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ハイキング
東海
東海道53次+4次を歩く その2(7日目:原宿〜由比宿)
2025年11月26日(水) [日帰り]

体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 09:23
- 距離
- 33.0km
- 登り
- 68m
- 下り
- 74m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 8:39
- 休憩
- 0:45
- 合計
- 9:24
距離 33.0km
登り 68m
下り 74m
7:16
2分
スタート地点
16:40
| 天候 | 晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年11月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
|
| コース状況/ 危険箇所等 |
特に問題のある個所は無い |
写真
高嶋酒造:清酒「白隠正宗」の蔵元
中興の祖「白隠禅師」が朝廷から国師号「正宗国師」を賜る際、勅使として松陰寺を訪れた山岡鉄舟が
出された酒の旨さに「正宗国師」の正宗(せいしゅう)と清酒をかけ「白隠正宗」と銘々したと謂われている(高島酒造HP)
中興の祖「白隠禅師」が朝廷から国師号「正宗国師」を賜る際、勅使として松陰寺を訪れた山岡鉄舟が
出された酒の旨さに「正宗国師」の正宗(せいしゅう)と清酒をかけ「白隠正宗」と銘々したと謂われている(高島酒造HP)
【駿河國 14吉原宿】
吉原宿は、1601年に東海道の宿場「吉原宿」に。1639年に砂や高波の被害にあい、北側の依田橋村近くへ移転。1680年高潮のために一晩で破壊され、さらに北へ移転
吉原宿は、1601年に東海道の宿場「吉原宿」に。1639年に砂や高波の被害にあい、北側の依田橋村近くへ移転。1680年高潮のために一晩で破壊され、さらに北へ移転
平家越碑
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは。この辺りと云われ「平家越」と呼ばれています。(碑文)
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは。この辺りと云われ「平家越」と呼ばれています。(碑文)
間宿本市場:吉原宿と蒲原宿の間にあって、間の宿として東の柏原と共に多くの茶屋が並び、旅人で賑わいました。霊峰富士を讃えた鶴芝の碑が近くに建てられています。本市場の名物として白酒、葱雑炊、肥後ずいき、などが知られ、広重は白酒売りの茶屋で憩う旅人を描いています。(解説版)
志田邸:国登録有形文化財 屋号は「やま六」、醤油醸造を営む商家。安政の大地震後、安政2年(1855年)に建て直しされ、外観は切妻造平入瓦ぶきで、蔀戸(しとみど)のある町家。(解説版)
明治の郵便局:明治39年(1906)平野義命氏が局長となり自室に洋風の局舎を新築し、明治41年1月より郵便局を移転した。この局舎は昭和2年(1927)7月まで使用され、現在は私邸となっている(解説版)
感想
本日は晴天に恵まれ朝から富士山が良く見え何枚も写真をとりました
写真を撮りながら、ここに住んだら毎日富士山が気になって落ち着かないような気がしてきました
そうは言っても、やはり富士山は青空に映えます
海無し県群馬の上州人は海が見えることだけでも上等な旅気分
明日も富士山を見ながら歩きたいものです
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