[山行計画書] 特に問題なので決行Ver.2.0 静岡県 松崎製糸場
(山行種別:ハイキング, エリア:伊豆・愛鷹)
2018年05月27日(日帰り) [予備日:3日]

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山行目的松崎製糸場を学ぶ。(出来れば)富岡帰りの松崎工女さんについて学ぶ
集合場所・時間富岡製糸場ー伊豆松崎、、この発見はでかい。さらに詰めてみよう
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韮山県(現在の静岡県の一部)では計20余名の子女を富岡製糸場に送って伝習させ、帰郷を契機として「富岡式伊豆地区第1号」といわれる松崎製糸社が設立された。
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 明治5年、大沢村(現・ 松崎町大沢)の名主・依田佐二平は、官営製糸工場として開設された富岡製糸場へ、自分の一族から工女として6名を派遣、製糸技術を習わせます。
行動予定
(自由記述)
5月24日(木)記入
伊豆急下田まで輪行し、下田・松崎のメイン街道の婆娑羅を越え、松崎の図書館へ
 ★開館時間 火曜日〜日曜日:午前9時〜午後5時(土・日曜日のみ 正午12時〜午後1時は閉館します)
だそうです

5月26日(土)記入
富岡製糸場は、明治5年10月4日(1872年11月4日)に官営模範工場の一つとして操業を開始した。ただし、当初は工女不足から210人あまりの工女たちで全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまった。翌年1月の時点で入場していた工女は404人で、主に旧士族などの娘が集められていた。同年4月に就業していた工女は556人となり、4月入場者には『富岡日記』で知られる横田英も含まれていた。
製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模を持っていた

器械製糸導入だけでなく、富岡製糸場そのものをモデルとする製糸場も各地につくられた。『富岡日記』の横田(和田)英の郷里、長野県西条村(松代町)の六工社が知られるが、韮山県(現在の静岡県の一部)でも計20余名の子女を富岡製糸場に送って伝習させ、帰郷を契機として「富岡式伊豆地区第1号」といわれる松崎製糸社が設立された。また、石川県の金沢からは大工津田吉之助らが富岡製糸場を視察し、明治7年(1874)金沢製糸場を設立した。石川県の殖産興業の先駆けであった。

国内の製糸場の多くは戦後、操業を停止し、建物もほとんどが解体された。その中で三重県四日市の旧亀山製糸室山工場は、富岡製糸場を模範とした往時の姿をとどめる数少ない遺構とされる。室山工場をつくったのは、明治初期創業の伊藤製糸で、創業者は親族を富岡製糸場に派遣した。室山工場は木造だが富岡製糸場をモデルに造られた。火事で焼失し、明治36年(1903)再建。平成7年(1995)年まで操業を続け、稼働停止後も往時の姿をとどめている。
なお、福井県勝山市でも子女を富岡製糸場に派遣した記録が残る。勝山市では明治時代、生糸生産が盛んに行われた。やがて織物産業にシフトし、名産の「羽二重」を生んだ。羽二重には群馬県桐生市からの技術が導入された。


軽野造船所会報メルマガ 第十一号 2014年5月号
http://archives.mag2.com/0001611011/20140505092754000.html
【3】  富岡製糸場と静岡東部の製糸

 この度、群馬県富岡市の富岡製糸場跡が世界文化遺産に登録の見通しとなりました。
 富岡製糸場に関しては社会の授業に聞いた事もあると思いますので、詳しい説明は省きますが、富岡製糸場の操業が静岡県
東部の製糸業にも関わっています。

 伊豆西海岸の松崎は古くから早場繭の産地として知られ、幕末から明治初頭にかけては、横浜の生糸商人が買い付けに訪れ、
その初繭取り引きで決められる�牋貌�松崎相場�瓩浪な討泙巴里蕕譴討い泙靴拭�
 明治5年、大沢村(現・ 松崎町大沢)の名主・依田佐二平は、官営製糸工場として開設された富岡製糸場へ、自分の一族から
女工として6名を派遣、製糸技術を習わせます。
 当初、この工場は女工の成り手がなく、尾高淳忠初代所長(渋沢栄一の親類であり学問の師)はまず自分の娘を女工に
してから、全国各地の士族の娘を募集していた。この事からも、依田佐二平の女工派遣が時代の先見性に富んだものであると
言えます。

 明治8年、富岡にて技術を習得した一行が帰郷するのを待って、佐二平は松崎村字清水に水車を動力とする25人繰り
富岡式木製製糸機械を設置、生糸の試作を開始する。
 更に翌明治9年、この工場を大沢村の自邸(依田家、現・大沢温泉ホテル)内に移転し、 松崎製糸場の名で40人繰り、のちに
60人繰りに拡張して、本格的製糸業を営むに至った。
 これは静岡県下の民営製糸工場としては第1号であり、明治後半、松崎周辺と県内各地に続々と製糸場が設立される大きな
きっかけとなった。

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依田佐二平??

依田佐二平翁顕彰碑(花の三聖苑内)
https://www.yamareco.com/modules/yr_plan/step1_edit.php?plid=553495
依田佐二平翁顕彰碑(花の三聖苑内)
郷土の偉人を讃える碑
依田佐二平(よださじべい)は、大沢村村長、県議会議員、賀茂・那賀郡長、衆議院議員を歴任したほか、実業家として養蚕業、道路開墾など公共事業を通じて、この地の発展に多大な貢献をした人物です。この郷土の偉人を讃える碑です。
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花の三聖苑って、、こないだワサビ丼を食べた”道の駅”だよ(爆)
繋がる、繋がる。道が繋がる!!


伊豆まゆの資料館
http://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/silkmuseum/SIzu/SIzu.htm
 松崎は古くから早場繭の産地として知られ、この地方における養蚕の起源は、少なくとも二百余年も前から行われていたとある。特に幕末から明治の始めにかけては、横浜の生糸商人が大量買い付けに訪れ、その初繭取引で決められる“伊豆松崎相場”は、欧米にまで知られるほどだった。(初繭取引松崎市場)/明治5年大沢村の名主依田佐二平は、この年我が国初の官営製糸工場として開設された群馬県の富岡製糸場へ、自分の一族から若い女性6名を派遣、製糸技術を進んで習わせた。フランス人ポール・ブリューナーの指導によってつくられたこの工場は当初女工のなり手がなく、尾高淳忠初代所長はまず自分の娘を女工にしてから、全国各地の士族の娘を募集した。この事実をみても、依田佐二平の女子派遣が当時としてはいかに思い切った行為であり、また時代の先見性に富んだものであったかがしのばれよう。/ともあれ明治8年、技術を習得した一行が帰郷するのを待って佐二平は、松崎町字清水に水車を動力とする25人繰り富岡式木製製糸機械を設置、生糸の試作を開始した。さらに明治9年、この工場を大沢村の自邸(依田家)内に移転し、松崎製糸場の名で40人繰り、のちに60人繰りに拡張して、本格的製糸場を営むにいたった。これは静岡県下の民営製糸工場としては第1号であり、明治後半、松崎周辺と県内各地に続々と製糸場が設立される大きなきっかけとなった。/その後、明治末期にかけていくつかの工場が経営に行き詰まり、倒産や廃業が相つぎ、変遷はかなり激しいものがあった。それでも明治44年当時の加茂郡では、松崎製糸場(釜数77個、就業日数280日、就業時間12時間、工員数71人、人夫4人)をはじめとして、岩科村の岩科、三浜村の勝田、南中村の山本、稲生沢村の河内、稲梓村の鈴木、下河津村の正木、同・河津の8製糸場が操業。このほか座繰りの5ヶ所を合わせると、総釜数433個、女工総数442人、総生産量4,787貫、総生産額198,681円に達した。/養蚕を通じて農家の経済をゆたかにし、地域の産業振興をとめざした佐二平は、優良桑苗を無償で配ったり、良質繭の生産者を表彰したり、繭と生糸の品質向上のために全力をそそいだ。/明治31年には、静岡県生糸同業組合長となって活躍。やがて、明治40年アメリカで開催されたセントルイス博覧会では銀牌を、アラスカユーコン太平洋万国博覧会では金牌、イタリア博覧会の際には名誉賞状を受けるなど、数々の栄誉に輝いた。/しかし、繭取引で賑わった松崎も製糸で栄えた大沢の里も、不況時代を反映して次第に衰退の道をたどりはじめ、大正8年佐二平が病に倒れたあげく、同12年9月1日発生した関東大震災によって横浜港の倉庫に保管中の生糸が被災するにおよんで、ついに倒産のやむなきにいたった。
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伊豆松崎は日本でも有数の養蚕地域だった!!

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