高麗山 総集編2 遺跡の巻(高麗山城址など)
- GPS
- 02:51
- 距離
- 4.7km
- 登り
- 266m
- 下り
- 243m
コースタイム
天候 | 晴れ |
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過去天気図(気象庁) | 2022年04月の天気図 |
アクセス |
行き 神奈川中央バス「花水バス停」(平塚駅-さざれ石-二宮駅線 平43 46 47) 帰り 東海道本線 大磯駅 |
コース状況/ 危険箇所等 |
危険個所なし |
写真
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ソフトシェル
ズボン
靴下
靴
サブザック
飲料
GPS
保険証
携帯
タオル
カメラ
|
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感想
今回は、遺跡編です。戦国時代の城址と、古墳時代の横穴群。
この山には何十回もきているが、じつは城址跡があるなんて、全く知らなかった。説明看板には全く触れられていない(と思っていたら、じつはしっかり書いてあった[後述])。
たまたま「神奈川中世城郭図鑑」(戎光祥出版 2015)をみていたら、「高麗山城」が出ていてびっくり。後北条氏初期の築城だという。
伊豆と相模西部を支配した伊勢宗瑞(俗称北条早雲)が、1509年に高来寺を転用したとのこと。ここが支配地の東端で、東の扇谷上杉朝良と敵対したという。しかし、朝良側は、配下の三浦義同が高麗山城を撃破、さらに小田原城まで肉薄したという。寺社の施設と自然の険阻を頼みに最小限の普請を加えて、山城として成立している、との記述だ。
城郭遺構としては、「堀切」があるのみのようだ。
確かに、尾根道に橋があること自体がおかしいと思わなければならなかった。自然の状態で尾根筋が切れているのは、見たことがない。あったとしても断層など特殊なケースだろう。人工的に尾根筋を切った。これは尾根からの進路を防ぐ「堀切」だったのだ。岩をかなり削ったはずだから、それを埋め戻すのは無理で、山城としての機能がなくなった後に、橋を架けたのだろう。
<説明看板の記述>
改めて八俵山に設置されている説明看板に城郭についての記述があったことに気付いた。興味の外だったので読み飛ばしていたようだ。「神奈川中世城郭図鑑」の記述とはかなり異なっているので書き写しておく。
「高麗山は相模湾から相模平野一帯を見渡せることから、古くから軍事上の要衝として重要な地域でありました。山中にある寺の建物が軍勢を収容する城郭として使われるようになり、記録によれば室町時代の永享10年(1438年)に関東公方の足利持氏(1398〜1439)が室町幕府に反乱を起こした(永享の乱)際にこれを討伐すべく上杉持房(?〜1490?)が山に陣を構えたのが最初のようです。その後、永正7年(1510年)に北条早雲(1432〜1519)が上杉顕定(1454〜1510)を討伐する際、山に立て篭もったということです。この戦い以降、山は北条氏によって小田原城と相模平野を結ぶ狼煙台として「伝えの城」(連絡用の砦)として使われるようになりました。永禄3年(1560年)」には上杉謙信(1530〜1578)が小田原城侵攻の際、山に陣を構えて北条氏康(1515〜1571)と交戦したということです。現在でも八俵山から大堂に向かう尾根道沿いに往年の空堀の跡と思われる遺構が残っています。」
ここに書かれている「空堀」とは明らかに「堀切」のことと思われます。
考えてみれば、低山のハイキングコースには古城址が多い。全国には2万もの城があったというから、山という山に城があったんだろうな。古城ハイキングもたのしそうだ。
ちなみに、この周辺には伊勢宗瑞による住吉要害(伝山下長者屋敷)と、王城山城があって、これら3つがセットになっていたらしい。王城山城はその後、行ってみた。→https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-4236486.html
<コースについて>
今回のコースは、「高麗山総集編1 自然(春)」で説明した記号に従うと、I→D→Fとなります。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-4171967.html
なお、大磯駅へのルートは、今回は横穴群経由としましたが、紅葉山経由の方が、距離は長くなるけど、森的にはお勧めです。
「高麗山 総集編3 紅葉山〜羽白山〜大磯駅(サブルート)」
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-4193993.html
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