【過去レコ】槍ヶ岳(北鎌尾根)
- GPS
- 56:00
- 距離
- 37.8km
- 登り
- 3,159m
- 下り
- 3,134m
天候 | 曇りでしたかね。ガスガス。槍ヶ岳では初雪❓白くなりました。 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
帰りは、新穂高から高山、急行「たかやま」で帰京。 *当時は、夜行急行「ちくま」に大変お世話になりました。2005年に廃止。復活してくれると嬉しいですけどね。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
バリエーションルートです。最新の情報が必要です。 ◆最近のレコでは、上高地から東鎌尾根の水俣乗越から下って、北鎌沢に入るのが多いです。 |
予約できる山小屋 |
|
写真
感想
【過去記録の整理】
バリエーションルートにはまっていた時期は、山岳図書もたくさん読みあさっていました。
「風雪のビバーク」の松濤明や、「孤高の人」の加藤文太郎などに驚かされてましたね。
二人ともが遭難死した北鎌尾根、多くの岳人が歩いた尾根に、一度は登りたい思っていました。
アプローチの長さの苦労は、忘れてます。
思い出は、北鎌沢の最後の草付きが滑りそうな嫌な感じであったこと、サクッと独標、槍ヶ岳に到着した感じですかね。忘れてますね💦
生活環境の変化と共に、バリエーションルートは、これを最後に行かなくなりましたかね。大人になりました😅
槍ヶ岳さんに感謝です❗
[日程]
20日:仕事を終了し、京都から夜行急行に。
21日:信濃大町駅からタクシーで七倉ダム(入山)→湯俣→千天出合でサイト
22日:千天出合→天上沢→北鎌沢(右俣)→独標→槍ヶ岳→肩でサイト
23日:肩→槍平→新穂高(下山)→高山→京都
◆北鎌尾根の歴史
・1920年(大正9年)7月18日に、信濃山岳会の土橋荘三が、案内人小林喜作と共に初登攀。
・1922年(大正11年)7月5日に、早稲田大学と学習院の山岳部が日を同じくして登頂。
・1936年(昭和11年)に、加藤文太郎が遭難死。
・1949年(昭和24年)に、松濤明が遭難死。
◆風雪のビバークの遺書
(遺書は長野県の大町・山岳博物館に展示)
1月6日。風雪
全身凍って力なし。
何とか湯俣までと思うも有元を捨てるに忍びず死を決す。
お母さん、あなたの優しさにただ感謝。
一足先に、お父さんの所へ行きます。
何の孝養も出来ずに死ぬ罪をお許しください。
井上さんなどに色々相談して・・
井上さん、色々ありがとうございました。
家族の事またお願い。
手の指、凍傷で思う事千分の一も書けず申し訳なし。母、弟を頼みます。
有元と死を決したのが6時。
今、14時、中々死ねない。
ようやく腰まで硬直がきた。
全身ふるえ、有元HERZ(チョッと意味不明・脈が弱ってきたか?)
そろそろ苦し。
日暮れと共にすべて終わらん。
ユタカ・ヤスシ・タカオよ済まぬ、許せ。
強く孝養たのむ。
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