丹沢主稜の謎(第五領域の地平)

- GPS
- 07:18
- 距離
- 14.6km
- 登り
- 1,111m
- 下り
- 1,575m
コースタイム
- 山行
- 6:33
- 休憩
- 0:45
- 合計
- 7:18
| 天候 | 快晴 |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年11月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
幾度となく来ていますが、3連休快晴ということもあり、改めて丹沢主稜の「謎」に迫りながらの山行記録です。
そして、矢櫃の発掘調査報告や出土記録も全くない。
この写真の先を行くと旧ヤビツ峠である(新多摩線鉄塔9号の近く)
ヤブチ(薮打・藪口)=藪の端・入口、これが古地名の変化でヤビツとなったというのが、噂の真相である。古地名が変化して、ご当地の物語が造られ伝承されていく例は全国的に多くみられる。
途中で「蚊取り線香」を付けている方にあった。季節柄、蚊がいないのに、この方はなぜこのような事をしているだろう。
その理由を聞くと、なんと「熊避け」だという。熊の嗅覚は人の5000倍、犬の10倍といわれており、蚊取り線香利用は林業・造林作業者で使われている知恵らしい。これは知らなかった。
鉄砲足軽から、「足軽山」のような地名、火繩(ひなわ)坂とか、全国には色々あるらしい。
また人気の「陣馬山」である。陣馬山は「武田領」と「北条領」の境界尾根であり、武田の鉄砲隊が配置された「陣場」由来の地名で、後から「陣馬」になったとのことであった。
晴れていれば、尾根からの景色は素晴らしいが、景色を楽しむためとか、名所を楽しむためにという感じはあまりないように思う。大山のような観光地は別であるが、箱根外輪山とか、高尾陣馬、鋸山とかに比べると、名所巡り的な要素は殆どなく、精神的にも修行要素が強いのではないかと思う。
バカ尾根を日帰り二往復とか、日帰りヒルトン(蛭ヶ岳ピストン)等がその代表であるが、修行以外の何物でもないように思う。
ピークや尾根からの眺望が殆ど期待できない日でも、登っている人は少なくない。
多くの登山者は、なぜこのような丹沢修行の山行を行うのか?
これが「謎2」である。
それは丹沢が「修験道」として利用されていた土地の歴史の記憶が関係しているのではないか。
江戸時代、丹沢の主脈主稜は、「修験道」として利用されており、山伏や祈祷師が行(ぎょう)=修行のために歩いた。
峰入(みねいり):縦走しながらの修行や、柴燈護摩(さいとうごま):尾根上の祠や岩場で焚く護摩、法螺貝:峰入りの合図、遺跡的祠での読経(政次郎尾根・行者ヶ岳)などを行っていたという。
みなさんはどうだろうか。
最初は物見草で山行してみたが、その後、幾度となく丹沢に来ているという事はないだろうか。
江戸期の文献・資料では、その当時の祠や石塔などが記されている。二ノ塔、三ノ塔にも石塔があったという。表尾根には、祠跡や石塔が点在し、行者ヶ岳や政次郎尾根には巨岩があったという。
それでは、なぜその時代の痕跡が殆ど残っていないのか?
これが「謎3」である。
それは修行の核心であり、身体行為と共に現れる変容である。
丹沢を山行すると、修験道・山伏の念に触発され、痛みを伴うリアルな身体と共にある共通の修行体験を求めるようになるのではないか。
みなさんは、どうだろう?
これが復旧されなかったのは、「神仏分離」政策と「修験道禁止令」、あるいは「廃仏毀釈」による影響である。
これは推定だが、山伏であった人や信仰に熱い地元の人が、廃仏毀釈で破壊されることを恐れ、 尊仏岩を安全な場所へ移動して隠したのではないか。
廃仏毀釈〜神仏分離期に仏像を破壊から守るために、見えない場所へ運んで隠すことが全国で行われていたという。
カーボンポールが岩に深く刺さって折れ、バランスを崩し、見事に転倒した。
周囲にいた多くの方がすぐさま駆け付けてくれて、手当を受けた。幸い、大事に至らず、擦り傷と打ち身で済んだ。
まさしく修行の核心だと思いました。
装備
| 個人装備 |
長袖シャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
グローブ
防寒着
雨具
日よけ帽子
靴
ザック
昼ご飯
行動食
飲料
コンパス
計画書
ヘッドランプ
予備電池
GPS
ファーストエイドキット
日焼け止め
保険証
携帯
時計
タオル
ストック
|
|---|
感想
最近はどうも不可解な怪奇現象の山行が多く、本日は心機一転、丹沢主稜ルートで塔ノ岳まで縦走修行の山行です。 幾度となく来ていますが、3連休快晴ということもあり、改めて丹沢主稜の「謎」に迫りながらの山行記録です。
前から思っていたことであるが、丹沢の主脈、主稜、特に大倉尾根(通称バカ尾根)は、山行している人にとって、他の中低山に比べて、修行要素が非常に強いのではないだろうか。 晴れていれば、尾根からの景色は素晴らしいが、景色を楽しむためとか、名所を楽しむためにとういう感じはあまりないように思う。大山のような観光地は別であるが、箱根外輪山とか、高尾陣馬、鋸山とかに比べると、名所巡り的な要素は殆どなく、精神的にも修行要素が強いのではないかと思う。 バカ尾根を日帰り三往復とか、日帰りヒルトン(蛭ヶ岳ピストン)等がその代表であるが、修行以上の何物でもないように思う。 表尾根への登山口である。さほど急登ではないが、眺望は殆どない。 ピークや尾根からの眺望が殆ど期待できない日でも、登っている人は少なくない。 多くの登山者は、なぜこのような丹沢修行の山行を行うのか?
それは丹沢が「修験道」として利用されていた土地の歴史の記憶が関係しているのではないか。江戸時代、丹沢の主脈主稜は、「修験道」として利用されており、山伏や祈祷師が行(ぎょう)=修行のために歩いた。 峰入(みねいり):縦走しながらの修行や、柴燈護摩(さいとうごま):尾根上の祠や岩場で焚く護摩、法螺貝:峰入りの合図、遺跡的祠での読経(政次郎尾根・行者ヶ岳)などを行っていたという。 登山者を修行に誘なうのは、丹沢が「修験道」として利用されていた歴史であり、その土地、地形の記憶が創発し、登山者を修行に誘うのではないだろうか。 みなさんはどうだろうか。 最初は物見草で山行してみたが、その後、幾度となく丹沢に来ているという事はないだろうか。
江戸期の文献・資料では、その当時の祠や石塔などが記されている。二ノ塔、三ノ塔にも石塔があったという。表尾根には、祠跡や石塔が点在し、行者ヶ岳や政次郎尾根には巨岩があったという。 それでは、なぜその時代の痕跡が殆ど残っていないのか? これが「謎3」である。 その理由は、明治の「神仏分離策」、1872年の「修験道廃止令」である。これにより、山伏が禁止になり、 多くの祠・石碑が撤去された。表尾根主脈の多くの行場が消滅し、現在見られる石塔や祠はごく一部となった。 明治政府は、本来の神道を変質させ、国家による官製の神道を作り、仏教と神道を分離(寺と神社を分離)し、修験道の山伏は近代的な国民国家建設の邪魔になるとして禁止した。 「廃仏毀釈」が広範囲で行われ、修験道に関連する仏堂や仏像の破壊、撤去が行われた。 山伏は還俗して神官になるか、寺院を廃止して帰農するかの選択を迫られた。 これが丹沢の修験道の歴史である。
修験道は地域の信仰・経済(講中・宿坊)を支えていたが、廃止令により急速に弱体化したとされている。 丹沢は「大山詣・峯入り」を支えるネットワークが途切れ、山中の宗教的存在感が急速に後退した。 丹沢山塊の修験道、主脈・主稜はその地形のみならず、修験道者・山伏の無念が残っており、時間と世界線を飛び越えて、私たちに何か重大な事を伝えようとしている。 それは修行の核心であり、身体行為と共に現れる変容である。
修業前と後では何が変容しているのか? 修業前と後で変わるのは、身体行為と共に、個人の物語から他者が主体として現れ、共同の物語へと世界線が組織化されるということである。単なる自己鍛錬ではないのである。
丹沢の修験道ネットワークは、山伏達の「身体の同期」を通して「他者を主体として立ち上げ」、「共同体の成立」させる大仕掛けな装置であった。 修験道・山伏から現代の私たちへのメッセージとは、丹沢修験道の山行を通して「共同体」を再起動せよというメッセージである。 現代のAIやバーチャルな技術によって個は分断・暴走している。これは、明治の「分断統治政策」と「廃仏毀釈」による分断状況に近似である ゆえに、私たちは、筋肉痛をはじめ痛みを伴うリアルな身体と共にある共通の修行体験を欲しているのではないか。どうだろう?
昔は塔ノ岳山頂の北側に別称の尊仏山(孫仏山)の由来となった尊仏岩という大岩があったとされる。 山麓の人々はこの尊仏岩を「お塔」と呼び、特に雨乞いの神としてあがめていた。 そしてこの山を「お塔の山」と呼び、それが「塔ノ岳」になったという。 山小屋「尊仏山荘」の名もこの岩に由来しているらしい。 ところが、首のない尊仏岩跡は現在、登山道から離れた尊仏山荘から北西300mくらい崖下にひっそりある。 なぜ、遥かに離れた道なき崖下に、ひっそりあるのか?
尊仏岩は、関東大震災で崩壊したという記事を見かけるが、正しくは、1919年の地震で大破したとある(神奈川県報・地質調査所記録)。1923年の関東大震災では残った部分がさらに落ちたという。 これが復旧されなかったのは、「神仏分離」政策と「修験道禁止令」、あるいは「廃仏毀釈」による影響である。 この尊仏岩跡が北西300mくらいのところにひっそりあるのは、なぜなのか。 これは推定だが、山伏であった人や信仰に熱い地元の人が、廃仏毀釈で破壊されることを恐れ、 尊仏岩を安全な場所へ移動して隠したのではないか。 廃仏毀釈~神仏分離期に仏像を破壊から守るために、見えない場所へ運んで隠すことが全国で行われていたという。 あるいは、元々ここにあり、廃仏毀釈によって、首を取られた、という説も否定できない。 非常に痛々しく、見せしめのように見える。
(尊仏岩を探求する動画を見つけたのでUPしておきます)
大倉尾根で下山。 修業の隣には危険が潜んでいる。 カーボンポールが岩に深く刺さって折れ、バランスを崩し、見事に転倒した。 周囲にいた多くの方がすぐさま駆け付けてくれて、手当を受けた。幸い、大事に至らず、擦り傷と打ち身で済んだ。
能力の獲得とは、行為のさなかで、新たな制御変数を獲得していくことである。 文明利機に過剰依存の副作用は小さくない。 ただし、転倒によって獲得される能力もある。自転車に乗れるように転倒を繰り返した幼き時代の記憶と感動を思い出した。 転倒という身体経験と、他者によるケアは言語化できない変容をもたらす。転倒前と後では、違う自分と世界が立ち現れる。 これが修行の核心であった。
人には未開の第五領域が広大に広がっている。 自らの経験の中で、自身の身の丈を超えたものに向かって、踏み出し続けること。 丹沢の修行は、私たち自身に向けられた希望の地平でもあると感じた山行でした。
した。
コメント
この記録に関連する登山ルート
Dnasam













丹沢主脈を歩きながらめっちゃ深く考察されていて敬服します…すごいです。
当レコに書かれていた蛭ヶ岳日帰り•塔ノ岳2往復等やったことがあって、その時はとにかく修行とだけ思って歩いていましたが、当レコに書かれていた考察を拝読して
なるほど…と考えるきっかけを与えて頂きました。ありがとうございますm(_ _)m
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