6月16日(日)松山市の古墳めぐりと芸予諸島の海人ネットワークー遺跡と展示と講演会
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- GPS
- 24:00
- 距離
- 47.6km
- 登り
- 488m
- 下り
- 485m
コースタイム
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 自家用車
飛行機 自転車
|
写真
形状としては円墳がほとんどで、内部からは須恵器や埴輪、鉄器が出土しました。
この歴史的に貴重な場所を、将来に末永く保存するために整備したのが、「水満田古墳公園」(砥部町HPより)
感想
早めの朝食後、ホテルに荷物を預け、近くのシェアサイクルポートから藤原純友館跡を探しに行く。お墓の上らしいがGoogle map を信用したら、段違いらしく石碑にたどり着くことができず、その後もグルグル回ってみたがうまく近づくことができず、今回は諦めて、次回はもう少し詳しくアクセスを調べることにした。
PS.もしかしたら、段違いと思った場所の先端まで行ってみれば石碑があったかもしれない。いろいろと訪問記を調べると久枝神社付近から階段を上る記録と常福寺からお墓を北上して明神丘山頂水くみ場屋根にある三角点を超えてさらに北上し、尾根北端に出ると純友石碑があり、さらに階段を下ると久枝神社付近に出ている。つまり、段違いと思えた尾根先端を先まで行けばよかったことになる。事前準備が足りなかった(この記事は見てはいたが、地図の位置関係がよくわからず、良く頭に入っていなかった)
次の客谷古墳群も苦戦。やはりアクセスがわからず散歩中の女性に訪ねてようやくドッグラン付近の入口を教えられ行ってみたが案内板から階段を登ってしばらく歩いたもののそこから先がわからず古墳や石室の場所を特定できず戻ってきた。次回はもう少し詳しく調べるべきと反省。、ひとまず松山駅にチャリを返却し、レンタカー店にむかった。
午後、愛媛県生涯学習センターで、芸予諸島の遺跡から見た航路と人々の交流展関連講演会を聴講するので、午前中は二つの古墳群を回った。早朝の遺跡巡りは目的地をうまく発見できず不出来だったが、チャリを返却しレンタカー出て直して水満田古墳群を目指す。古墳群の駐車場まで来たがそこから道の方向を誤り、ミカン畑の上に出て行き止り、戻ってよく見たら方向が逆だった。この駐車場は見覚えがあり前回も間違えたような気がするが記憶があやふやだ。戻って左の坂を上がると車止まりの先に古墳群の入口があった。入口から階段を登り、しばらくすると20号墳などの案内板があり、さらに先に進むと石室の入口が見える2号墳から四号墳の案内があり、石室内には、入らないが中の様子は見える。いくつか撮影して来た道を戻る。古墳時代後期の群集墳で、所々に周辺の遺跡で出た住居跡や高床式建物、倉庫などを復元してあった。また組合せ式石棺も見学できる。
水満田古墳群見学を終えて大下田古墳群に向かう。動物園の入口手前から車を止めて、階段を登ると少し先に墳丘墓らしい高まりが見えてくる。前方後円墳かと見えた高まりより一つ右側に石室が見える墳丘墓がある。歩いてみると大下田二号墳の解説板があり、六世紀後半から七世紀始め頃の後期の円墳であることがわかる。両袖式の横穴式石室が二つあるようだ。左側の丘陵頂部の墳丘が1号墳で石室内から金銅製耳環や直刀、玉類、須恵器などが出土、子持高坏も出たと言う。
これらは県総合運動公園内にあり、前は崖で下にテニスコートなどの施設や町並みを見下ろす高台になっている。他にも多数の墳丘が全部で二十基あるようだ。来た道を戻り、車は動物園には入らないのでバックで戻り、県生涯学習センター近くのカフェでランチ。カレーとグリーンスムージーを頂いた。
昼食後、県生涯学習センターに向かう。駐車場の位置が思い出せなかったが案内板の通りに進むとセンターの崖下にある見覚えのある駐車場に出た。車を降りて急な階段を避けて坂道を登り案内板に従って進むとセンターに出た。ここは教育委員会関連の様々な施設が集まっており、どの建物がどの施設かよくわからないが生涯学習センターには、なんとかたどり着いた。人物博物館の三階で企画展が開催され、講演会はその前の建物の四階らしい。まず企画展会場に向かい、芸予諸島や今治の遺跡出土の縄文時代から弥生時代にかけての土器や弥生時代の船の線刻のある土器などを見る。今回の企画展は、1999年に開通した「しまなみ海道」建設の際に芸予諸島各所で行われた発掘調査により、芸予諸島とその周辺の海域における縄文・弥生・古墳・古代〜中世における海域の民の活動が調査され、より明らかになったことを示す企画展だ。
縄文時代では、高縄半島北端でサヌカイト原石を荒割した素材が見つかり、この地域の海人集団がサヌカイト流通に関与していたことが確認された。各地で発見された船の線刻のある土器などから、この海域の人々の海を通した活動を知ることになる。
さらに弥生時代になって急激に増えた製塩土器に関する展示があり、芸予諸島各地に製塩土器の出土がある。また、線刻画や埴輪、出土資料などから弥生時代から古墳時代の船の復元を試みている。さらに瀬戸内海の航路の研究もあわせてこの時期の瀬戸内の海人集団の活動の様子を描いている。
参考:阿方遺跡(愛媛県埋蔵文化財センター)
阿方遺跡は愛媛県今治市の北部に位置しています。この地に遺跡があることは、地元では古くから知られていましたが、戦前に明治大学の杉原荘介博士が発掘調査を行い、戦後まもなく調査報告書を刊行したことによって、阿方遺跡は弥生時代の貝塚遺跡「阿方貝塚」として全国的に知られるようになりました。また、その時に出土した装飾性の高い土器は「阿方式土器」と呼ばれ、四国の弥生時代前期の基準資料とされました。
その後、愛媛県の史跡に指定され、長らく正式な発掘調査の機会がありませんでしたが、しまなみ海道が建設されることになり、平成8年3月から平成10年4月まで発掘調査が行われました。
調査の結果、貝塚(昔のゴミ捨て場)をつくった人々が住んでいたと考えられる東西に細長い丘の北側と南側の斜面から、弥生時代の土器・石器・骨角器・木器などの道具類のほか、シカやイノシシの骨などの残飯が大量に出土しました。また、南側の斜面では川岸に作られた水辺の施設も見つかっています。
発見された遺物のうち、土器は阿方式土器(弥生時代前期末〜中期初頭)と言われているもののほかに、さらに古い時代(弥生時代前期前半)の土器もありますので、弥生土器の研究には大変良い資料です。また、木器は鍬や鋤などの農耕具に加えて鎧の部品なども出土していて注目されます。
南側の斜面で発見された水辺の施設には、杭の列、トチやドングリなどのアク抜きのための水さらし場などいろいろなものがありましたが、中でも丸太を刳り貫いて作った樋状の施設は、全国でも例を見ない珍しいものです。
また、貝塚から北に少し離れた場所では、縄文時代の川の跡があり、突帯文土器と呼ばれる縄文時代終わり頃の土器が見つかっています。これらの土器の中には赤漆で装飾を施したものもあります。
このように阿方遺跡は、縄文時代終わり頃から弥生時代中期初頭までの遺構や遺物が途切れることなく発見されていますので、朝鮮半島から伝わった水稲農耕に象徴される弥生文化が日本各地にどのように広がり、どのように定着したのかについて、大変重要な情報を提供してくれます。
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