| 山行目的 | ハイキング | | 集合場所・時間 | 7時 名古屋駅西口 | 行動予定 (自由記述) | 12:00 黒部ダム駅 - 12:12 黒部ダム - 12:27 黒部ダム - 12:42 黒部ダム駅 - 13:42 ポイント | | その他 | 1962年に日活から独立し制作プロダクションを設立した石原裕次郎は、五社協定の枠に苦しめられ、「自分で映画を作る」という当初の目標が揺らいでいた。 1964年、同じく東宝から独立し自身を社長とする制作プロダクションを設立していた三船敏郎と石原裕次郎の2人が会見し、三船プロ・石原プロの共作で『黒部の太陽』を映画化すると発表した。
しかし当時、石原プロは日活との問題に加え、手元にはスタッフ・キャスティングに必要な人件費が500万円しか無かった。石原裕次郎はこの500万円を手に、劇団民藝の主宰者である宇野重吉を訪ね協力を依頼した。宇野は民藝として全面協力することを約束し、宇野を含めた民藝の所属俳優、スタッフ、必要な装置などを提供。以降、裕次郎は宇野を恩人として慕うようになった。
また、制作に当たって映画会社から関西電力に対して圧力が掛かっていたが、これについては石原裕次郎と直接会った当時の社長が石原裕次郎の映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか全面協力をしたとされている。そして、三船敏郎は製作にもっとも強く反対していた日活の堀久作社長に直々に交渉し、「関西電力が映画の前売り券100万枚の販売を保証しているが、配給は日活でどうか」ともちかけたことで、堀社長は裕次郎出演を認める方向へ方針を変えた。
1966年、再び三船と裕次郎が会見を開き、毎日新聞で連載されていた『黒部の太陽』を映画化すると発表した。
昭和26(1951)年に日本発送電は解体され、現在に至る全国9つの電力会社が発足。当時、関西方面に電気を送っていた黒部峡谷の発電施設は、関西電力株式会社に帰属することになりました。急速な経済復興のために電力は不足し、停電が頻発。関西では週2〜3日の電力使用制限もあるほど事態は深刻でした。そしてついに昭和31(1956)年、関西電力が工事着手したのが黒部川第四発電所、通称「くろよん」です。
この工事で最大の障壁となったのが、関電トンネルで遭遇した破砕帯という地層。岩盤の中で岩が細かく割れ、地下水をため込んだ軟弱な地層のことで、最大毎秒660ℓもの地下水と土砂が最大42�圈�㎠の水圧で噴き出してきました。掘削作業は暗礁に乗り上げますが、大量の水を抜くために、本坑から何本もの導坑(本坑の掘進に先立ち、本坑周辺に掘削する小径トンネル)を掘るなど、さまざまな試行錯誤を繰り広げて、水量は徐々に減少。わずか80mの破砕帯突破に約7カ月もの月日をかけ、見事掘削の再開に至ります。発電所の最終的な完成までに、171名の殉職者と延べ1000万人の人員そして7年の歳月が費やされました。
黒部ダムは高さ約186mと現在も日本一を誇り、約2億㎥という大貯水容量は、黒部川の各発電所を効率的に運用する役割を果たしています。このように、日常的に供給されている電気がけっして当たり前ではないことを、黒部川電源開発の歴史は伝え続けているのです。 |
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| 個人装備品 | 長袖シャツ, Tシャツ, ズボン, 靴下, 雨具, 日よけ帽子, 靴, ザック, 昼ご飯, 行動食, 飲料, 筆記用具, ファーストエイドキット, 常備薬, 携帯, 時計, サングラス, カメラ |
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