小見放城(こみはなちじょう)跡は何処なのでしょう。
2018年05月20日 13:14撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 13:14
< 櫓や城跡などの説明 >
しかし、小見放城(こみはなちじょう)跡は何処なのでしょう。
< 小見放城跡の説明 >
〜されていますが、何も見えません。その城跡は、城戸内谷のこの場所(砂防堰堤の上流側)の南側の崖の上にあるみたいです。
2018年05月20日 13:14撮影 by  PENTAX K-1 , RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
5/20 13:14
< 小見放城跡の説明 >
〜されていますが、何も見えません。その城跡は、城戸内谷のこの場所(砂防堰堤の上流側)の南側の崖の上にあるみたいです。
< 砂防堰堤の横 >
〜を通りぬけ、下ります。
2018年05月20日 13:17撮影
5/20 13:17
< 砂防堰堤の横 >
〜を通りぬけ、下ります。
< 観音菩薩さま >
〜のようですが、説明板がありません。
2018年05月20日 13:20撮影
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5/20 13:20
< 観音菩薩さま >
〜のようですが、説明板がありません。
< 馬出(うまだし) >
〜に出てきました。馬出は城の入口部分に造られた郭のことです。
2018年05月20日 13:22撮影
5/20 13:22
< 馬出(うまだし) >
〜に出てきました。馬出は城の入口部分に造られた郭のことです。
< 土塀の基礎部分 >
〜だと思われる石垣があります。一乗谷川が見下ろせました。一乗谷史跡公園センターがあるのですが、駐車場の部分しか見えていません。
2018年05月20日 13:23撮影
5/20 13:23
< 土塀の基礎部分 >
〜だと思われる石垣があります。一乗谷川が見下ろせました。一乗谷史跡公園センターがあるのですが、駐車場の部分しか見えていません。
< 馬出を振り返った所 >
〜です。ここから、八幡神社の鳥居の所まで下る道が『大手道』になります。
2018年05月20日 13:26撮影
5/20 13:26
< 馬出を振り返った所 >
〜です。ここから、八幡神社の鳥居の所まで下る道が『大手道』になります。
< 登山道入口 >
下の八幡神社の鳥居の所が、馬出ルート登山口となっています。きっと厳密には、登山道入口≠登山口〜なのでしょう。登山道入口=[登山用の道]の入口/登山口=[登る山]の口〜とでも理解するか?
2018年05月20日 13:27撮影
5/20 13:27
< 登山道入口 >
下の八幡神社の鳥居の所が、馬出ルート登山口となっています。きっと厳密には、登山道入口≠登山口〜なのでしょう。登山道入口=[登山用の道]の入口/登山口=[登る山]の口〜とでも理解するか?
< 馬出ルート登山口 >
〜から出て、登山終了です。
2018年05月20日 13:29撮影
5/20 13:29
< 馬出ルート登山口 >
〜から出て、登山終了です。
< 瓜割清水 >
登山口から500mほど歩きました。綺麗な水です。
2018年05月20日 13:38撮影
5/20 13:38
< 瓜割清水 >
登山口から500mほど歩きました。綺麗な水です。
< メダカ? >
〜はたまた「イトヨ」? 近所の奥様方が近くで立ち話していましたので、この小魚のことを尋ねてみました。食器の洗い物をこの清水ですると、食器に着いていた米粒などを食べに、小魚たちが集まって来るそうです。魚の名前は気にしたことがないそうです。
2018年05月20日 13:39撮影
5/20 13:39
< メダカ? >
〜はたまた「イトヨ」? 近所の奥様方が近くで立ち話していましたので、この小魚のことを尋ねてみました。食器の洗い物をこの清水ですると、食器に着いていた米粒などを食べに、小魚たちが集まって来るそうです。魚の名前は気にしたことがないそうです。
< 桜の木が植えられている >
〜「柳の馬場」を横切り、休憩所に入りおにぎりを頂きました。
2018年05月20日 13:42撮影
5/20 13:42
< 桜の木が植えられている >
〜「柳の馬場」を横切り、休憩所に入りおにぎりを頂きました。
< 二度目の入館です >
朝倉義景館跡を再訪問しました。
2018年05月20日 13:56撮影
5/20 13:56
< 二度目の入館です >
朝倉義景館跡を再訪問しました。
< 北門跡 >
〜に出てみました。稲荷神社があります。
2018年05月20日 13:59撮影
5/20 13:59
< 北門跡 >
〜に出てみました。稲荷神社があります。
< 義景公墓と庭園 >
〜を見てから、上に上がります。
2018年05月20日 14:00撮影
5/20 14:00
< 義景公墓と庭園 >
〜を見てから、上に上がります。
< 朝倉義景館跡庭園 >
見事なものですが、どことなく、はかなさを感じさせてくれます。
2018年05月20日 14:03撮影
5/20 14:03
< 朝倉義景館跡庭園 >
見事なものですが、どことなく、はかなさを感じさせてくれます。
< 湯殿跡 >
〜に上がります。九十九折りの階段を登ってすぐ右手が庭園です。
2018年05月20日 14:04撮影
5/20 14:04
< 湯殿跡 >
〜に上がります。九十九折りの階段を登ってすぐ右手が庭園です。
< 湯殿跡庭園 >
適当に鑑賞してから、空濠に架かる橋を渡り「中の御殿跡」に進みます。
2018年05月20日 14:06撮影
5/20 14:06
< 湯殿跡庭園 >
適当に鑑賞してから、空濠に架かる橋を渡り「中の御殿跡」に進みます。
< 中の御殿跡 >
中の御殿跡の南門跡から出て、高い所から「中の御殿跡」を見下ろします。
2018年05月20日 14:07撮影
5/20 14:07
< 中の御殿跡 >
中の御殿跡の南門跡から出て、高い所から「中の御殿跡」を見下ろします。
< 上から見下ろしました >
この場所は、桜の季節が良さそうです。
2018年05月20日 14:09撮影
5/20 14:09
< 上から見下ろしました >
この場所は、桜の季節が良さそうです。
< 諏訪館跡 >
広場(原っぱ)を一つ通り抜け、「諏訪館跡」に入ります。
2018年05月20日 14:10撮影
5/20 14:10
< 諏訪館跡 >
広場(原っぱ)を一つ通り抜け、「諏訪館跡」に入ります。
< 諏訪館跡庭園 >
城山の上にあった「不動清水」から流れて下りてきた水もこの庭園の池に流れ込んでいるはずです。
2018年05月20日 14:12撮影
5/20 14:12
< 諏訪館跡庭園 >
城山の上にあった「不動清水」から流れて下りてきた水もこの庭園の池に流れ込んでいるはずです。
< 米津(よねづ) >
〜の横を通り、諏訪館橋を渡ります。
2018年05月20日 14:14撮影
5/20 14:14
< 米津(よねづ) >
〜の横を通り、諏訪館橋を渡ります。
< 復元町並南出入口 >
〜から、復元町並に入町しました。
2018年05月20日 14:16撮影
5/20 14:16
< 復元町並南出入口 >
〜から、復元町並に入町しました。
< 北側にあるガイダンス >
〜に入ります。
2018年05月20日 14:21撮影
5/20 14:21
< 北側にあるガイダンス >
〜に入ります。
< めがねフレーム >
の技術?で創られた鎧兜でしょうか? 町並の模型も見事です。
2018年05月20日 14:23撮影
5/20 14:23
< めがねフレーム >
の技術?で創られた鎧兜でしょうか? 町並の模型も見事です。
< 復元町並北出入口 >
〜から出ました。
2018年05月20日 14:25撮影
5/20 14:25
< 復元町並北出入口 >
〜から出ました。
< 月見櫓跡へ >
〜登ります。急階段なので、警告文が掲示されていました。展示されているマップに展望所の位置を描き加えてみました。
2018年05月20日 14:27撮影
5/20 14:27
< 月見櫓跡へ >
〜登ります。急階段なので、警告文が掲示されていました。展示されているマップに展望所の位置を描き加えてみました。
< 月見やぐら展望所 >
思っていたほど、景色がありません。
2018年05月20日 14:29撮影
5/20 14:29
< 月見やぐら展望所 >
思っていたほど、景色がありません。
< 説明パネル >
〜を拡大してみました。
2018年05月20日 14:30撮影
5/20 14:30
< 説明パネル >
〜を拡大してみました。
< オドリコソウ(踊子草) >
シソ科オドリコソウ属。月見櫓跡から下りてきた所で見つけた花です。オドリコソウは薄ピンクのものが多いのですが、この株の花は、やけに白く見えました。
2018年05月20日 14:32撮影
5/20 14:32
< オドリコソウ(踊子草) >
シソ科オドリコソウ属。月見櫓跡から下りてきた所で見つけた花です。オドリコソウは薄ピンクのものが多いのですが、この株の花は、やけに白く見えました。
< 雲正寺地区 >
〜は、復元町並と平面復元地区の間にあります。
2018年05月20日 14:33撮影
5/20 14:33
< 雲正寺地区 >
〜は、復元町並と平面復元地区の間にあります。
< 八地谷川(小川) >
〜が流れているためか、ここの井戸跡には水が多く溜まっていました。※:雲正寺地区を振り返りました。
2018年05月20日 14:34撮影
5/20 14:34
< 八地谷川(小川) >
〜が流れているためか、ここの井戸跡には水が多く溜まっていました。※:雲正寺地区を振り返りました。
< 平面復元地区 >
〜の奥の方に、休憩舎がありました。
2018年05月20日 14:36撮影
5/20 14:36
< 平面復元地区 >
〜の奥の方に、休憩舎がありました。
< 目立たない場所にある >
〜休憩舎ですが、眺めの良い位置にあるようです。
2018年05月20日 14:38撮影
5/20 14:38
< 目立たない場所にある >
〜休憩舎ですが、眺めの良い位置にあるようです。
< 城戸ノ内町 >
〜の民家の間を散策路が通っていて、町道とかなり重なっています。
2018年05月20日 14:54撮影
5/20 14:54
< 城戸ノ内町 >
〜の民家の間を散策路が通っていて、町道とかなり重なっています。
< オオジシバリ(大地縛り) >
キク科ノニガナ属。同族の「イワニガナ(岩苦菜、別名=ジシバリ)」とよく似ています。花の部分はほとんど同じなので、葉っぱを見て鑑別します。
2018年05月20日 14:56撮影
5/20 14:56
< オオジシバリ(大地縛り) >
キク科ノニガナ属。同族の「イワニガナ(岩苦菜、別名=ジシバリ)」とよく似ています。花の部分はほとんど同じなので、葉っぱを見て鑑別します。
< ハルジオン(春紫苑) >
キク科ムカシヨモギ属。同族の「ヒメジョオン(姫女苑)」と似ていますが、よく見れば簡単に鑑別出来ます。ハルジオンの花弁(花ビラ)は細かく目の細かいブラシのように見えます〜に対して、ヒメジョオンのそれは、より太く目が荒いハケのような感じがします。
2018年05月20日 14:58撮影
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5/20 14:58
< ハルジオン(春紫苑) >
キク科ムカシヨモギ属。同族の「ヒメジョオン(姫女苑)」と似ていますが、よく見れば簡単に鑑別出来ます。ハルジオンの花弁(花ビラ)は細かく目の細かいブラシのように見えます〜に対して、ヒメジョオンのそれは、より太く目が荒いハケのような感じがします。
< 下城戸 >
〜に到着。
2018年05月20日 15:01撮影
5/20 15:01
< 下城戸 >
〜に到着。
< キショウブ(黄菖蒲) >
アヤメ科アヤメ属。よく似た同族の「ハナショウブ」は白や紫の花が多いですが、黄色の花のハナショウブもあるらしい。それは、キショウブとハナショウブを掛け合わせた種だといいます。
2018年05月20日 15:02撮影
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5/20 15:02
< キショウブ(黄菖蒲) >
アヤメ科アヤメ属。よく似た同族の「ハナショウブ」は白や紫の花が多いですが、黄色の花のハナショウブもあるらしい。それは、キショウブとハナショウブを掛け合わせた種だといいます。
< 安波賀春日神社 >
略誌が書かれています。
2018年05月20日 15:09撮影
5/20 15:09
< 安波賀春日神社 >
略誌が書かれています。
< お参りに上がります >
「瀧殿社」というお社が、拝殿から100mほど登った所にあるらしいが、疲労困憊していたので、拝殿までにしました。
2018年05月20日 15:10撮影
5/20 15:10
< お参りに上がります >
「瀧殿社」というお社が、拝殿から100mほど登った所にあるらしいが、疲労困憊していたので、拝殿までにしました。
< 拝殿と本殿 >
奥に鎮座している「本殿」の屋根は、唐破風の上に千鳥破風が乗っています。
2018年05月20日 15:14撮影
5/20 15:14
< 拝殿と本殿 >
奥に鎮座している「本殿」の屋根は、唐破風の上に千鳥破風が乗っています。
< 参道の石段 >
〜を下り、西山光照寺跡を目指します。
2018年05月20日 15:17撮影
5/20 15:17
< 参道の石段 >
〜を下り、西山光照寺跡を目指します。
< 遊歩道 >
〜を歩き、九頭竜線の線路の西側を進みます。一乗谷駅、資料館が見えてきました。
2018年05月20日 15:21撮影
5/20 15:21
< 遊歩道 >
〜を歩き、九頭竜線の線路の西側を進みます。一乗谷駅、資料館が見えてきました。
< 西山光照寺跡 >
〜に到着。ちなみに、現在の「西山光照寺」は福井市花月に移転先しています。『福井大仏観音』で有名だそうです。
2018年05月20日 15:24撮影
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< 西山光照寺跡 >
〜に到着。ちなみに、現在の「西山光照寺」は福井市花月に移転先しています。『福井大仏観音』で有名だそうです。
< 阿弥陀三尊板碑 >
2018年05月20日 15:26撮影
5/20 15:26
< 阿弥陀三尊板碑 >
< 池を取り囲む地蔵群 >
2018年05月20日 15:27撮影
5/20 15:27
< 池を取り囲む地蔵群 >
< 石仏覆屋 >
〜の中に石仏様が納められています。
2018年05月20日 15:28撮影
5/20 15:28
< 石仏覆屋 >
〜の中に石仏様が納められています。
< 覆屋の後ろ側 >
〜から帰ります。
2018年05月20日 15:29撮影
5/20 15:29
< 覆屋の後ろ側 >
〜から帰ります。
< 田んぼを迂回して >
〜駅の北側にある踏切を越え、回り込むようにして、一乗谷駅に戻ります。
2018年05月20日 15:32撮影
5/20 15:32
< 田んぼを迂回して >
〜駅の北側にある踏切を越え、回り込むようにして、一乗谷駅に戻ります。
< 15:48発車 >
〜に発車しました(九頭竜線)。時刻表より2分遅れでした。
2018年05月20日 15:47撮影
5/20 15:47
< 15:48発車 >
〜に発車しました(九頭竜線)。時刻表より2分遅れでした。
< 福井駅で乗換え >
約30分待ちでした。JR北陸本線=サンダーバード大阪発・金沢行き〜に乗車しました。
2018年05月20日 16:37撮影
5/20 16:37
< 福井駅で乗換え >
約30分待ちでした。JR北陸本線=サンダーバード大阪発・金沢行き〜に乗車しました。
< 金沢駅 >
〜で[駅呑み]してから、JR七尾線=和倉温泉駅行き19:24発に乗り、七尾に帰りました。今回も沢山勉強させていただきました。郷土と城山に感謝します。
〜スライドは以上です。
2018年05月20日 19:14撮影
5/20 19:14
< 金沢駅 >
〜で[駅呑み]してから、JR七尾線=和倉温泉駅行き19:24発に乗り、七尾に帰りました。今回も沢山勉強させていただきました。郷土と城山に感謝します。
〜スライドは以上です。

装備

個人装備
中型ザック キャップ 軍手 スマートホン GPS 一眼レフデジカメ 予備電池 タオル3本 おにぎり 水2L

感想

___【 良かったこと 】___

● 両日(第一部・第二部)とも快晴に恵まれた。

● 朝倉氏遺跡のかなりの部分が網羅できた。

● 福井城(北庄城)跡も見学できた。

___【 悪かったこと 】___

● 2回目の一乗城山登山(第二部)では、登山ルートを間違えてしまった。崩落の進んだ巡視路に進入してしまい通り抜けるのが辛かった。

● 朝倉氏遺跡を見て回るにつれて、回りきれなかった箇所が気がかりになった。

___【 最後に 】___

 [一乗城山]は、登ってみるまでは平凡な山というイメージでした。しかし実際に登ってみると、低山ながらも登りごたえのある(私の場合はルートを間違えたことも影響?)山だと実感できました。何よりも、[一乗城山]自体が、国の特別史跡『一乗谷朝倉氏遺跡』に含まれていることが魅力でした。歴史のある城山です。
 これからも、歴史探訪を兼ねて、各地の城山に登りたいと思います。

___【 城の記録のリンク 】___

 私は、2年位前からお城巡りを兼ねた山行をしています。

● 駅から登山「小谷山」〜河毛駅から小谷城跡を巡る〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1313767.html

● 駅から登山『春日山』〜春日山駅から春日山城跡に登る〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1286914.html

● 七尾城山=「雪の七尾城址」〜城山展望台=「スノーシューハイクならず」
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1066182.html

● 特別名勝『兼六園』回遊・『金沢城公園』遊歩〜金沢駅からハイキング〜
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1009137.html

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