西武池袋線・飯能駅北口から移動します。
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西武池袋線・飯能駅北口から移動します。
入間馬車鉄道の標札
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入間馬車鉄道の標札
馬鉄・飯能停車場跡
入間馬車鉄道は、明治33年(1900 )4月14日に設立(社長増田忠順・入間銀行頭取)され、翌年の5月10日に入間川(現・狭山市)〜飯能間が開業しました。その後、大正6年(1917)12月10日に全線廃止そして会社解散に至るまでの17年間、西武地域の発展に貢献しました。
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馬鉄・飯能停車場跡
入間馬車鉄道は、明治33年(1900 )4月14日に設立(社長増田忠順・入間銀行頭取)され、翌年の5月10日に入間川(現・狭山市)〜飯能間が開業しました。その後、大正6年(1917)12月10日に全線廃止そして会社解散に至るまでの17年間、西武地域の発展に貢献しました。
古い案内図と照合してみても、ほぼ現在の跡地が妥当だと思います。
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古い案内図と照合してみても、ほぼ現在の跡地が妥当だと思います。
当時の地図で馬鉄・飯能停車場から入間川停車場までの路線を作図してみました。
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当時の地図で馬鉄・飯能停車場から入間川停車場までの路線を作図してみました。
一般道のうえに線路を敷いて、このような鉄道馬車が走っていました。時速は5〜6kmぐらいでポッカポッカとのんびり走っていたようです。
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一般道のうえに線路を敷いて、このような鉄道馬車が走っていました。時速は5〜6kmぐらいでポッカポッカとのんびり走っていたようです。
野田地区では、加治氏ゆかりの円照寺。絵馬のお寺さんとして評判です。
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野田地区では、加治氏ゆかりの円照寺。絵馬のお寺さんとして評判です。
笹井停車場跡
参道の突き当りが笹井観音です。
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笹井停車場跡
参道の突き当りが笹井観音です。
秩父三峰神社、黒山三滝(山本坊)、都幾川慈光寺そして滝不動尊・笹井観音が武蔵の4大修験道の地といわれています。
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秩父三峰神社、黒山三滝(山本坊)、都幾川慈光寺そして滝不動尊・笹井観音が武蔵の4大修験道の地といわれています。
笹井観音堂は、江戸時代になると徳川の宗教政策によって寺領わずか10石に減らされ、その後、現在地に移転させられてしまいました。そして明治5年(1872)9月15日の修験道廃止令(太政官布告、修験宗は従来の本寺所管の儘天台真言の両本宗へ帰入)により、狭山の修験寺院も廃寺となりました。現在の笹井観音堂は廃寺跡に建てられたものといわれています。
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笹井観音堂は、江戸時代になると徳川の宗教政策によって寺領わずか10石に減らされ、その後、現在地に移転させられてしまいました。そして明治5年(1872)9月15日の修験道廃止令(太政官布告、修験宗は従来の本寺所管の儘天台真言の両本宗へ帰入)により、狭山の修験寺院も廃寺となりました。現在の笹井観音堂は廃寺跡に建てられたものといわれています。
ご本尊は十一面観音菩薩です。厨子は閉じています。脇立御影は不動明王と十一面観音で堂内も綺麗に清掃・整理されています。
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ご本尊は十一面観音菩薩です。厨子は閉じています。脇立御影は不動明王と十一面観音で堂内も綺麗に清掃・整理されています。
瀧音山白山寺梅の坊滝不動尊です。
文武天皇の代、役行者(役小角)が諸山を修行中に相州八菅山から武蔵を眺望すると樹間よりかすかに瀑布の水声が聞こえた。役小角は大宝2年(702)に笹井を訪れ、滝の下に不動明王が現れるのをみて堂を建て、瀧音山と名付けて霊場を開いたと伝えられています。これが現在の滝不動尊がある所といわれています。ここは笹井観音堂の旧地といわれ、修験者たちはこの滝にうたれて修行したといわれています。
ご本尊は不動明王。
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瀧音山白山寺梅の坊滝不動尊です。
文武天皇の代、役行者(役小角)が諸山を修行中に相州八菅山から武蔵を眺望すると樹間よりかすかに瀑布の水声が聞こえた。役小角は大宝2年(702)に笹井を訪れ、滝の下に不動明王が現れるのをみて堂を建て、瀧音山と名付けて霊場を開いたと伝えられています。これが現在の滝不動尊がある所といわれています。ここは笹井観音堂の旧地といわれ、修験者たちはこの滝にうたれて修行したといわれています。
ご本尊は不動明王。
日光脇往還の「根岸の渡し」跡です。
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日光脇往還の「根岸の渡し」跡です。
清水崇徳ゆかりの広瀬神社
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清水崇徳ゆかりの広瀬神社
本富士見橋、昔は富士見橋と呼ばれていました。架橋の経緯については橋詰のところにある大石碑に記載されています。
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本富士見橋、昔は富士見橋と呼ばれていました。架橋の経緯については橋詰のところにある大石碑に記載されています。
富士見橋と言うとおり富士山が見えました。
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富士見橋と言うとおり富士山が見えました。
御諏訪下停車場跡地からパシャリ。右折して入間川に向って行くのが入間馬車鉄道、左へ直進するのが中武馬車鉄道になります。
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御諏訪下停車場跡地からパシャリ。右折して入間川に向って行くのが入間馬車鉄道、左へ直進するのが中武馬車鉄道になります。
入間馬車鉄道本社・停車場跡地です。クリーニングの看板から手前の駐車場にかけて本社が建っていました。
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入間馬車鉄道本社・停車場跡地です。クリーニングの看板から手前の駐車場にかけて本社が建っていました。
入間銀行の写真です。
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入間銀行の写真です。
銀行跡地には、やはり銀行がありました。立地の不思議です。
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銀行跡地には、やはり銀行がありました。立地の不思議です。
清水崇徳さんのお墓。
入間川町の偉人、清水崇徳が語った「世人は日が暮れてから提灯を捜すが、自分は朝から提灯をつけて仕事をする。日が暮れて狼狽しない代わりに、先走ってろうそくの無駄をする」との言葉は自戒の念を込めた名言です。
明治10年(1877)から明治34年(1901)にかけ、実業家としては、埼玉県下最初の本格的器械製糸場といわれる暢業社を創業、横浜で同伸社(生糸貿易商社)を創業、増田忠順とともに川越鉄道の設立発起人となる、入間馬車鉄道(入間川〜飯能)開業(第2代社長清水崇徳)などですが、先見の明があるとは言うものの、いずれの事業も成功したとは言い難いようです。
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清水崇徳さんのお墓。
入間川町の偉人、清水崇徳が語った「世人は日が暮れてから提灯を捜すが、自分は朝から提灯をつけて仕事をする。日が暮れて狼狽しない代わりに、先走ってろうそくの無駄をする」との言葉は自戒の念を込めた名言です。
明治10年(1877)から明治34年(1901)にかけ、実業家としては、埼玉県下最初の本格的器械製糸場といわれる暢業社を創業、横浜で同伸社(生糸貿易商社)を創業、増田忠順とともに川越鉄道の設立発起人となる、入間馬車鉄道(入間川〜飯能)開業(第2代社長清水崇徳)などですが、先見の明があるとは言うものの、いずれの事業も成功したとは言い難いようです。
お墓は、約70cm幅の入間馬車鉄道のレールの上に乗っています。鉄道王になる夢を見ているのかも知れません。
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お墓は、約70cm幅の入間馬車鉄道のレールの上に乗っています。鉄道王になる夢を見ているのかも知れません。
古い案内図が、現在を案内してくれました。感謝です。
歩を先に進めましょう。
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古い案内図が、現在を案内してくれました。感謝です。
歩を先に進めましょう。
「古久や」
うどんが評判のお店です。「お静さん」が嫁いだ先です。
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「古久や」
うどんが評判のお店です。「お静さん」が嫁いだ先です。
天覧山駅跡の出入口です。
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天覧山駅跡の出入口です。
天覧山駅は東飯能と高麗の間にありました。説明文に詳しく書いてあります。
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天覧山駅は東飯能と高麗の間にありました。説明文に詳しく書いてあります。
飯能方面に向かって
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飯能方面に向かって
何事もなかったように電車が走り過ぎます。
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何事もなかったように電車が走り過ぎます。
高麗方面に向かって。
長さ3〜40mの土地に建てられた小さな駅です。
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高麗方面に向かって。
長さ3〜40mの土地に建てられた小さな駅です。
駅前から能仁禅寺の天覧山登山口へと続く桜並木遊歩道です。桜の老木が1本だけ残っていました。櫻花の季節に来たいものです。
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駅前から能仁禅寺の天覧山登山口へと続く桜並木遊歩道です。桜の老木が1本だけ残っていました。櫻花の季節に来たいものです。
武蔵野鉄道の路線を年代比較してみました。現在では武蔵野鉄道・黒須駅も姿を消し、人々の記憶からも消えてしまったようです。
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武蔵野鉄道の路線を年代比較してみました。現在では武蔵野鉄道・黒須駅も姿を消し、人々の記憶からも消えてしまったようです。
黒須駅跡
この駅は大正6年(1917)12月12日に貨物専用駅として豊岡駅(現・入間市駅)と仏子駅の間に開設され、昭和28年(1953)に廃駅となりました。運搬貨物は主に杉材と川砂利でした。
川砂利運搬では、大正9年(1920)に開通した埼玉県営鉄道・的場線(的場(現・霞ヶ関駅)〜砂利採取場)と大正14年(1925)に開通した川越鉄道・安比奈線(南大塚〜安比奈)も西武開拓の一翼を担いました。
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黒須駅跡
この駅は大正6年(1917)12月12日に貨物専用駅として豊岡駅(現・入間市駅)と仏子駅の間に開設され、昭和28年(1953)に廃駅となりました。運搬貨物は主に杉材と川砂利でした。
川砂利運搬では、大正9年(1920)に開通した埼玉県営鉄道・的場線(的場(現・霞ヶ関駅)〜砂利採取場)と大正14年(1925)に開通した川越鉄道・安比奈線(南大塚〜安比奈)も西武開拓の一翼を担いました。
天覧山への遊歩道
直進すると能仁禅寺の天覧山登山口です。
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天覧山への遊歩道
直進すると能仁禅寺の天覧山登山口です。
ニコニコ池
昔は子供たちが水遊びをしていたそうです。今は中央公園で遊んでいます。
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ニコニコ池
昔は子供たちが水遊びをしていたそうです。今は中央公園で遊んでいます。
東雲亭跡
若くて可愛い女中の「お静さん」は名郷の白岩集落の出身だったそうです。
なお、東雲亭の古い写真を見つけましたが、有料頒布でしたので掲載をやめました。
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東雲亭跡
若くて可愛い女中の「お静さん」は名郷の白岩集落の出身だったそうです。
なお、東雲亭の古い写真を見つけましたが、有料頒布でしたので掲載をやめました。
能仁禅寺登山道を進みます。
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能仁禅寺登山道を進みます。
桂昌院ゆかりの十八羅漢の前をとおり、岩場を過ぎると
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桂昌院ゆかりの十八羅漢の前をとおり、岩場を過ぎると
天覧山山頂
明治16年(1883)4月18日に明治天皇が天覧山山頂より近衛兵春季演習を統監したのを記念して命名されました。
それまでは能仁禅寺に奉納された十八羅漢に因んで「らかんやま」と呼ばれていました。
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天覧山山頂
明治16年(1883)4月18日に明治天皇が天覧山山頂より近衛兵春季演習を統監したのを記念して命名されました。
それまでは能仁禅寺に奉納された十八羅漢に因んで「らかんやま」と呼ばれていました。
マムシ怖くて
Uターン。
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マムシ怖くて
Uターン。
ノコンギク
ヨメナと違うように思います。判別が難しいです。
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ノコンギク
ヨメナと違うように思います。判別が難しいです。
ミズヒキ
可愛らしい花です。
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ミズヒキ
可愛らしい花です。
武揚山能仁禅寺の山門です。
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武揚山能仁禅寺の山門です。
資料館から新装博物館となりました。無料なので入って見物しました。
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資料館から新装博物館となりました。無料なので入って見物しました。
学芸員の方に入間馬車鉄道関係の展示がないので聞いたところ、馬鉄関係の資料は少ないとのこと。武蔵野鉄道関係については資料本を出したりして力を入れているようでした。
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学芸員の方に入間馬車鉄道関係の展示がないので聞いたところ、馬鉄関係の資料は少ないとのこと。武蔵野鉄道関係については資料本を出したりして力を入れているようでした。
観音寺の白象
定番のパシャリ
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観音寺の白象
定番のパシャリ
飯能河原は、にぎやかです。
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飯能河原は、にぎやかです。
澁澤平九郎とも関係があった「まんじゅう小路」をすぎて飯能駅に戻りました。
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澁澤平九郎とも関係があった「まんじゅう小路」をすぎて飯能駅に戻りました。
amuriさん 初めまして こんにちは
ケダマと申します
居住地の近くや足繁く通う道など、
普段見慣れた光景の写真でしたが、
西武開拓や鉄道の歴史と関連付けられ、大変興味深く拝見しました。
何気なく通り過ぎていたあの建物やあの空き地が、
かつての駅跡だったり史跡だったりと驚かされることばかりです
普段歩いているあの道を馬車鉄道が通っていたなんて…
無知蒙昧な自身が恥ずかしい限りです
これからは地元の博物館や資料館にも足を運び、
自身の生活するエリアの歴史や来歴も学んでみたいと思います
大変良い刺激を頂き、ありがとうございました
ケダマさん こんにちは 初めまして
と言いますか、いつもレコを拝見させていただいておりますので初めてという気がしません (^▽^) ニコ。
ケダマさんのレコで植物や鳥類の同定について色々教えていただいてます。特に定点観測型の「智光山公園」レコは季節の移り変わりの雰囲気が味わえるようで興味深く拝見させていただいてます。また、奥様リクエトスの「チャレンジ」シリーズもほほえみながら「拍手」をクリックしてます。
今回の小生のレコですが、ヤマレコに載せるのが相応しいかどうか迷いました。でも常々感じていることがありました。それは狭山市、入間市や飯能市のシャッター商店街の多さでした。むかしからこのような活気のない商店街ではなかったはずだと思っていた時に、ちょっとしたキッカケがあり、埼玉県西武地域の歴史を調べてみようと思い立ちました。一応、明治5年から昭和27年までの西武地域を主にした金融・事業・運輸(鉄道)の年表を作って調べ始めましたが、まだまだ突っ込みの足りない調べ状態のまま、レコにアップして恐縮しています。
レコ仲間として今後ともよろしくお願いします。
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