エベレストぼろぼろ遠征記(カラパタール5600m)(1997年9月)
- GPS
- 248:00
- 距離
- 104km
- 登り
- 5,982m
- 下り
- 5,981m
コースタイム
- 山行
- 4:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:00
- 山行
- 4:30
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:30
- 山行
- 2:00
- 休憩
- 1:00
- 合計
- 3:00
- 山行
- 4:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:00
- 山行
- 4:30
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:30
- 山行
- 4:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:00
- 山行
- 4:30
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:30
- 山行
- 9:30
- 休憩
- 0:30
- 合計
- 10:00
- 山行
- 6:30
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 6:30
- 山行
- 5:30
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 5:30
- 山行
- 4:00
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 4:00
天候 | 晴れ |
---|---|
アクセス |
写真
感想
エベレスト、カラパタールへトレッキングした時記録した文章をヤマレコに転載します。
エベレストぼろぼろ遠征記
■エベレストへのプロローグ
以前からハイキングが大好きな私だが、しばらくの間すっかりご無沙汰となっていた。けれども香港に赴任してからは、意外にも大都市の身近なところに大変よく整備された自然豊かなハイキングコースがある事を知り、私のハイキング好きに再び火が点くことになった。また、私の所属するドラゴンボート同好会にはハイキング好きがたくさんおり、ボートのオフシーズンには毎週のようにハイキングとその後のおいしいビールを楽しんでいる。
ところで、少しずつ歩けるようになると、子供の頃からの夢であったヒマラヤを見たいという思いはつのるばかりで、96年1月にはネパールの8000mの山々に囲まれたアンナプルナ・ベースキャンプ(4100m)にハイキングに行ってきた。この時の一面純白の世界にそびえる神々の山は、一生忘れられない思い出となったのである。
これで味をしめた私は、今回はもう一つの夢であるエベレストとのツーショット写真を撮るために、再び一人ヒマラヤに向かったのである。
■トレッキング開始までの忍耐の日々
9月26日(金)
カトマンズで朝から晩まで丸一日かかったもののトレッキング・パーミッションと帰りの飛行機のリコンファームを終えた。その間、空いた時間を利用して寝袋とダウンジャケットもレンタル完了。これで準備は完璧のはずであった。
9月27日(土)
ヘリコプターでトレッキングの拠点となるルクラ(2804m)に飛ぶため、空港へ朝7時に到着。チェックインは順調だったが、天候不順という事で搭乗待合室で延々と待たされることになった。ひたすらいらいらしながら待つのみ。外の天気は曇っているものの、飛べないようには見えない。お腹も空いてくる。
ついていないことに、結局6時間待った午後1時欠航が決定してしまった。その間グルカ航空からは連絡らしいことはまるでなし。まさか塔乗券をもらった後に欠航になるとは、私の予想を越えるものがあった。ヘリは多少の天候不順でも欠航がないと言うので、わざわざ香港から高い手数料を払って予約したのであるが‥。
ところで、この日私達と同じヘリらしい謎のアジア人のカップルの女性がグルカ航空に猛然と抗議。私にはとても日本人には見えないし、香港人にしては背が高く英語もうまいので、彼女はおそらくシンガポールかどこかの華僑に思えた。
その晩は、同じヘリを待っている間に知り合った日本の写真家の方とツインの部屋をシェアすることになった。前日まで、税込みでUS9ドル(約1000円)と言う私の感覚からすると格安のホテルに泊まっていたが、「それは高すぎるねぇ」の一言で、この日は一人あたり75ルピー(約150円)の部屋に泊まることになった。覚えている限り、これは今まで私が泊まった最も安い宿の記録更新となった。この宿、安い割には町の中心部にあるし、中庭付きの古い洋館で値段の割にはなかなかのものである。
9月28日(日)
5時に起きて、空港に朝6時着。空港から向かうタクシーから見た山の様子は、前日よりも雲がかかりいやな予感がした。
案の定予感が的中し、昨日と同じようにチェックイン後、搭乗待合室で延々と待つことに。11時頃、昨日の謎のアジア人女性が再度グルカ航空に執拗に抗議。なんと抗議のかいあり、ヘリ待ちの人全員分のレストランでの朝食が無料となってしまった。
そのカップルは驚いた事に日本人で、昨日はタクシー代もグルカ航空の負担させたそうである。乗客20人全員が外国人の中で、抗議したのは彼女だけである。「大したものだ。日本もここま国際化したか‥。」と一人感慨にふける私であった。
結局この日もヘリは欠航となり、同じ境遇となった日本人6人で、夜はチベットレストランでコジャックという鍋を食べることになった。
■やっとトレッキング
9月29日(月)
ヘリ待ち3日目、山での日程にはある程度余裕はみていたが、そろそろ私も焦ってきた。6時に空港に着くと、グルカ航空のスタッフが私達の所まで今日の搭乗券を持って来る。私達乗客はもうすっかり馴染みなのだ。この日、色の違った搭乗券は3枚目である。
半分諦め気分で待っていると意外にも8時半にヘリは出発。乗客一同喜びの渦である。しかし、この喜びも長くは続かなかった。30分後降り立った所は、とてもルクラとは思えない山の中。乗務員に聞いてみると、ルクラまで歩いて3日という標高2438mの地であった。私は全身から力が抜けその場にへなへなと座り込んでしまった。ルクラの視界が500m以下らしく、ヘリが着陸できないそうだ。仕方なくその村のロッジでまたしても天候回復を待つ。
3時間ほどして諦めていたところ、ルクラの雲が切れたとの連絡があり慌てて再出発する。
12時半、やっと、やっと、やっとの事でスタート地点ルクラ(2804m)到着。なんとここまでが長かったことか‥。香港を出発して既に5日目である。
ヘリを降りると気を取り直して、一緒のヘリだった二人の日本人大学生と昼食も取らずに歩き始める。歩き初めは、ほとんど登りがない平坦な道である。時々集落もあるので、地元の人にもよく合う。4時半にチュモア(2950m)に着くと比較的程度がよさそうなロッジに泊まる事にした。
夜は思いのほか寒い。香港との気温の差は軽く20度を越えているだろう。セーターを持ってこなかったことが悔やまれる。ダウンジャケットはレンタルしてきたのだが、ここで着ていては先が思いやられると思い我慢した。夕食は、あまりの寒さのため食堂にいることができず、歯をがたがたさせながら台所の薪コンロの脇に張り付いて食べた。食後は寝袋に篭り一歩も動かず過ごし、そのまま寝るしかなかった。
9月30日(火)
8時にチュモア出発。川沿いの道を徐々に高度を上げる。山には雲がかかっており景色は今一つ。大きな吊り橋を渡ると最初の難関の高度差約500mの急坂である。大学生の一人がかなり辛そうであったが、12時半にはシェルパの交易の中心地、トレッキングの拠点となっているナムチェバザール(3440m)に到着した。
ナムチェは三方を山に囲まれたすり鉢状の所にある。さすがにエベレスト街道の中心地と言うだけあって、富士山の頂上に近い高度だと言うのにたくさんのロッジ、登山用品を扱う店、みやげ物屋、郵便局に銀行までありびっくりしてしまった。
午後からは激しい雨となる。早く宿に着いていて助かったと胸を撫で下ろした。
私の体調は、昨夜の寒さのため風邪気味であるが、まだ大学生達より元気いっぱいである。雨が上がると外でほとんど上半身裸になり、ドラゴンボートのための日課である腕立て伏せや石垣の石を使っての筋トレをする。その間、道行くシェルパ達が不思議そうに眺めているのであった。
10月1日(水)
この日は高度順応のためナムチェにもう一泊する。エベレスト街道を歩くコツは、いかに高山病にならないかである。通常4000m付近と5000m付近では、高度順応のため1日以上停滞する。これをしないとほぼ間違いなく高山病となる。日本人のツアーは時間に追われているため高山病にかかる率が高いそうだ。
日中は、登山の下見にきているという日本人の方と3833mにあるエベレストビューホテルという高級ホテルまで散策した。本来ならここからでもエベレストの姿が見えるはずだが、ガスがかかりほとんど何も見えない。そして非常に寒い。トレイルの上には氷すらある。
一緒に来た方は日本での登山が豊富で、Tシャツに雨カッパと言う私のあまりに貧相な装備を見て、下着を含めてすべて買い直すようにと助言してくれた。私もさすがに情けなくなり、ナムチェまで降りてくると約700円のセーターを購入した。これだけでも寒さはかなりの違いで、夜は前日と違い比較的暖かく過ごせた。荷物の重量を押さえるため、セーターを持ってこなかったのは、全くの失敗であったと風邪をひいてつくづく思い知らされた。
高山病については、非常に警戒していたのであったが、香港のように30度を超える夏の気候からヒマラヤに向かう場合は、寒さに対する順応も非常に大切のようだ。
10月2日(木)
朝8時曇り空の中、前日雇ったシェルパのガイド、クマールと共に出発。このトレイルは基本的には一本の川を挟んだ谷の上を登って行く。谷の両側にはまだ木々も多い。一度川まで下り、そこから二つ目の難所を600mほど登り返すと、12時にはゴンバ(チベット仏教の寺院)で有名なタンポチェ(3867m)に到着。
この日は風邪が悪化し、鼻をかむためトイレットペーパーが手放せない。それでも食欲はあり、昼食にはダルバートと言うネパールの豆のスープとジャガイモとご飯の定食(日本なら3人分はありそうな量)をおかわりした。これを見てネパール人も日本人を見直したようで、ちょっと満足する。
夕方になると雲の間から雪をかぶった山が見えた。何の気なしに見ていたら、それはなんと夢にまで見たエベレストとローツェであった。あまりにも突然見えたものだから、拍子抜けすらする。山の気候は一瞬先がわからない。これから上に登ってもさらにエベレストが見える保証はまるでないのだ。私は雲の切れ目に見えるエベレストの写真を撮りまくるのであった。
■体調絶不調の危機
10月3日(金)
7時半に出発するが、曇り空のため何にも見えない。森の木々が徐々に薄くなる中、12時近くにディンボチェ(4350m)に到着。ここまでくるとほとんど木々は見当たらない。風邪はますます悪化。風邪のためか高山病のためかはわからないが、少し頭痛がする。半日でトイレットペーパーを一巻き使い切るほど大量に鼻水が出る。鼻の下は赤くただれて、せっかくの美男が台無しである。(笑) 夜はさらにひどく、一晩中喘息のように猛烈に咳が出てほとんど眠れない。
10月4日(土)
朝になるとなんとか咳の方は落ち着く。この日は2回目の高度順応の停滞日なので一日かけてチュクン(4730m)を経由してチュクンのピークまで歩く。
チュクンまで行くと8000級のローツェ南壁が目前に迫り、ものすごい迫力である。風邪がひどいし、ほとんど寝ていないのでピークに行くのは迷っていたが、その光景を見るともう登るしかないと思ってしまった。
5000mの一番低いピークに登るつもりであったが、歩いてみると話に聞いていたのとは桁違いのきつさである。ふらふらになりながら休み休みやっとピークに到着。ピークは立っていられないほど風も強く寒い。後でわかったのだが、道を間違えて250mも高い5252mのピークまで登ってしまったのだ。宿に戻ると体が完全にグロッキー状態で、ベットにそのまま崩れ落ちてしまった。
夜になると咳に加えて熱も出てきたようだ。さらに下痢という最悪の状態。私のひどい様子を見かねてアメリカ人の女性ヘーサーが解熱剤をくれる。それにしてもこの高度でこの有り様は情けない。ガイドのクマールには明日歩くのは無理だろうと言われてしまう。ベットに入っても全く寝ることができない。咳も苦しいが、前日も寝てないために眠れないのがもっとつらい。これから高度を上げることを考えると情けなくなってくる。どうしたものだろうかと咳をし鼻を絶えずかみながら、一晩中考えつづけるのであった。
10月5日(日)
体調は芳しくなく、時間に余裕があればもう一日留まるところだが、ヘリが飛ばなかったため予備日はない。幸い頭はふらふらだが頭痛は感じないので、高山病ではないと言い聞かせ、ヘーサーと共に出発する。 天気の方は今回のトレッキング初の晴天。ヒマラヤの山々が輝き美しい。ヘーサーは5000m近い高度だと言うのにスキップしながら、ルンルン気分で登って行く。既によろよろ状態の私には、彼女が怪物に思えてしまう。彼女にだいぶ遅れて、私は咳をしつつ5分おきには鼻をかむため立ち止まりながら、必死で登っていくのであった。
後で聞いた話によるとヘーサーはアメリカ平和部隊(青年海外協力隊のモデル)のメンバーとしてネパールの山に2年過ごし、その後はWWFの仕事でそのまま残っているそうだ。平和部隊時代は、ネパールの山を毎日数十キロも歩いていたそうで、それで彼女はシェルパ並みの体力があるわけある。
12時半にロブチェ(4930m)に到着。回りは既に石だらけの荒涼とした風景。その中を小川が流れている。そこだけが緑が多く心を和ませる。
2日間ほとんど何も食べる事ができなかったが、この日はいよいよ食欲がない。明日が最終アプローチなので食べないわけにはいかない。もうダルバートは口に入らない。夕食には、ロッジのメニューを見るとなんとチョコレートケーキと書いてあるので、それを注文した。それから延々と待つこと4時間。やっとのことで出来上がってきた。ロッジ中の人間が固唾を飲んで見守る。味の方は甘みが少ないもののなかなかいける。私が「おいしい」と言うとロッジ中の人間が大爆笑である。
■最終アプローチ
10月6日(月)
早朝4時の起床。とは言ってもこの日も3日連続でうとうとしただけである。ロッジのお兄さんにミルクティーを入れてもらい、チョコレートの朝食を取る。4時半、真っ暗な中をヘーサー、私、そしてガイドのクマールと出発した。ロッジを出ると川の水が増水しており、道を探すだけでも一苦労である。
私達はクーンブ氷河沿いの荒涼とした谷を黙々と登っていく。ヘーサーは昨日と同じで全く平気である。そのうち彼女の姿は暗闇の中に完全に消えてしまった。私はと言えば、登れば登るほど体調が悪くなり、ほとんど夢遊病状態である。
西からクーンブ氷河に合流するチャングリ氷河を超えるとトレイルは巨大な岩だらけである。岩から転げ落ちそうになりながら、必死に歩を進める。プモリ峰がますます大きく見えてくると、7時にやっとのことでゴラクシェップ(5150m)に到着した。やれやれとロッジで休憩である。ここのロッジがエベレスト街道最後のロッジである。ヘーサーは何事もなかったかのように余裕で休んでいる。私は休んでいるだけでも呼吸がせわしない。
30分ほど休んで、いよいよ最終目的地カラパラール(5500m)への登りである。白い砂地の上をカラパタール目指して歩く。砂地が終わると最後のきつい上りだ。最初はなんとか100歩ほど歩き呼吸を整える。そのうち連続では50歩ももたなくり、最後には10歩歩くと休憩という状態になってしまった。ヘーサーは先にどんどん行ってしまい、そのうち見えなくなってしまった。
呼吸はぜいぜい、「なんでこんな苦しい思いをしなければならないのだろうか、もう引き返したい」という誘惑にかられる。エベレストはもう十分に大きいのだ。「もうここでいいか」と何度思ったことか‥。
やがてヘーサーが見えてきた。ヘーサーが手を振るのが見える。私も何とか手を振って答える。距離にして数百メートルか。しかし私にはこの距離が十キロにも思えた。体はもう私の言う事をきかない。
それでも無理矢理動かしやっとのことで、ヘーサーのいるところまでたどり着いた。下を見るともう一つピークがある。私達は下のピークを目指したはずだ。ヘーサーに問うと「ピーク間違えて高いほうに来てしまった。でも、こっちの方がきれいだねぇ。」なんて私の気も知らず平気で言っている。私の方は、景色をじっくり見る余裕もない。気力を振り絞り、私の目的であるエベレストとのツーショット写真を撮る。その後は岩の間に崩れ落ちると、動けなくなってしまった。
30分ほどしてやっと少し呼吸が楽になると、改めて回りの景色を見る。夢にまで見たエベレスト、ヌプツェなどの8000メートル級の山々がまるで360度手に取るように見える。今までの天気が嘘であったかのように快晴である。真っ青な空の中にエベレストは氷も寄せ付けず黒い岩肌を見せ、頂上付近からは白い雲が湧き出ては消える。その下には氷や雪を抱いた山々、そして谷を見下ろすとあちこちに岩が顔を出す巨大な氷河が続く。
5500mのピークが下に見えるので、おそらく5600m以上の高度である。6000mまでは無酸素で登れるらしいが、ほぼ素人がハイキングする限界の高度と言ってよいだろう。
深い満足感が私を包む。まさに生きている事、自然、宇宙を実感した瞬間であった。
あっという間に時間が過ぎて下らなければならない。既に私の体力は限界である。ゴラクシェップまでの下りさえヘーサーから遅れてしまう。そこからはクマールに着替えはもちろん、最後には500グラムのカメラまでも持ってもらう。2時半にロブチェのロッジに着くと、またしてもそのまま寝袋に崩れ落ちると、そのまま意識を失うのであった。
夜意識を取り戻すとロッジ中のトレッカーが私の事を心配して薬を分けてくれた。その高山病の薬、頭痛薬、風邪薬等など、量と種類は薬屋ができるほどであった。
■一路下り
10月7日(火)
ヘーサーと一緒に下り始める。ロブチェからの沢沿いの下りでは、上の氷河の湖が決壊したとのことで、水が増水し川が渡れなくなっていた。他のトレッカーも皆立ち往生である。ここで頼みになったのが我がガイドのクマール、次々と巨大な川原の石を運ぶと見事橋を作ってしまった。
その後は順調で2時半には、ネパールで最も古い寺院があるパンボチェ(3985m)に到着。ここの寺院には以前雪男の頭の皮があったのだが、残念ながら盗まれたそうだ。パンボチェの宿には、日本のアルファ米の炊き込みご飯やカップヌードルもあった。日本の登山隊の置き土産らしい。それも日本で買うより安いくらいだ。食欲が全くない私にとっては、薬以上に貴重である。思わずいくつも買うと、夕食と朝食にありがたく戴いた。
10月8日(水)
ヘーサーはゴブチェというもう一つのピークに向かう。私にはとても無理である。彼女なら間違いなく成功するだろう。パンボチェの外れの道でヘーサーと別れる。2キロほどはお互いの姿が見えるので、その度に手を振って別れを惜しんだ。
ナムチェには2時には到着。来た時と違ってトレッカーがたくさんいるのには驚いてしまった。完全にトレッキングのシーズンになったのだ。
10月9日(木)、10日(金)
風邪と下痢で体調は悪かったが、ルクラまで一気に下った。翌日の早朝、ヘリは予定通り飛びカトマンズに無事到着、私のエベレスト遠征は終了した。
■エピローグ
香港へ帰国した私の体重は、10キロ近く落ちていた。体調も悪く、咳や吐き気、そして下痢もなかなか止まらなかった。一時は、バス停からアパートまでのわずか100メートルの距離すら休まないと歩けないほどで、病院に通院するはめになってしまった。
それでも、帰国2週目にはドラゴンボートの仲間と香港100キロトレイルの夜間練習40キロに復帰し、どうみても無理だと思われた11月の本番も無事完走した。人間、やればやれるものだなあとつくづく感じた次第である。
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