明神ヶ岳〜小塩山 (淳和天皇陵)〜大暑山(天皇陵巡礼 補遺3)
- GPS
- 05:25
- 距離
- 16.6km
- 登り
- 790m
- 下り
- 893m
コースタイム
- 山行
- 4:59
- 休憩
- 0:26
- 合計
- 5:25
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
●帰り= 老ノ坂峠 15:58 (京阪京都交通バス・400円) 桂駅東口 16:20 |
写真
感想
前日夜まで 多武峰・御破裂山〜天武・持統天皇陵を予定していたが、楽しみにしていた飛鳥駅前のゴマ団子 (+お好み焼き) が木曜休みということで急遽 変更。こんなコースを考えた。
明神ヶ岳は2016年11月 黒柄山と一緒に登る予定だったが、黒柄山へのひどい道間違いにより、本数の少ないバスに間に合わなくなったため登れなかった山。
小塩山〜大暑山〜大枝山は、2001年11月 逆コースで登ったことがある。ただしスタートは老ノ坂バス停ではなく 仏舎利塔前バス停からで、首塚あたりまでの道は違う。また小塩山は大原野スタート&ゴールで2019年4月にも登っている。
風なくいい天気。5年ぶりの道を逆に行く。明神ヶ岳に登れず残念無念、予定外で歩いた道だ。
明神ヶ岳の道は2000年版「山と高原地図」に「丹波パノラマ道」と書かれているが、鉄塔箇所以外は特に展望がいいということはない。時々左手 (北) の木々の間に亀岡の町並みが覗く程度。また登りは結構 荒れていて、道がはっきりとしないのは意外だった。倒木によってう回路の連続となっているのかもしれない。
とはいえ迷うような箇所はないが、山頂からの下りではちょっと頭を悩ませる箇所がある。
さらに進んだところ、同地図に「分岐注意」と書かれている右折箇所に気づかず直進してしまった。しかし鉄塔からは愛宕山、亀岡の町並みの見事な展望が得られる。これを見ないともったいないが、進路が分からずウロウロしてしまった。右手には迷える先人たちによってできたと思われるかすかな道がある (藪の中で行き止まり)。
中畑回転場への道の途中で単独行のご婦人とすれ違う。それが今回会った唯一のハイカーだった。
しばらく車道を行く。左手に現れる変電所が独特の景観。大原野外畑 (とのはた) 町の集落に入ると、眼前に小塩山が鮮やかに望まれる。
しかし小塩山への道はゲートでふさがれている。周辺をウロウロし、入るところを探したが、ずっと高いフェンスが施されていて小塩山方面に入れない。フェンスのガシャガシャという音がするので、入る方法を尋ねようと思ったらシカだった。厳重なフェンスが納得できた。
もう一度 ゲートに行き、正々堂々と (?) ゲートを開けて入った。ネックだと思っていたかんぬき (バネの棒) も内側からかけることができた。
左手に「ソーラーパネルが原」が現れ、ぬかるんだ原っぱに辿り着く。とりつきが分からず、かすかな足跡を頼りに強引に登る。
息を切らせ、汗をかきかき、道なき急斜面。
やがて斜面が穏やかになると、反射板に登り着いた。左 (東) に向かって「バカ尾根」を進んでいくと小道が出現。荒れているがそれを辿っていくと、「小塩山」山頂表示が現れた。やれやれ…。安堵の瞬間。
淳和天皇陵を参拝し、FM放送局送信施設の階段に座って腹ごしらえ。ひとりの時はバーナーなどを持ってこず、パン等と小さな魔法瓶に入れた温かいお茶と珈琲で済ませることにした。
大暑山へも落ち葉を踏みながらの静かな山歩きが楽しめる。要所々々に道標が付けられており、迷うこともない。
「日章突撃隊修練道場」という物騒な名の施設には驚いたが、2001年に通った時の記録にも驚きを記していた。
西山団地という名の山の尾根を切り開いて作られた小さな町に下り着き、横断。「ソーラーパネルが原」の脇の道がゲートで閉じられており、またまた面喰ったが、失礼して乗り越えさせてもらった。
大枝山 (おおえやま) はアンテナ跡地。そういえばこんなことろだったと思い出した。帰って写真を見てみると当時はまだアンテナが立っていた。建物は今も残っているが、鉄塔は取り払われている。
ちなみに酒呑童子の「大江山」をこの大枝山の事だとする説があるとのこと。ふもとに酒呑童子の首塚があることと合致する。
そこから急な下りをこなして老ノ坂峠に。「老の坂」という名も「大江の坂」が変化したものらしい。
かわいい黒猫に気をとられて最後の道間違いをして、老ノ坂峠バス停 着。
12〜13キロを予定していたのに、16キロ以上歩いていた。
さて来週、年もいよいよ押し迫った頃、多武峰・御破裂山〜天武・持統天皇陵〜ゴマ団子 (+お好み焼き) 行けるか。
***
大原野西嶺上陵 (おおはらののにしのみねのえのみささぎ) は宮内庁により淳和天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
淳和上皇自身の意向により火葬され、その遺骨は近臣藤原吉野の手によって大原野の西山 (小塩山) 山頂付近で散骨されたと言われている。山陵を築く事を禁じられていたため「延喜諸陵式」に陵墓が記されておらず、当地には長らく小石で築かれた円塚のみであったが、幕末の陵墓修復の際 小塩山山頂に陵が築かれた。
ちなみに小塩山の東方「灰方町 (はいがたちょう)」は淳和天皇の散骨の際 遺灰が飛んで行った方向に由来しているとのこと。
〇第53代 淳和天皇
生没年:786〜840年(55歳) 在位期間 823〜833年(11年間)
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