大島亮吉『石狩岳より石狩川に沿うて』100年前の足跡をたどって .ワウンナイ川遡行 - ヒサゴ沼 - 化雲岳 - 五色岳 - ヌタプヤンペツ川下降
- GPS
- 59:46
- 距離
- 32.8km
- 登り
- 1,712m
- 下り
- 1,261m
コースタイム
- 山行
- 8:21
- 休憩
- 0:01
- 合計
- 8:22
- 山行
- 11:05
- 休憩
- 0:03
- 合計
- 11:08
過去天気図(気象庁) | 2020年07月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
感想
◉大島亮吉、二〇歳の山行
大島亮吉と言えば日本登山史上のビッグネームである。大正期から昭和初期にかけて、槇有恒、三田幸夫らとともに草創期の慶應義塾山岳部で活躍し、アルピニズムというヨーロッパの登山思潮を日本に紹介するとともに、自ら先鋭的な岩登りやスキー登山を実践した。昭和三(一九二八)年、まだ二八歳の若さで前穂北尾根に逝ったが、彼の著作の数々は、山岳文学の古典として今に至るまで長く読み継がれている。
それらの文章の中でも北海道の岳人に一番なじみ深いのは、死後出版された『山 研究と随想』(岩波書店・昭和五年)に収録されている『石狩岳より石狩川に沿う(ふ)て』(初出『登高行』第三年(慶應義塾山岳部・大正一〇年))だろう。大島が北海道を訪れたのは二回、それも夏だけだったが、まだ登山者の少なかった時代にいわば探検的な登山を行っており、その最初の山旅の様子を書いたのが『石狩岳より〜』である。大正九(一九二〇)年七月のことで、昨年二〇二〇年はちょうど一〇〇周年にあたっていた。
当時の大島は慶應の学生で弱冠二〇歳。この山行は「大雪山の父」と呼ばれる小泉秀雄の助言を受けて彼が歩いたルートをなぞったもので、小泉と行を共にした成田嘉助と高橋浅市を案内人に雇っており、嘉助についていった側面が強い。それでも、大島の情緒あふれる文章が多くの岳人に北の山への憧憬の念を呼び起こしてきたことを考えれば、その文章をもとに一〇〇年後に彼らの足跡をたどってみることも無意味とは言えないだろう。そう考え、コロナ禍のなかではあるが、日本山岳会北海道支部として一〇〇周年記念山行を企画し、実施することとした。
大島と田中三晴(後に北海道初の登山ガイドブック『北海道の山岳(登山案内)』(昭和六年)を編集・出版)、二人の案内人が大正九年七月二一日から三一日にかけて歩いたルートは、松山温泉−クワウンナイ−トムラウシ−ヌタプヤムペツ−石狩沢−石狩岳−ユーニ石狩岳−ユーニイシカリ−石狩川−大箱−層雲別温泉−留辺志部。松山温泉は現在の天人峡温泉、ヌタプヤムペツはヌタプヤンベツ川、ユーニイシカリは由仁石狩川、大箱は大函、層雲別は層雲峡、留辺志部は上川町市街のことである。
私たちの今回の山行ルートは、詳細がほぼはっきりしていて比較的歩きやすいその前半部分とした。天人峡から北海道で一番有名な沢登りルート・クワウンナイ川を遡り、稜線の登山道から日本百名山のトムラウシ山を往復、化雲岳、五色岳へと縦走路をたどって、忠別岳へのコルからヌタプヤンベツ川を降り石狩川本流へと出る二泊三日の行程である。大島たちの後半部分のルートについては二〇二一年の夏にたどった。
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山行に先駆けて六月二五日には、白石のルームで勉強会を実施し、大島たちがどこを歩いたのかを検討した。七月上旬には、私は妻とともに入山地点や下山地点を下見するとともに、大島たちの後半部分のルートについても、スタート地点となる旧石狩沢(現在の石狩沢ではない。後述)と石狩川本流の合流点や、由仁石狩川とルベシナイ川の合流点、大函なども検分、さらには大島が『北海道の夏の山』に書いた二回目の北海道行でたどった、菅野温泉付近のシイシカリベツ川の沢も歩いてみた。
◉クワウンナイ川を遡る
そして二〇二〇年七月二三日夜、われわれ五人は、クワウンナイ川の出合にほど近い入山地の天人峡・清流橋たもとの駐車場のテントにいた。そして明日からの山行を控え、ぐずつく空模様に気を揉んでいた。当初の予定では既にクワウンナイ川に入渓しているはずだったが、天候が不安定で沢の増水が懸念されたために一日延期。この日、下山地のヌタクヤンベ林道入口に車を一台置いた後、ここまで移動してきていた。
一〇〇年と二日前の夜に、ここから一舛曚匹両昌害浩瑤如大島たちがやはり落ち着かない気分でいただろうと思うと感慨深い。
「ただ板片を集めて組み立てた様な極めて粗造の小舎造りの浴舎の古新聞紙を張りつめた板壁で囲まれた室のうちで自分は鈍いランプの火光の下にある自分の姿を見出した。」
『石狩岳より〜』の冒頭で大島がそう描写した松山温泉がその後天人峡温泉となり、一時は五軒のホテルが建ち並ぶほどになったものの、今はまた一軒宿となっていることに、一〇〇年という時の長さを実感する。
翌七月二四日五時三〇分、小雨が降る中での不安なスタート。大島たちは松山温泉から忠別川本流を降って、クワウンナイ川を出合から遡行しているが、われわれは砂防ダムを巻き道で越えてポンクワウンナイ川出合付近から入渓する。
この日は、最初の方で現れるゴルジュを通過し、大函を思わせる柱状節理の中を抜けると、あとはひたすら、近年の台風の影響で大きく開けて木のなくなった広い河原を、渡渉を繰り返しながら遡っていく。雨は断続的に降り続き、川の水量は多め。
「「Kuwa un naiとは杖川の義にて険阻なれば杖に依りて登るべき所との意義を有せるなり」と書かれた小泉氏の記述を想い出して皆各自に手頃な杖をと河原の流木のうちからさがし出して手にした。」
大島のこの記述を思い出したわけではないが、私も手頃な流木を拾って杖にする。他のメンバーは皆ストックを手にしている。あまり沢慣れしていないメンバーもいるので、スクラム渡渉も交えて渡渉していく。
時折ポイントごとに『石狩岳より〜』の文章と現在の様子や地形などを比べつつ進んでいく。この日の行程で気になっていたのは、次のような描写の箇所だ。
「剥ぎとられたように崩れた急崖が両岸に続いて右岸にまた小さな沢が合流している。(中略)上流の化雲岳もトムラウシも見えないが横岳一八四〇米突のカルデラには高く、真実「白糸の如き」と言う形容詞に相応した細い一条の瀑布が鮮やかに見える。」
当時の地図が誤っていたために、山と沢の位置関係に誤解があるのは致し方ないが、問題は、クワウンナイ川の中下流部で、支流の上部にこんな滝が望める場所があるのか?ということ。そんな話は聞いたことがないが、あるとすれば八七六檀弦眦世里箸海蹐鳳Υ濛Δら流入する支流ぐらいしか考えられない。しかし、生憎の悪天で稜線はおろか上の方は雲の中でまったく見えず、確認できなかった。
一三時過ぎ、幕営地のカウン沢出合に着く頃には雨も止んでいた。『石狩岳より〜』には、このカウン沢出合の二股については全く言及がなく、大島たちはもっと上流、「滝の瀬十三丁」のナメを抜けたところで野営している。我々も本当はそこまで行きたかったのだが、様々なことを考慮してここに泊まることにする。
メンバーの一人が人数分+αのイワナを釣り上げ、刺身と焚き火による塩焼きで食した。一〇〇年前には浅市と田中がここよりも下流でイワナを釣っているが、期待に反してあまり釣れず、その原因をドロヤナギ(ドロノキ)の皆伐による川の荒廃に帰し、森林保護の必要性を痛感している。その分析が正しいかはともかく、大正期に既にこの山奥で乱伐が行われ、森林保護という意識が芽生えていたことにちょっと驚かされる。
◉百年変わらぬ滝の瀬十三丁
二五日六時、幕営地を出発する頃には、またしても雨が降り出す。前日の夕食時には空に夕焼けが広がり、翌日の好天を約束しているかのようだったのだが……。
一時間足らずで小さな雪渓が姿を現す。大島たちが初めて残雪を見出したのは滝の瀬十三丁のナメの途中だったが、それよりもかなり早い。地球温暖化で積雪量は一〇〇年前よりも少なくっていそうだが、何事もそう単純ではない。
すぐに魚止めの滝。その上の曲がったナメ滝をスリップしないように左岸側から慎重に越え、さらに高さ一〇辰曚匹良広の滝を左から登ると、いよいよクワウンナイ川の代名詞とも言える「滝の瀬十三丁」の始まりである。命名者は小泉秀雄。小泉から「邦内に比較なし」と激賞を受け、是非行くように言われて楽しみしていた大島だったが、ナメの素晴らしさはその期待をはるかに上回るものだったようだ。『石狩岳より〜』から最も有名な箇所を引用しよう。
「この滝を劃然たる境界にしてクワウンナイは下流の傷ましい荒廃した光景から全くユニックな河相を展開している。安山岩の少しも大きな凹凸のない河床を一杯に清冽な水は無数の白泡を浮かべ飛沫を跳ね飛ばして淙々とした音を立てて流れてゆく。ただにその河床は数町にて終わらず、屈曲して河身の見えない処までつづいている。潺々たる水、瑠璃玉のような水泡、すべてが河床を辷るように流れてゆく。我々はこれまでの尖々しい感じはこの明媚な秀麗な景趣に洗い流されて一種の幽趣を帯びた、まるで南宋画にあるようなこの景図のうちを歓声を挙げつつ進んだ。河床は少しも滑らずしっかりした歩調で歩く足先に水は激してそのくだける飛沫は細い霧となって冷たく顔へかかる。水泡の中、岩の上、蘚苔を踏んで遡ってゆく。緩傾斜をしていて処々は低く滝になっているが容易に登れる。屈曲する河の行手にまた同じような光景の顕われる度に双手を挙げて不用意な歓声が洩れる。」
ナメは最初はちょっと傾斜があるがすぐにほぼ平らになり、今やわれわれの眼前には舗装道路のようなナメがはるか彼方まで続いている。下流部は一〇年前と比べても変わってしまったのに、ここは一〇〇年ほぼ変わらぬ光景かと思うと、感激もひとしお。参加メンバーは一人以外が二回目のクワウンナイ川だが、ここは何度来てもいい。各自思い思いにナメを楽しみながらのんびり歩く。いつの間にか雨は上がっている。やがて、前方に左右二つの滝が見えてくる。
「すでに十数町もこの美しい瀬がつづいて、クワウンナイは左右に分れている。両方共に数丈の滝となって、日蔭に始めて残雪を発見した。時に午後二時。標高一一六二米突。左の滝を登れば前面は再び同じような画のごとき光景が展開された。滝の瀬はまだ続いている。」
大島たちと同じように、この一一六〇檀婉瓠並臈腓旅眦抃廚呂なり正確だったようだ)の二股の左の本流の滝を越えて左に曲がると、傾斜が急になったナメが先に続いている。右の滝の方が高く、その上にも滝が見える。こちらは黄金ヶ原から流れてくる支流だ。陽が差してくる中、フカフカのナメのコケを踏んで進む。こんなに分厚いコケは他では見たことがない。大島もクワウンナイのコケについて、
「岩の上の濃緑の蘚苔は踏む足裏に柔らかい触感を与える」
と書いている。
ナメを歩き続けること一時間半ばかり。再び平らになると前方に七、八辰良広のナメ滝が現れ、これを越えると唐突に滝の瀬十三丁は終わる。
大島たちはこの先の一三〇〇檀婉瓩婆遽弔靴討い襪、その付近にある、現在「オーバーハングの滝」と呼ばれる滝への言及は『石狩岳より〜』にはない。この滝はクワウンナイ川の数少ない難所で、その名の通りオーバーハングしていて直登不可能。右岸の岩場から高巻くしかないのだが、近年崩壊が進んで以前より難しくなっている。私たちはザイルを出し、ザックを吊り上げたりして一時間を要した。そんな難所の記述がないのは、当時は簡単な滝だったのか、あるいは滝自体なかったのか?
一方、左股も右股も滝となっている一三六〇辰瞭鷂圓和臈腓諒絃呂砲盻个討る。そして、このあたりで「オヤジ」=ヒグマの足跡や蕗の食痕といった痕跡、そして熊を追ってきたアイヌのタシロ=山刀の痕を発見して様々に想像を膨らませている。大島たちは、この二股の真ん中の尾根から左の滝を高巻いてその上に出ているのだが、私たちも同じルートをとった。高巻きルートが一〇〇年変わっていないのだ。
◉判然としない源頭部のルート
さて、ここから大島たちが、どんなルートをとって稜線まで出たかは、実は判然としない。『石狩岳より〜』にはこうある。
「登り切って再び左の瀑布の上に出て、水を伝わってなお続いて行く。もう水はささやかな流れとなってその陰湿な水辺にはイワブキ、ヤチブキが朝露に濡れて生い茂っていて、樹林を洩れる朝の強烈な光りに鮮やかな輝かしい緑色に反映している。水の絶えるまで辿りつめて、十時には遂に鮮麗な緑のうちにイワイチョウ、ハクサンイチゲ、チングルマ、イワカガミなどの咲き乱れたトムラウシの高層湿原の一角に達した。標高一四八七米突、(中略)この湿原から熔け爛れた熔岩の斜面を飽きる程登ってトムラウシと化雲岳との鞍部に達し…」
最初の一文を読むと、左の滝の上の本流をそのまま遡っていったように取れるが、このルートでは、そんなにすぐに源頭にはならないし、湿原にも出ない。「トムラウシと化雲岳との鞍部」というのがどこを指すのかにもよるが、標高の記述から考えると、もしかすると大島たちは滝の上から、現在の登山地図などに「神々の庭」と表記されている北の湿原に登り、そこから、天沼よりも北の、ヒサゴ沼への分岐のコルで稜線に出たのではないか?そう考えたが、結局われわれは通常通り、本流通しに行く。このあたりは、小さめながら再び滝やナメが現れて楽しいところ。エゾノリュウキンカやキンバイソウ、イワイチョウなどが咲いている。やがて水が切れて源頭となり、草地、雪渓を越えて、ロックガーデンのような巨岩帯に突入。稜線上のコルへ向かって一気に高度を稼いでいく。
ようやく稜線の縦走路に出たのは一五時。トムラウシ山を往復する時間はもうない。山頂までのルート上で何点か検証したいこともあったので、その意味でも残念。たとえば「山頂近くまで登ったところにある火口湖」というのは今の北沼のことだと思うのだが、そこで大島はこんな情景を目にしている。
「無気味な感触を強いるその暗紫色の湖面に下って見れば、水面にはあの醜怪な姿の「サンショウノウヲ」が無数に群れ泳いでいる。幾百世紀もまだ以前−我々の数の観念を超えた−から死滅と創生の繰り返される度毎にそれぞれ新しい世紀に適応しつつ存続して来たこの小さな生命力の執拗さには平常ながら一種の感慨を胸に呼ばずには居られない。」
生命史的、進化論的スケールとでも言うのか、何とも壮大な感慨だが、果たして今も北沼にエゾサンショウウオはいるのか?見てみたかった。
さらに、トムラウシの山頂からの眺望の描写の中で大島は、ニセイカウシペ(ニセイカウシュッペ山)の名を挙げているのだが、Google Earthで検証してみた限り、ニセイカウシュッペ山は、表大雪の陰になってトムラウシからは見えないようだ。それも確認してみたかったのだが、トムラウシは雲に包まれてしまっており、山頂まで行っても確認できなかったかもしれない。
なお、この眺望の描写で大島が北見岳、無加、ユクリヤタナシ、ホロカ十勝岳と書いているのは、それぞれ現在の武利岳、武華山、北見富士、下ホロカメットク山のことだと思われる。ただ、後の石狩岳山頂からの眺望では、下ホロカメットク山のことをパナクシポロカメトクヌプリと書いており、その表記とは一貫性がない。
出発を一日延期していて予備日がないので、トムラウシはあきらめるしかない。山頂に背を向けて縦走路を北へ向かうと、右下に今日の幕営地・ヒサゴ沼が青く見えてくる。昨年改修された避難小屋も見える。実はこの沼の名前は『石狩岳より〜』には出てこない。まだ名前がなかったのだろう。ただし、こんな描写がある。
「降り続けて一つの青紫色の無気味な光をしている沼に達した。残雪が岸の一部に輝いている。この沼があの大河、十勝川の真正の水源の一つをなしているらしい。」
これがヒサゴ沼のことだろうか?たしかに、ここから流れ出るヒサゴ沢は下流でトムラウシ川となり、十勝川の本流に合流している。
なお、このあたりから右手に低く「高原の眸」のように見えたという「青ぐらい鏡面のように光りを反射している」二つの沼は、トムラウシ川の五色沢とスゲ沼沢上流部にあるスゲ沼とその下の沼ではないかと目星を付けていたのだが、そのあたりは雲に隠れて見えなかった。
縦走路の分岐から慎重に雪渓を下り、登山者で賑わう沼の畔にテントを張った。
◉ヌタプヤンベツ川を降る
二六日・最終日は、今山行で初めて朝からの晴天。六時に鏡のようなヒサゴ沼を後にし、よく見えるトムラウシに後ろ髪を引かれつつ、石狩岳やニペソツ山など東大雪の山並みを背後に(3頁上写真)化雲岳まで登ると、旭岳他の表大雪のパノラマが広がる。トムラウシに登れなかったので、標高一九五四・五辰里海硫襲棲抻劃困、今回の山行の最高点。
「左手に登り切った時突然全く戦慄を禁じ得ないような急峻な大断崖の上へひょっくりと出てしまった。化雲岳の爆裂火口壁の上だなと直ぐに感ずると地形はやや解って来た。」
そう大島が書いているのは、ここより東、五色岳方向に少し下ったところだろう。大島はそこで十勝国と石狩国の国境の標木、火口壁上の高いところに化雲岳山頂の三角点測量用の櫓を見出している。そして、現在の五色岳へ向けてハイマツの切明けをたどっている。われわれが歩いたのもハイマツの中の道で、今回の山行で一番ハイマツの濃い場所だった。
大島たちはここでおびただしい数のヒグマの足跡を見つける。成田嘉助は「ブシ矢を注意ろ、ここはオヤジの道だぞ」と怒鳴り、トリカブトの毒を使ったアイヌの毒矢の仕掛け罠に注意するよう警告している。勿論、今は毒矢はないが、熊の掘り返しはいくつも目にした。
五色岳から縦走路を忠別岳とのコルへと下る。大島はこの辺から「夕映えに火焔の如く染まった」石狩岳のシルエットを目にしている。われわれにも石狩連峰は見えるが、雲が出ており、一つ一つの山は判然としない。
縦走路の分岐から三角屋根の忠別岳避難小屋へ向けて下る。この小屋ができたのは昭和四〇年代、「先代」の忠別岳石室が建ったのも昭和二〇年代なので、大島たちが来たときには何もなかった。大雪山で一番古い黒岳石室でさえ、できたのは大正一二年で、大島たちの山行の三年後だ。
一〇時二〇分、小屋の前の雪渓から、ヌタプヤンベツ川の下降が始まる。今山行最後の行程で、一番登山者の少ない区間だ。雪渓や草地を降っていくと、ちょろちょろ水が出てきて、キンバイソウやウコンウツギ、ツガザクラなどのお花畑の中を小川が流れる、のどかな風景が広がる。やがて川幅は広くなるが、傾斜は緩く水量も少ない。
「長い雪田を渡り、漸くヌタプヤムペツが一間近くの幅となっている岸の軟らかい草原を野営地と選定した時はもう奥山盆地は迫り来る果てなき闇の底に沈んで、なお石狩岳の尖端のみがただひとり地平深く沈んだ太陽の余照を紅く保っている。六時一七分であった。一五七六米突の標高である。」
大島たちが野営したのはこのあたりだろうか。われわれは今日中にこの川を下りきって石狩川本流に出なければならないので、先を急ぐ。鹿の姿が見え、鹿道も使って降る。一五〇〇檀婉瓩悩鹸澆了拯を少々遡り、大島たちは訪れていないところだが、地形図にある長さ二〇〇辰曚匹量橘召両造鮓に行く。
本流に戻ってさらに降ると、右岸に岩場が現れる。巨岩の転がる急な崩壊地を降り、小さなナメ滝を過ぎると、一三六〇檀婉瓩如△海梁最大にしてほぼ唯一の八辰曚匹瞭鹵覆梁譴帽圓当たる。
「更に進むと又一つの滝がある。今までのうちで最も高そうで、且つ降るには少し面倒である。嘉助と田中君は右手の灌木の叢生した急崖を迂回し、浅市と自分が階段のような滑り易い岩を伝わって降りた。」
大島がそう書いた滝か。小泉秀雄が「上ること一里ばかりにして一飛瀑あり、高さ三四丈瀑側は皆安山岩の柱状節理の材木岩にて成り、全体は褶曲作用を受け湾曲して褶曲の方向を明示せるは地学興味深かりき」と記述した滝であろうとも大島は記している。たしかに右岸の水流際は柱状節理になっており、大島と浅市が降ったこの階段状のところも何とか行けそうだったが、荷物が重いのでわれわれは大事をとって、嘉助と田中同様に右岸の薮を巻き降る。最後の高さ五辰曚匹療ナ匹魯曄璽襯匹なく、慎重を期してザイルを出し懸垂下降した。
◉消えうせた針葉樹の大森林
ここからは傾斜も緩く単調となり、時間もないので、鹿道を使って両岸の薮をショートカットしながら、ひたすら先を急ぐが、なかなか捗らない。大島たちが、熊を追いつつ沢を降るアイヌの痕跡を発見したあたりだろう。大島たちもイワナを釣りつつ降っているが、われわれにそんな余裕はない。一六時四〇分にようやくヌタクヤンベ林道の終点にたどり着く。何ヵ所か崩壊したこの林道を歩き、入口にデポした車にたどり着くまでにはさらに三〇分ほどを要した。
車で層雲峡に向かい、ヌタプヤンベツ川にかかる沼の原橋の上から下流を望むと、一〇〇辰曚廟茲棒仄軅酲槊との合流点が見えた。
「流れに沿いつつ暗い樹蔭を急ぐとだんだん前面が明るくなって、樹幹の間に何かしらきらきら輝いている。馳けるようにしてそこへ近づいて見るとそれは広い大きな冷やかな河面だった。石狩川の本流であった。これまで幾度かあらぬ想像と強い憧憬を以って胸に描いたことのあるこの盆地とその核心を流るる石狩川の水脈の人知れぬ姿を、今眼の前に置くとき自分の胸は抑え切れぬ喜悦に踊らざるを得ない。」
憧れの石狩川本流を目にした感激を、そんな風に大島が表現した場所である。彼はさらに、この対岸で犬を連れた二人のアイヌの狩人と邂逅して、こう書いている。
「鬱然としたこの原始のままの大森林の暗いなかに、深い草莽を分けて鳥獣の群を追い、或いは魚を釣って少時ずつ水脈のほとりに淹留しながら、何等の強いらるることのない彼等の祖先のしたと同じ様な生活をいまなお続けているこの絶滅に瀕した異種族の生活を窺い得るのも決して浅い興味ではない。」
だが一〇〇年後の今、そんな往時の面影はどこに求めようもなかった。
大島はここにたどり着く前、ヌタプヤムペツを降り始めたときから既に、期待に胸を膨らませていた。
「今日はいよいよあの暗いトドマツやエゾマツの陰鬱な原生林に蔽われた、人跡の稀れな盆地の深い寂寞のなかにゆくことが出来る。」
そして、いつの間にか灌木帯から針葉樹林に入っているのを発見してこう書く。
「始めて自分はこの北地に特有のトドマツとエゾマツの強烈な樹脂の漂う、暗緑色の薄暗い樹蔭を歩くことが出来たのである。」
しかし残念なことに、もはやここには鬱蒼とした針葉樹林などない。一〇〇年前の大雪山、石狩川源流域の姿を想像することは難しかった。
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