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プロフィール

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挑戦中の山リスト [?]

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ユーザ名 manabu771215
ニックネーム manabu771215
携帯電話番号 登録済み
登山経験 山行日数 100日
現住所 兵庫県
性別 男性
自己紹介 現代の登山には、「消費」の側面があります。
富士山に登った
槍ヶ岳から穂高岳まで縦走した
日本百名山を何座登った
こうした実績は、SNSや山岳雑誌、登山文化そのものによって「価値ある経験」として流通しています。ある意味では、観光地巡りやブランド品収集と似た構造です。
哲学者のジャン・ボードリヤールなら、「山そのものではなく、槍ヶ岳縦走という記号を消費している」と言うかもしれません。
例えば、
「槍穂縦走をやった人」
「百名山を80座登った人」
「富士山に登った人」
という肩書きやアイデンティティが価値を持つ。
すると本来の山との対話より、「次はどの記号を獲得するか」が目的になりやすい。
しかし、登山の本質がそこにあるかというと疑問です。
山岳史を振り返ると、
修験者は悟りを求めて山に入った
猟師は生活のために山に入った
探検家は未知を求めて山に入った
登山家は困難そのものに価値を見出した
のであって、「記号収集」が目的ではありませんでした。

南八ヶ岳や大峯のバリエーション、ナチュラルプロテクションの研究、事故防止やパーティー運営への関心などは、「どこへ行ったか」よりも「どう登ったか」を重視する態度です。
百名山登頂数は誰でも比較できます。
しかし、
どのように判断したか
どのように仲間と協力したか
どのように危険を管理したか
山で何を学んだか
は数字になりません。
だから消費社会では評価されにくい。
一方で、そこにこそ登山の深い意味があるとも言えます。
仏教的に見るならさらに面白くなります。
百名山完登も、槍穂縦走も、やがて終わります。
終われば次の目標が欲しくなる。
すると「まだ足りない」という欲望が生まれ続ける。
これは仏教でいう「渇愛」に近い構造です。
対して、
岩の感触を味わう
風を感じる
仲間と行動する
自分の心の動きを観察する
ことは、結果ではなく過程に価値があります。
そのとき山は「征服する対象」ではなく、「自己を映す鏡」になります。
消費社会の登山が「何を達成したか」を問うのに対し、山岳逍遥の登山は「何を感じ、何を学んだか」を問う。
どちらも登山ですが、後者のほうが年齢や体力が変わっても続けられる深みがあります。
そして不思議なことに、長く山を続けた人ほど、
「百名山を何座登ったか」
よりも、
「雨の朝日岳が忘れられない」 「仲間と歩いたあの縦走が良かった」
という記憶を語るようになることが多いように思います。
記号は残りませんが、体験は人格の一部として残るからです。

私の山行における安全基準

私は登山、とりわけバリエーションルートやアルパインクライミングでは、「山頂に立つこと」よりも「全員が無事に下山すること」を最優先に考えています。

そのため、山行計画やパートナー選定においては、次の点を重視します。

1. 技術・体力・経験が計画に見合っていること。
山行の難易度に対し、参加者全員が十分な余裕を持って行動できることを前提とします。

2. 安全に対する考え方を共有できること。
無理をしないこと、危険を感じたら立ち止まること、撤退をためらわないことについて、パーティー全員が共通認識を持つことを重視します。

3. 相互の信頼があること。
パートナーとは、お互いの判断を尊重し、率直に意見を交わせる関係であることを求めます。技術だけでなく、信頼関係も安全の一部であると考えています。

4. 過去の行動を重視すること。
安全に対する姿勢は言葉ではなく、日頃の行動や判断に表れると考えています。そのため、過去の山行での行動やリスクへの向き合い方も、パートナー選定の重要な判断材料とします。

5. 自分自身にも同じ基準を適用すること。
体調や技術、装備に不安がある場合は、参加を見送る、または計画を変更することをためらいません。他人だけでなく、自分にも同じ安全基準を求めます。

私は、この基準に照らして山行への参加やパートナーを判断します。これは個人を評価するためではなく、事故の可能性を少しでも低くし、全員が無事に帰るための私自身の行動指針です。

この考え方をご理解いただける方と、安全で充実した山行をご一緒したいと考えています。