山行目的 | 自転車パスハン | 集合場所・時間 | Ver.1.0 5月10日(木)記入 南伊豆の大都市は下田と松崎。 なるほど、地図上から連絡する道は多いが、諸坪峠は優先順にNo4程度のマイナールートだろう 検索すると普通に押し歩きで抜けれるが、途中に中国人の慰霊碑があるそうだ。 なんでも鉱山強制労働の外人犠牲者とか。 ・先週の”戦後の農地改革” ハケーン‼ 、、ではないけれど 手を合わせる機会が多そうな予感だな
Ver.2.0 5月15日(火)記入 諸坪峠の中国人の慰霊碑について調べた。 この峠に存在した廃鉱は”戦線工業仁科鉱山”といい、アルミニウムの原料の明礬石(ミョウバンセキ)を採掘していた。アルミの良質原料は一般に海外輸入のボーキサイトだったが、太平洋戦争も終末に近づくと日本は占領地を失い、また占領地からの流通網も崩壊した。 さて西伊豆では1930年代から明礬石が採掘されていた。国は戦争末期の1945年、西伊豆の明礬石からのアルミ調達に力を入れたのだった。 現場での労働力は中国・北朝鮮から強制連行で賄ったが、死亡率は50%以上という過酷さだった。
人権平和浜松 〜西伊豆明礬石鉱山 http://www.pacohama.sakura.ne.jp/kyosei/nisiizu.html 強制連行された中国人は二〇〇人であったが、連行途中で二二人が死亡、労働現場で八二人が死亡、計一〇四人が死亡している。死体は山の中に埋められた。それらは一九五四年、村民たちによって発掘され、追悼された。「興亜建設隊」、これが中国人につけられていた名称であった。
戦線鉱業の元事務員によれば、地元労働者(白川・仁科)は一ケ月二五円ほどの賃金を得ていた。中国人は少しの食糧で働かされ、少しでも仕事をおろそかにするとムチで打たれ、苦痛なしごきをうけていた。逃亡して捕った者は天井から逆さまにつるされ、ムチで打たれていた。「ただ少しの、食料をあてがわれ、むちでたたかれながら、仕事をしていた奴隷がいたのだ」という(県立松崎高校社会科編『父母に聞く戦争体験』二一頁)。
『豆州歴史通信』には、伊豆新聞の記事から中国人が憲兵に打ちのめされ、動物のような泣き声で、泥の中を転げ回って苦しんでいたという証言が紹介されている『豆州歴史通信』六九号)。 ------------------------------- さて、 アルミの原料である明礬石は、諸坪峠から西伊豆・松崎港もしくはお隣の仁科港に運ばれたと思われる。 ※諸坪峠から東側の下田港へは距離が遠いということもあるが、そもそも明礬石の加工場が、”日軽金蒲原工場”でありその受け入れは”浜松方面の田子港”であるから、下田への長駆運搬は通常ありえない(画像参照)
仁科の「戦線鉱業 仁科鉱山」跡を訪ねる〜その1 http://kodou.lolipop.jp/nishina-sensen1.htm 諸坪峠の廃鉱に関しては、このサイトが詳しい。
^^; 伊豆は海運が主体だったから、陸はお気楽とか。とんでもねーぞ つか、こんなつもりはなかったのに、なんだかんだで重い物件が続くよ
Ver.3.0 5月17日(木)記入 伊豆は火山半島なので鉱山が多い。そこでおいらでも知っている土肥金山をつついたら、ここもある意味・戦争遺構であった。
伊豆鉱山と強制連行 http://www.pacohama.sakura.ne.jp/kyosei/izukin.html
当日のコース 河津駅まで輪行 河津(諸坪峠・廃鉱には立ち入らず)ー松崎港ー(前回探索したGHQ案件・島見峠)ー下田 伊豆急下田駅から輪行帰宅 |
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