那須野が原から那珂川町・大田原市の遺跡と博物館めぐり(1)那須野が原博物館

- GPS
- 32:00
- 距離
- 79.5km
- 登り
- 177m
- 下り
- 1,449m
コースタイム
| 天候 | 晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年10月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
感想
両足が攣りそうな状態で休み休みレンタカーで那須野が原博物館に向かう。博物館には那須野が原地域の地形地質形成史のわかる展示があり、高原山と那須火山による噴出物ー降下火砕流物、火砕流、火山灰などの堆積とその後の浸食による扇状地などにより形成された土地で水はけがよいが水田には向かないので、縄文時代の遺跡(槻沢)もあるが、弥生時代以降の遺跡はあまり見られず、明治になってから当時の貴族が開拓事業に着手して別荘ブームが起こり。その後酪農事業が戦後の原野開拓者らにより、発展。今日の那須野が原の観光地化に貢献したらしい。
「那須塩原市歴史文化基本構想」によれば、このあたりは日本最大級の扇状地らしいー「那珂川と箒川に挟まれた複合扇状地である那須扇状地の面積は 40,300ha。日本の扇状地としては最
大級のもので、北西から南東に向かって緩やかな傾斜を持つ台地となっています。
扇状地のほぼ中央には蛇さびがわ尾川と熊川が南東方向に流下していますが、厚い砂礫層の上を流れるため地下浸透が激しく、扇央部では水無川となります。また、扇央部は地下水も深いため、古くから水利に乏しい地域でした。
扇央部付近から南東にかけては湧水点が見られ、周辺は縄文時代の遺跡が立地するのをはじめ、江戸時代より小規模な集落が営まれてきました。また、藤荷田山など比高 30 m前後の数条の細長い分離丘陵列が北西から南東方向に配列していて、平坦に続く原の中でランドマークとなっています。
那須扇状地北西部の穴沢から関谷を結ぶ線の西側には山地が連なり、平坦な扇状地地形との境界には総延長は 38 ?にも及ぶ関谷断層が走っています。関谷断層の最新の活動は 14 世紀以後、17 世紀以前と推定されています。」
また高原山と那須火山との関係については
「7.那須岳と高原山
市の北部の山間部は、那須岳と高原山に連なります。二つの火山は、歴史や生活の上でも深い関わりを持ってきました。
那須火山は、関東平野北端の関谷断層に沿って南北に配列する成層火山群で、活火山としての茶臼岳(標高 1,915 m)はその一峰です。那須火山群は、北から南に向かって、甲かっし子旭岳火山(約 50 万年前)・三本槍火山(約 30 万年前)・朝日岳火山と南みなみがっさん月山火山(約 10 〜 20 万年前)と呼ばれ、それぞれ活動
した時期の異なる成層火山となっています。また、那須火山群では過去に数回の山体崩壊が起きて、20 万年前以前に黒磯岩屑なだれ、約 14 〜 17 万年前に那珂川岩屑なだれ、約 30,000 〜 40,000 年前に御おふじやま富士山岩屑なだれなどを発生させ、その堆積物は東側の山麓の広い範囲を覆っています。
那須火山群で最も新しい茶臼岳は、約 1.6 万年前から活動を開始し、溶岩・火砕物は、大部分が東山麓に、一部は西側の那珂川上流部に堆積しています。
現在まで1万年間も茶臼岳の活動が続いており、約 11,000 年前〜 6,000 年前までの 5,000 年間に、それぞれに降下火砕物・火砕流・厚い溶岩流を噴出する3回の大きな活動が知られています。約 6,000年前以降は、数百年に 1 回程度の水蒸気爆発が発生していましたが、約 2,600 年前に比較的規模の大きな活動があり、山頂の火砕丘が形成され、その後も水蒸気爆発が繰り返され、応永 15 年(1408)
から応永 17 年(1410)の活動によって、降下火砕物・火砕流が噴出し、さらに茶臼岳溶岩ドームが形成されました。この後、小規模な水蒸気爆発が繰り返されています。
高原山(釈迦ヶ岳・標高 1,795 m、富士山・標高 1,184 m)は、塩原地区から矢板市域に位置する成層火山で、北部のカルデラ火山(塩原火山)とその中央火口丘(明神岳、前黒山)、及び南部の釈迦ヶ岳、西平岳、鶏頂山、剣が峰などからなる円錐火山(釈迦岳火山)からなっています。さらに、前黒山北側山麓には西北西一東南東の断裂帯(割目群)に伴う単成火山があります。活動は約 50 万年前に始まり、約 10万年前には主な活動を終止させたといわれています。この後に長い休止期がありましたが、約 6,500 年前には北側で割れ目噴火が発生し水蒸気爆発と降灰の活動があって、割れ目火口の上に富士山溶岩ドームが形成されました。
高原山の火山活動に伴うものとして、黒曜石が産出されており、市内箒川沿川の縄文遺跡や槻沢遺跡などでは石材として使われた可能性があり、市内縄文文化・遺跡との関連性が指摘されています。」
同博物館による那須野が原と高原山・那須火山と那須野が原の成り立ちの解説はとても参考になった。また槻沢(つきのきざわ)遺跡という縄文中期の大集落出土土器がたくさん展示されており、見学価値が十分あった。原野が広がっていたと思われるこの縄文遺跡の当時(縄文中期から後期=4000~5000年前)の景観はどうなだったろうか?阿玉台式土器をスケッチして次の那珂川町なす風土記の丘に移動する。
「なす風土記の丘」は那珂川町と大田原市の二か所に分かれており、やや紛らわしい。図録を見るとかつては県立の風土記の丘一つだったものが分かれて県立から町立、市立になったように思える。
那須官衙に関しては、那珂川町のHPに
「那須官衙遺跡(なすかんがいせき)
那須官衙遺跡 那珂川と箒川の合流地点、右岸段丘上にあります。昭和の初期から古瓦が散布することから「梅曽廃寺跡」と呼ばれていました。昭和15年に発見された銅印は現在、国の重要文化財に指定されています。昭和30年に寺院としての全容究明を目的とした発掘調査が行われ、さらに昭和42年から圃場整備のために行われた発掘調査によって、広範囲にわたり倉とみられる建物跡が確認されました。このことから当遺跡は寺院跡ではなく郡衙であることが明らかになり、昭和51年に国指定史跡となりました。遺跡の範囲はおよそ南北200m、東西600mほどで、溝により4ブロックに区画されていることが分かりました。中央ブロックは実務的な官衙、西ブロックに倉庫、東ブロックが郡庁だったと考えられます。南東ブロックは館もしくは館に関連する厨の可能性があります。郡衙の成立は7世紀末から8世紀初期、終焉は10世紀前半と考えられています。」と説明がある。
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hirokok510




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