稲荷山
- GPS
- 01:41
- 距離
- 5.7km
- 登り
- 262m
- 下り
- 256m
コースタイム
- 山行
- 1:38
- 休憩
- 0:01
- 合計
- 1:39
天候 | 晴れのち曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年07月の天気図 |
アクセス |
写真
感想
今日は七面山を登り伏見稲荷まで散歩する予定でしたが、伏見稲荷で偶然知り合いと出会い山頂まで🏃♂️
昔話に花を咲かせて楽しかったので良しとしましょう☺️
お疲れ様でした🍻
以下ホームページより
日本人にとって、もっとも身近な神社といえるのが「お稲荷さん」とも称される稲荷神社。
全国に3万社あるともいわれ、日本全土で老若男女を問わず、親しまれています。
その総本宮が京都の伏見稲荷大社です。
西暦711年の御鎮座以来、1300年にわたり人々の信仰を集め、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神様として崇められてきました。
近年では日本人のみならず、外国人の参拝者・観光客が数多く訪れるようになり、京都、そして日本を代表する名所として世界にその名を知られるようになっています。
伏見稲荷大社の起源については、「山城国風土記」の逸文に《秦中家ノ忌寸等の遠祖、伊呂具秦公の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留った山の峰に“稲”が生じた奇瑞によって、イナリという社名になった》とあり、また「神衹官勘文」や「年中行事秘抄」などに引く「稲荷社禰宜祝等申状」には《この神は、和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた》とあります。
さらに社記(十五箇條口授伝之和解)には《元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者“伊呂具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た》と伝えています。
このように、ここ伏見・深草の里は秦氏とは極めて深いかかわりをもち、御鎮座は和銅4年(711)二月初午の日と伝承されてきました。しかしながら、信仰の起源は、これよりも更に古くさかのぼると考えられています。
重要文化財に指定されている本殿には、下社・中社・上社ならびに摂社である田中社・四大神の五社が一宇相殿に奉祀されています。
これら五柱の御祭神名は、稲荷大神様の広大なる御神徳の神名化されたものです。
御神号
山城国風土記の逸文には、イナリを「伊奈利」と記しています。イナリとは、イネナリ・イネニナルのつづまったもので、人間生活の根源であった稲によって、天地の霊徳を象徴した古語とされています。「伊奈利」を稲荷と書くにいたった最初のものは、類聚国史の淳和天皇の天長4年(827)正月辛巳の詔ですが、扶桑略記の和銅6年(713)5月甲子の條に《諸国郡郷名著好字、又令作風土記》とあることよりすれば、風土記撰進のときには、すでに「稲荷」なる“好字”が用いられていて、風土記に「伊奈利」とあるのは、その原史料にあった古い用字法が活用されたものと思われます。
御神徳
社記に、当社は《衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ》(稲荷谷響記)と、また《上ハ天子ヨリ下ハ萬民ニイタル幸福豊楽ノ神明ナリ》(十五箇條口授伝之和解)とあります。平安の昔から、稲荷山が民衆信仰の“お山”であったことは、女流日記文学の第一にあげられる「蜻蛉日記」、あるいは清少納言の「枕草子」、また和泉式部の筆によってしのぶことができます。今日では、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として、あまねく信仰をあつめ、そのご神威は日本の津々浦々はもとより遠く海外にまで及んでいます。
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