岡山県瀬戸内市 築山古墳〜美和神社〜寒風古窯跡群 古道再消滅⁉
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- GPS
- 06:20
- 距離
- 17.2km
- 登り
- 525m
- 下り
- 510m
コースタイム
- 山行
- 5:21
- 休憩
- 0:58
- 合計
- 6:19
歩行距離17km、歩行時間5時間20分、歩行数27,200歩、消費カロリー3,190Kcal
天候 | 晴れ時々曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
さらに、美和神社随身門<写真17>南に広い駐車スペース、正(しょう)八幡宮<写真44〜48>には普通車十数台のスペース、寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)<写真55〜59>南にある寒風陶芸会館には普通車30台の駐車場があります。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
大半は舗装道路や整備された土道ですが、あるはずの土道がなくルート変更やヤブコギを余儀なくされた箇所があります。寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)の案内板<写真55>に表示された岡山ブルーラインより南の古道はまさかのすべて再消滅⁉ ヤブコギは新池<写真72>からサザラシ1号墳<写真73,74>までで、途中までの沢沿いはなんとなく踏み跡らしきものもありました。西に方向転換してから尾根に出るまでは、崩れやすい斜面で上りでも要注意でしたが、尾根に出ると次第に道らしくなり、サザラシ1号墳<写真73,74>が見えました。 美和神社<写真17〜24>方面に向かう舗装道路から「古代塩の道」で県道224号線出合までは土道です。 舗装道路には「古代塩の道」入口の道標があり、そこから土道に入って南下しました。標高140m辺りは分岐で、直進はサザラシ1号墳<写真73,74>で行き止まり(のはずが、ヤブコギで新池<写真72>から到達)、西はサザラシ谷ルート(新池<写真72>と中池<写真70>の間に出るはずのルートで、おそらく倒竹などにより消滅)、東は「古代塩の道」で朝日寺方面へと向かいます。東の道に入って南東に進むと、途中からは鉄塔巡視路で標高100m辺りから小石がゴロゴロしていましたが、そのうちにマシになり、標高60mをきる辺りに美和神社<写真17〜24>への道標がありコンクリート道に変わりました。県道224号線出合にも道標がありました。 須恵郷古道道標<写真49>から寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)<写真55〜59>までは、正八幡宮ルートのはずが、途中からヤブでルート変更しました。 道標<写真49>から南下すると、標高15m辺りで道は直進上りと南西への草が茂った土道に分かれました。直進(南下)のほうが明瞭でしたが、正八幡宮ルートのはずの南西方面に進みました。 カベラ池<写真50>を過ぎると次第に怪しくなり、標高60m過ぎでとうとう南西方面はヤブになりました。幸い、整備された道は南東へ延びていたので、そちらに進み鉄塔巡視路に合流、送電線沿いに南西に進んでみましたが、鉄塔で行き止まりだったので引き返し途中からは地形図の破線の道どおりでした。標高55m辺りでコンクリート道になり、三平池<写真53>南東の舗装道路に出合い、無事に寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)<写真55〜59>に到着しました。 寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)<写真55〜59>から県道224号線出合までは、南大土井ルートで北上するつもりだったのですが、フタスジサナエ♀<写真60>撮影地点の池から北はヤブでした。池を一周してみましたが、道はなく、草地を突っ切って戻りました。そのすぐ南の笹場池から延びる岩崎ルートは私有地につき立ち入り禁止だったので、舗装道路で大きく西側を迂回しました。予定の南大土井ルートは、五角柱地神碑&牛石像<写真68>付近へと延びているはずだったようです。 県道224号線から新池<写真72>を経てサザラシ1号墳<写真73,74>までは、中池<写真70>と新池<写真72>の間から北上するサザラシ谷ルートに入れず、ヤブコギすることになりました。 舗装道路を進むと、中池<写真70>から土道になり、新池<写真72>で行き止まりになりました。引き返し、中池<写真70>との間から北上するサザラシ谷ルートの入口を探しましたが、それらしき竹林は斜めに倒れた竹だらけで入れそうになく、周辺にも明瞭な道はありませんでした。ここまで来て引き返すのもと、ヤブコギすることにしました。 新池<写真72>のほとりは、木が茂っていましたが、中腰なら枝をかき分けずに歩けました。さらに進むと、所々かき分けなければ歩けなくなりましたが、足元はなんとなく踏み跡のように思えました。ちょろちょろ流れの細い沢に出合うと歩きやすいほうを選んで何度かまたぎながら進み、標高70m近くで木がまばらになってきたので、西に方向転換し尾根に向かって崩れやすい斜面を木を掴みながら登りました。 標高130m近くになると、なんとなく踏み跡らしくなりはじめ、次第に一本道に見えてきました。サザラシ1号墳<写真73,74>が見えたときにはほっとしました。 古墳からは整備された土道で「古代塩の道」入口の道標で舗装道路に出合いました。 |
その他周辺情報 | スタート&ゴール地点の須恵古代館前の県道39号線を東北東に数百メートル進んだところに「日本一のだがし売場」があります。駄菓子やおもちゃなど懐かしい商品が税込み10円単位で売られており、幅広い年齢層の客でにぎわっています。現在、売り場の一部のみ営業中です。 また、須恵古代館の北西、国道2号線と吉井川が交わる辺りに「おさふねサービスエリア」があります。日帰り入浴可能な温泉施設があり、レストランでは土日祝日はランチバイキングが楽しめます。なお、5月6日まで全館休館です。 |
写真
アブラナ科の一年草で、発芽した状態で冬を越し春に開花します。オオアラセイトウといいますが、園芸品種としてはムラサキハナナの名で知られています。須恵古代館(とりあえず5月6日まで休館)の駐車場の南にたくさん咲いていました。
シロツメクサはマメ科の多年草で、別名クローバーとも呼ばれます。長さ約1cmの白い蝶形花が30〜70個集まって球状の花序をつくっています。土がいいのか、花序の直径は3cm近くありました。
5世紀の後半から6世紀の前半頃に築造されたと考えられている前方後円墳で、岡山県指定の史跡に登録されています。家型石棺は凝灰岩で造られており、現在では熊本県で出土する「阿蘇ピンク石」を原材料としていると考えられています。
この鳥居は、以前は須恵古代館の少し北東の県道39号線沿いに設置されていました。ちょうど冬至の日の太陽が三和ノ峰(広高山<写真14>の古称)から昇るように見える位置です。昭和50年の道路拡張工事に伴い、鳥居はここに移転し、太陽の復活と五穀豊穣を祈る冬至祭も行われていません。
電線上で「チヨチヨビィー」とさえずっていたので動画にも撮りました。聞きなしは「焼酎一杯グイー」です(*_*;見た目がよく似た野鳥が多いのですが、さえずりを聞くとすぐにわかります。
関東以西の太平洋岸・四国・九州に生育するスイカズラ科の植物です。ガマズミの花が5月になってから咲くのに対し、コバノガマズミは4月に咲き始めます。葉に柔らかい毛があり、ビロードのような手触りです。
花期は4〜6月で枝先の1個の花芽に1から3個の花をつけます。コバノミツバツツジ<写真25>をヤマツツジと思っている人も多いようですが、花色が違います。この日はいろいろなツツジが見られましたが、開花中のヤマツツジはこの1本だけでした。
標高166.1mの頂上三角点です。今回、唯一の山名がついた山ですが、展望は効かず、あまり登った感じがしません。舗装道路の北側に石碑があり、ササの間の細い踏み跡を辿るとすぐです。
美和神社随身門
随身門の右に豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)、左に奇磐間戸神(くしいわまどのかみ)が鎮座しています。随身門前は瀬戸内海の展望地となっており、八重桜<写真18>が綺麗に咲いていました。
&神輿蔵跡
本殿<写真20>の後ろにありました。慶安元年(1648年)の記録に神輿(みこし)3基、流鏑馬(やぶさめ)に参加する馬3頭との記述があるそうで、かつては盛大な祭りが行われていたようです。
秋の大祭には瀬戸内市長船町東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、牛窓町の海岸(埋め立て以前は邑久町尻海の海岸)で潮ごりをとり、身を清めて尻海(しりみ)の広高神社へ酒・米など供えます。その関係で、境内には広高神社の遥拝所があります。
美和神社の前から瀬戸内海が一望できます。この日は視界があまり効きませんでしたが、奥の方に小豆島、その手前に前島が幻想的に映っていました。ここまでは舗装道路でしたが、少し引き返し「古代塩の道」の道標から土道に入って南東に向かいました。
東須恵・尻海ルート&西須恵ルートの分岐です。北西に進むと、大池・中池・妻池と3つ並んだ池のほとりに出ます。長船町東須恵・西須恵と邑久(おく)町尻海(しりみ)とを結ぶ道は、昭和30年頃までは海産物などを運ぶ主要道だったそうです。道は途中から鉄塔巡視路で、小石がゴロゴロした道がしばらく続くと、コンクリート道になりました。
マメ科らしい形の黄色い花を咲かせます。花期は長く、春から秋まで咲き続けますが、特に春と秋に数多く花が開きます。セイヨウミヤコグサとは違い、葉や茎に毛がなく、花は1か所に1〜3つしかつきません。県道224号線出合いで群生を動画に撮りました。
ノヂシャはヨーロッパ原産の帰化植物でこの頃から淡青色の2mm程の小さな花を次々と咲かせます。オヘビイチゴは地面から茎を伸ばして、茎先に黄色い小さな花を咲かせます。葉が5枚セットなのでわかりやすいです。
ウグイスの鳴き声のほうがよく聞こえていますが、耳を澄ますとビィーと鳴いているのがわかりました(*^^*)動画でもその様子を撮りましたが、鈴を転がすような美しいさえずりが聞こえなかったのが残念です。スズメよりも少し小柄なくせに、恐ろしく気が強いので、我が家ではカワラヒワの親分と呼んでいます。
その名の通り、「さや」を食べる「えんどう豆」です。そのまま成長を続けると豆が膨らみさやが厚みを増す「スナップえんどう」になり、豆の部分がグリーンピースとなります。ちなみに、発芽したばかりの若いエンドウが豆苗です。
南巡り7番
南巡り八十八か所は毎年5月21日に「御接待」という行事が行われ、各大師堂ではたくさんのお菓子がもらえます。日本版ハロウィーンのようで人気の行事ですが、今年は・・・(*_*;
ウンナンオウバイともいわれます。オウバイ(黄梅)とよく似た花を咲かせることにちなんでその名がつけられていますが、オウバイとは違い常緑です。花は傷みかけて白っぽくなったものもありました。
&荒神社&七柱社
應永年中(1394〜1427年)清原備前守沙彌が本殿を建立しました。社領は九十町ありました。七柱社のご祭神は宗像神(むなかたのかみ)など七神、荒神社のご祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。高天原から追放された命(みこと)は罪をあがない疫気を祓う威力を発する強い疫神様として古くから祀られました。
正八幡宮本庄口一の鳥居
高良神社のご祭神は武内宿禰(たけうちすくね)です。軍政に長け、国内平定に活躍し、霊媒的能力を持った長寿の人で『日本書紀』では、景行、仲哀、神功、応仁、仁徳の各天皇に仕えたとされています。同一人物なら300歳以上・・・(*_*;鳥居は、再建の際に撤去しここに祀られたものです。
コンクリート道に出て少し進んだ所です。1本の木に雄花と雌花があります。花びらは3枚で、雄花の中央部には6本の雄しべがミカンの房状に、雌花の中央部にはバナナの果実のような6〜9本の雌しべが放射状についています。
セイヨウと名が付きますが、かなり古くに中国から伝わった帰化植物です。昔は菜の花といえば、アブラナやセイヨウアブラナだったのですが、今や春の時期を彩る野草の代名詞の一つになっています。花はまばらにつき、葉は茎を抱きません。動画も撮りました。
「寒風古窯跡群」
7世紀初頭から8世紀初頭の約100年間にわたって須恵器が焼かれていたところです。出土遺物は杯や甕(かめ)など一般的なものの他に寺院の屋根の鴟尾(しび)や役所で使用される硯、陶棺があり、焼かれた須恵器が奈良の都からも出土することから、単なる地方窯ではなく、半官窯的な性格をもつ窯であることがうかがえます。史跡内には長さ10メートルを越える窖窯(あながま)が5基確認されています。
石室は長さ3.2m、奥壁の幅92cm、周溝のある直径6.5mの円墳です。平成17年の調査により「須恵器床」と呼ばれる甕(かめ)の割れを敷いた岡山県でも例のない特殊な床を持つ古墳であることが確認されました。この甕は寒風1号窯<写真58>で焼かれていることも分かり、窯に近い場所に造られていることから、寒風での須恵器生産を行う工人をまとめた有力者の墓ではないかと考えられます。周辺は埋め戻され、草地になっていました。
1−詰卆廚7世紀後半に使用されていた窯の跡です。寒風古窯跡群では最大で、寺院の飾り瓦の鴟尾(しび)や陶棺などが焼かれていたそうです。ここも草が茂った斜面で、説明板がなければわかりません。
発掘の結果、最大で約2mの深さまで廃棄物が堆積していることが分かりました。灰原跡の地表には、今でも須恵器の破片や窯の壁の破片が散乱しているようですが、ほとんど取り除かれていました。ここからさらに道があるはずでしたが、前方はヤブのため、池の北側からまわってみることにしました。
胸部前面の黄色い筋模様が縦横つながっており、胸部側面の黒条2本が完全に上まで伸びています。メスは鮮やかな黄色になります。池沼開発や汚染などで生息地は徐々に減少しており、準絶滅危惧種に指定されています。岡山県では、早い年で4月下旬から羽化がはじまり、6月下旬まで見られます。結局、池から延びる道はなく、草地を突っ切って戻りました。
南ヨーロッパ原産のハーブで、コモンタイムとも呼ばれ、主にハムやソースに用いられます。殺菌作用が強いので、食品の防腐剤としても利用されています。このすぐ南にある寒風陶芸会館は5月7日まで休館です。ここからは北上できそうになかったので、舗装道路を進み西から迂回するとにしました。
&ハハコグサ
ゲンゲは花の形が「蓮の華」に似ているのでレンゲと呼ばれています。接近してみると、とても鮮やかで美しい花です。右の黄色い花はハハコグサで、春の七草のゴギョウとしてお馴染みの植物です。
大麦の穂は、軸の左右に3列ずつ花をつけますが、六条大麦は3列全てに実がつき左右合わせて6列、二条大麦は3列のうち中央の花にだけ実がつき左右合わせて2列に実がつくためこう呼ばれます。日本のビールは主に二条大麦を使用しています。風になびく様を動画に撮りました。
埴安媛命(ハニヤスヒメノミコト)、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)の五神名が刻まれています。牛のほうは牛神様でしょうか。岡山ブルーラインを越えた辺りで満開のモチツツジ<写真08>を動画に撮りました。
花は3〜4月に、展葉とともに葉腋から散形花序を出し黄緑色の花を多数付けます。トゲに引っかかると厄介なので、ヤブコギ中にはお目にかかりたくない植物ですが、秋に見られる直径1cm少々の赤い実は綺麗です。少し進んだ所でコバノミツバツツジ<写真25>を動画に撮りました。
春に淡い藤色からピンク、白の星形の花をよく咲かせ、丈夫で手間いらずな植物です。葉や球根を傷つけると、その名のとおりネギやニラのようなにおいがするようです。なぜか1株だけ雑草のようになっていました。
ハート型をした池です。ここで行き止まりでした。中池<写真70>との間に北上する道(サザラシ谷ルート)があるはずでしたが、戻って探しても、入口らしき竹林は斜めに倒れた竹だらけで入れそうになく、周辺にも明瞭な道はありませんでした。ここから引き返すと、また岡山ブルーラインの南まで行かなければなりません。意を決してヤブに突入しました(*_*;
ちょろちょろ流れの沢沿いをヤブコギしていると、踏み跡らしきものもありました。崩れやすい斜面を木を掴んでよじ登り、尾根に出ると次第に道らしくなりました。ヤブコギの終点はなんと古墳でした。去年12月8日に訪問しましたが、今回は想定外のスポットでした。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下(厚手)
軍手
雨具
日よけ帽子とフード
雨用帽子
登山靴(防水加工)
靴ひも予備
サブザック
ザックカバー
地形図
コンパス
マップケース
筆記用具
携帯
時計(防水)
タオル
カメラ
飲料水(スポドリ&茶)
水筒(保温)
非常食(栄養補助食品)
スマホ(山使用可能)
eTrex30(GPSナビゲーター)
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感想
“いつ訪問してものどかなロケーション&まさかの古道再消滅⁉”
先週の牛窓町散策で瀬戸内市の里歩きは人に出会わずに豊かな自然と史跡を堪能することができると考え、今回は長船町から邑久町、そして牛窓町と三町を散策しました。実際にすれ違ったのは、ゴール直前で美和神社方面に向かう一人のみでした。今が特別なのではなく、2019年以前も美和神社以外は同様でした。
2019年1月13日https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1703416.html
2019年12月8日https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2136991.html
今回辿ったコースの大半は舗装道路や整備された土道でした。2016年に地元の有志により、古道が復活、道標もあり歩きやすいはずだったのですが、須恵郷古道道標<写真49>の南にあるカベラ池<写真50>を過ぎると雲行きが怪しくなりました。南西に進めば正八幡宮ルートで寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)<写真55>のはずが、前方はヤブ、整備された道は南東へ。おとなしく南東に進み、鉄塔巡視路に合流、無事に三平池<写真53>の南東の舗装道路に出合いました。結局、最短コースの7倍ほど遠回りして寒風古窯跡群に辿り着きました(*_*;
また、寒風古窯跡群から南大土井ルートで北上するつもりだったのですが、フタスジサナエ♀<写真60>撮影地点の池から北はヤブ、そのすぐ南の笹場池から延びる岩崎ルートは私有地につき立ち入り禁止、舗装道路で大きく西側を迂回しました。
寒風古窯跡群<写真55>の案内板に表示された岡山ブルーラインより南の古道はまさかのすべて再消滅⁉
不安を抱えたまま、正八幡宮<写真44〜48>の西側から美和神社<写真17〜24>に延びる道を進みましたが、ハート型をした新池<写真72>から突然、道がなくなりました。中池<写真70>との間から北上するサザラシ谷ルートよ、おまえもか!ここは沢沿いをヤブコギ、途中から広高山<写真14>の南東尾根を詰めていくと、なんと、サザラシ1号墳<写真73>に出てきました\(^o^)/ここからは歩いたことがある道でほっとしました。
適当に好奇心の赴くまま歩いたので、写真<51〜74>や動画の後半で紹介しているような想定外の自然や史跡にたくさん遭遇し、楽しい散策となりました。ヤブコギも楽しかったかって?もちろん(^^♪
“備前焼のルーツ須恵器の郷を歩く”
出発点の長船(おさふね)町西須恵にある「須恵古代館」は休館でした。開館時(土日祝日限定)も訪れる人はほとんどいませんでしたが、隣接した築山古墳とともに、ひっそりとしていました。
その地名(須恵)からわかるように、当地からは数多くの須恵器が出土しています。須恵器は古墳時代中頃(およそ1,600年前)、朝鮮半島から日本にやって来た渡来人技術者により伝えられた焼き物です。周辺一帯からは「邑久古窯跡(おくこようせき)群」と呼ばれる須恵器の窯跡が数多く発見されており、その規模は西日本有数といわれています。長船町、邑久町、牛窓町ではこれまでに約六十基の窯跡が発見されており、古代吉備地方における最大の窯業生産地でした。備前を中心に中世窯業の一大中心地である伊部(いんべ)古窯址(こようせき)群<備前焼>が所在しますが、これは邑久古窯跡群が発展したものとみられています。
今回のコースの折り返し地点は「寒風古窯跡(さぶかぜこようせき)群」でした。「邑久古窯跡群」の最南端にあたります。標高50〜60mの丘陵の南西斜面に位置し、操業は7世紀の飛鳥時代を中心とした約100年間続きました。昭和61年(1986年)に国の史跡に指定されました。
窯を築く条件は、焼き物のもとになる「土」(粘土)があること、そして窯を焚く薪があることといわれています。寒風古窯跡群がある所は今でも粘土が採れ、薪も豊富にあったのでしょう。しかし、土と薪は使い続ければ何年、何十年かすればなくなります。邑久古窯跡群が瀬戸内市と備前市の広い範囲に窯を移動して築かれているのはこのためです。寒風古窯跡群が100年間もの長きにわたったのは、出来た須恵器を運び出すのに便利であったからだといわれています。ここから南の谷を1丗らず下った所に、当時海であった錦海(きんかい)湾がありました。そこで焼いた須恵器を船に乗せれば、海路で奈良の都まで運ぶことができたのでしょう。
寒風古窯跡群で須恵器が焼かれなくなると、窯は北へ移動し、奈良時代には佐山(現備前市)、平安時代前半には福谷(現瀬戸内市)、平安時代後半には磯上(現瀬戸内市)へ生産の中心が移動していきます。そして、平安時代末には伊部(備前市)に大きく移動し生産地を集中させ、この段階で伊部焼とも呼ばれる備前焼の生産が開始されたと考えられています。このため、寒風古窯跡群を含む邑久古窯跡群の須恵器は備前焼のルーツといわれています。
今でも周辺に備前焼工房があるのは、歴史的にも喜ばしいことです。この伝統工芸がこれからも発展し続けることを祈ります。
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