鷹峰三山 鷲峯 兀山 天峯 (鷲ヶ峰 鷹ヶ峰 桃山)京都北山
- GPS
- 06:21
- 距離
- 11.7km
- 登り
- 646m
- 下り
- 669m
コースタイム
- 山行
- 6:15
- 休憩
- 0:45
- 合計
- 7:00
天候 | 晴れ時々曇り |
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過去天気図(気象庁) | 2023年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス
仏教大学前(わたしは南行バス停で下車) ※ バスの系統が少なく、曜日によっては便数も少ないので、同じルートを歩くなら「千本北大路」で下車して北へ。登山口に直行するのなら「金閣寺道」バス停が近い。 帰り 金閣寺道 ※ バス多し。乗客も多し。 千本北大路(わたしは千本北大路バス停から乗車した) |
コース状況/ 危険箇所等 |
京都北山 鷹峯 鷹峯三山めぐり 佛教大学前バス停→紙屋川砂防ダム内住宅街→衣笠常修寺尾根→大文字山(左大文字)→兀山(鷹峯、鷹ヶ峰)→鷲峯(鷲ヶ峰)→鷲ヶ峰南尾根→京都市道衣笠緯13号線(階段山越道)→市道千束御室線(原谷川)→原谷北方林道北側尾根→桃山(推定:天峯、天ヶ峰)→桃山南尾根→常信寺南方登山口→原谷農協前バス停→P215.7→お狐山→金閣寺道バス停→千本北大路バス停 主要区間の所要時間(おおよそ) 佛教大学前→大→鷹→鷲→記念館前BS 140' 佛教大学前BS→紙屋川ダム→常修寺 20' 常修寺→大/鷹/鷲→西園寺記念館前 125' 常修寺→大文字山→鷹峯→鷲峯 55' 鷲ヶ峰→立命館西園寺記念館前BS 70' 立命館西園寺記念館前BS→原谷口BS 20' 原谷口→桃山取付→桃山→原谷農協前 155' 原谷口バス停→桃山取付 15' 桃山取付→桃山→下山口 130' 桃山取付→桃山 85' 桃山→常信寺南方下山口 45' 常信寺南方下山口→原谷農協前バス停 10' 原谷農協前→P215.7→お狐山→金閣寺道 50' * 危険箇所 わたしは怖がりで危険と感じた所は歩いていないが、荒れている箇所があるので人により評価が異なると思う。写真のコメント等で検討し、さらに、現地を見て最終判断して下さい。 * 道迷い 桃山への登りで通ったルートは、(下りで歩いた事はないが)下りでは分岐があるのでルートが判り難いはず。登りなら合流だけなので間違いない(ワタシ的見解)。 他は問題ないと思うが、言うまでもなく、もっぱら道標の完備したルートを歩く方では道迷いの危険が大きい。 * 全般に、急がなくて良い場合なら、わたしには気楽に歩けるルートだが、桃山への登りはやや楽しすぎる。桃山への登りは倒木が多く小〜中の迂回の繰り返し。このルートでは、急いで分岐を見落したり、迂回を急いで大回りしたりして、かえって時間を食う事があった。 目次 1. 鷹峰三山は 2. 紙屋川砂防ダム内住宅街 3. 衣笠常修寺尾根道(登り) 4. 鷲ヶ峰南尾根道(下り)〜原谷 5. 桃山への東ルート(登り) 6. 桃山南尾根道(下り) 7. 原谷と原谷弁財天 8. お狐山 1. 鷹峯三山は (出典: きょうのまなざし「左大文字山と鷹峯三山を登山驚峯~兀山京都タワーを遠望」など) 1. 鷲峯(わしがみね)(鷲ヶ峰)P314 (310.3) 2. 兀山(はげやま)(鷹峯、鷹ヶ峰)P250 (261.6) 3. 天峯(てんがみね)(天ヶ峰)(推定で桃山P466) ※ 一般名詞の兀山は「こつざん」と読み、鷹峰の山の固有名詞の兀山は「はげやま」と読む。 ※ 天峯(てんがみね)(天ヶ峰)を桃山とするのは推定。桃山以外の山を指している可能性がある。 ウェブページ「きょうのまなざし」はPCでは文字のコピーが出来ない為、携帯の選択から文字読み取りをしたところ「兀」が「元」になっていた。この為この山行記録の下書きも当初「元山」になっていた。修正した積りだが未修整箇所が残っているかも知れない。ところで、兀山と言う姓もあり「はげやま」と読むそうだ。 鷹峯三山だが山頂の地名はほとんど鷹峯ではない。兀山は北区大北山鏡石町と北区大北山鷲峯町の境界線付近に、鷲峯は北区大北山鷲峯町にある。大文字山も大北山にある。桃山は山頂が行政の境界線付近で南側は鳴滝宇多野谷、北側が鷹峯仏谷。ちょっと北東に離れた所から農林橋(原谷川が東海自然歩道に沿って流れて来る紙屋川にそそぐ付近)までが鷹峯桃山。 2. 紙屋川砂防ダム内住宅街(要約)※全文は感想欄 砂防ダム内なので当然建築は出来ず、不法占拠+違法建築になるのだろう。増水時には浸水被害も多く出ている。砂防ダムの建設労働者が現場付近に仮住まいし、そのまま居残ったと聞いている。ブログやウェブページにはこれとは異なった記述が多いが、最近のネット上の記事の内容はかなり出鱈目が多い。 わたしは危険だなどとは思いもつかなかったが、ウェブページを見ると、ここを通るのは危険だと言う考えもあるらしい。・・・いろいろ誤解や偏見がある様に感じるが。ご自身で判断して頂きたい。 3. 衣笠常修寺尾根道(大文字山の山地への登り) 周囲を住宅やリゾート施設などで囲まれてしまっている山地では、地図にある道でも公道からのアクセスが出来ない場合がある。最悪、建物上に道が書かれていたりもする。 こういう場合に目をつけるのが、お寺・神社・墓場・公園の裏手。 登り易そうな道に限って見ると衣笠常修寺の尾根が良さそうだった。調べに行った所、墓地の入口は「通常は」いつも開かれている。ただし、常修寺は山行目的の入山を快くは思っていないと言う話があるので、本堂や住居に近い下の取付より、上の取付を利用されたい。いずれにしても私有地なので通行禁止と言われてしまってはどうにもならない。迷惑にならない様に(=目立たない様に)。そもそもわたし達が歩いている大部分の山は私有地なのだが通してくれている。 この為取付にマーキングしていないが、左の尾根に行きたいと軽く考えていれば、ごく普通に気付く。真剣に考え過ぎると下の取付に気付いてしまう。写真のコメントやルート図を御参照頂きたい。 墓地の奥からの谷道の山行記録はいくつかあるが、尾根道の記録は「左大文字山 MTB」(2012年3月25日)の rk77273 さんのみ( https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-5604920.html )。 大文字山の上での移動(大文字山→兀山→鷲峯)は、現地に個人による誘導(道標類)があり、一般的なルートなので説明を省く。 4. 鷲ヶ峰南尾根道(大文字山の山地からの下山)〜原谷へ 鷲ヶ峰南尾根からの下山地点は、yjin さん等は、蓮華谷道の衣笠氷室町バス停付近に出ておられる様だ。わたしの足の長さより高い柵があって、わたしは出られなかった。ここへの下山は足の長い人向き。 「左大文字」(2022年12月7日)で sk-oike さんは蓮華谷道の大北山児童公園に出ておられる( https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-5134259.html )。児童公園なので子供が紛失しない様に周りは柵でおおわれている。奥の右側の壊れたゲートに出られたように見えるが、その少し下側にフェンスの破損個所、あるいは入口付近かも知れない。柵には数か所のゲートがあり、奥の右側のゲートは壊れているが、2箇所が針金やチェーンを使って固定されていて、解いたり付け直したりするのはかなり困難、あるいは手間がかかる。フェンスの破損個所は乗越えるのが面倒な感じ。 sayup18 さん、fu-tyan さんはゴルフ場の引き込み道から下山されている。 それ以外のルートは記録がないので、その中から、今日は歩き易さ優先として地理院地図のルートで下山した。その次の行先からすれば、ちょっと遠回りになってしまった。地理院地図のルートは最後の出口が判り難いが、かなり良い状態で、地図通りに完全に存在している。 鷲ヶ峰から鷲ヶ峰南尾根道へ入るはじめの方は山行記録がないが、このルートの一番歩き易い区間。古い林道に見えるのだがどこから来ていたのだろう。広くて目立つ道なのになぜ誰も通らないの? 大文字山の山地から下山後、原谷へは山越えの階段道を通った。遊歩道の様な感じだが、これは京都市道衣笠緯13号線。 5. 桃山への東ルート(登り) 今日の山行は歩き易い道を選んだ。しかし、この区間だけは歩き易いとは到底言えない。倒木や羊歯で難儀なルートと感じる方もありそうだ。 桃山に直接登るルートでは、歩き易いのは北東側から(東海自然歩道から)の1つ、南側の原谷弁財天(白龍大神)からの1つだろうか。この付近は、わたしにとっては未知の世界なので、他にもあるのかも知れない。 原谷弁財天ルートは南に出られるので下山に使う(実際は心変わりして別ルートで下山したが)として、登りは東側の原谷川(原谷を北に流れるメインの川)からのルートを考えた。 はっきり確認できる限りでは東側からの山行記録は1つしかなく、「大文字山(左)から桃山、吉兆寺山、澤山」で、2017年5月20日に Dr.Pepper さんが山行を記録されている( https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1142745.html )。林道(林道は初めの方だけだろう)入口からだが、写真のコメントに拠ればかなりの悪路であったようで、GPS軌跡も苦労をうかがわせる。 楽をしたいわたしは、その林道の北側の尾根から登る。やはり倒木は少なくはなく、それに羊歯もやや多いが、従来からのマーキングもあって、ルートはそこに既に存在していた。 どうも、溝道、獣道、林道、他ルートと合流後の裏道と、いろいろなルートを継ぎ合わせたルートの様で、道の状態はバラバラ。後半は北からの裏道と合流しているが、それまでの区間の方が歩き良かった。詳細は写真のコメント参照。 なお、「夏 26km-7H★鳴滝白砂北上→桃山→藪こぎ→大北山→浪切不動寺→宇多天皇陵→仁和寺88箇所霊場→P」で、2012年08月03日に、退会済みユーザーで「季節 Km」の見出しの方が原谷寄りの所に下山されている( https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-212402.html )が、道のない所を歩かれたような記述もあり、ルートが特定できなかった。 6. 桃山南尾根道(桃山からの下山) 一般的なルートで下った。ただし通行の多い『一旦西側の吉兆山(吉兆寺山、吉祥寺山)の方へ巻道を進み、途中から巻道で桃山南尾根に入るルート」は通らず、桃山から直接南に尾根を降りた。崖の上の巻道が苦手なわたしには、この方が歩き易い。 最後の方は現地で気が変わり、尾根道から巻道に入って原谷弁財天(白龍大神)に降りるルートではなく、そのまま尾根を下って常信寺方面へ向い、『常信寺への尾根ルート(地理院地図破線)から途中で巻道に分岐して、常信寺南方へ下山する』ルートで降りた。このルートが一番歩き易いと思う。原谷弁財天の情報も用意していたので、感想欄に投稿する。 その後、またまた気が変わり、金閣寺方面へはP215.7を経てお狐山(不思議不動院奥の社)へ下りた。 7. 原谷と原谷弁財天 登山に関係ないので感想欄に記入。 8. お狐山 お狐山は山頂の事ではなく、不思議不動院の管理している範囲を指すように思う。 後半は羊歯が多く、既存の道をお狐山に無理につないだような感じがするが、そこまでは近所の人が犬と散歩していそうな穏やかな道。 お狐山は「不思議不動院お狐山〜御室八十八ヶ所霊場〜雙ヶ岡」(2019年06月23日)で satsuki_ttj さんが歩いておられます( https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1904315.html )。説明などご参照ください。丸投げですみません。 |
写真
装備
個人装備 |
お金
長袖シャツ
長ズボン
縫付地下足袋12枚馳
お弁当(魚肉ソーセージ/お蜜柑)
携帯(スマホ)
カラー紐(PE)
ビニールテープ
標識テープ(リボン)
フェルトペン(名前ペン)
腹掛け
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感想
2. 紙屋川砂防ダム内住宅地
砂防ダム内なので当然建築は出来ず、不法占拠+違法建築になるのだろう。増水時には浸水被害も多く出ている。砂防ダムの建設労働者が現場付近に仮住まいし、そのまま居残ったと聞いている。ブログやウェブページにはこれとは異なった記述が多いが、最近のネット上の記事の内容はかなり出鱈目が多い。園芸で検索上位に表示されるサイトに、とんでもない出鱈目サイトがある。
わたしは危険だなどとは思いもつかなかったが、ウェブページを見ると、ここを通るのは危険だと言う考えもあるらしい。・・・いろいろ誤解や偏見がある様に感じるが。ご自身で判断して頂きたい。
先日ここを通った時、歩行器を押した初老のご婦人が超低速で前を歩いておられた。道は狭い所が多いので追い抜かずに距離を置いて後ろを歩いた。橋は住民の手作りらしく、工事現場などで見かけるようなパイプを組んで、鉄板がかぶせてある。太鼓橋の様になっているので、歩行器のご婦人が滑ったりされないか心配した。
経済的にも肉体的にも、わたしも母もなんと恵まれているのかと思った。とても切ない気分になったが、この社会の実情を知る機会になった。百聞は一見に如かず、なんだなぁ。
良い所に家を持つことが出来たら引っ越す方が多いだろうが、貧富の差が拡大し続けている現状では急には進まないだろう。これを書く前にウェブ検索してみたが、厳しい感覚で書いておられる方もある。住処にはカネが掛かるのでそれも尤なんだろう。しかしつつましい生活の現場を見てしまうと、わたしにはそんな事は言えない。ここで生まれてここで老いて行くご老人には、すこしでも穏やかに過ごしてほしいと思った。
7. 原谷と原谷弁財天
原谷の集落は文治2年(ほぼ1186年)に壇の浦の戦いに破れた平家落武者が住みつき開墾した。原谷弁財天も彼らが創建した。全部で四つの神社を創建しているので、往時はかなりの住民がいたのだろう。
一時は住民が次々と山を降り、住民の減少の為、明治以後に弁財天も大内山仁和寺(御室仁和寺)に遷座した。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)の秋、住民は5〜6世帯(資料により数字が異なる)だった。翌1948年(昭和23年)、洛北開拓農業協同組合(開拓農協)が設立され、満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊長前原関三郎を組合長として開拓計画を策定。敗戦に伴い大陸から引き揚げてきた満蒙開拓団(後期は満蒙開拓青少年義勇軍と言った)の元団員の18〜19世帯(資料により数字が異なる)が、原谷開拓団として10月12日に入植した。なお、1948年の国勢調査では19世帯 48人となっているので、原谷を去って国による不在地主からの開拓農地の買上げに応じた元住民があったのかも知れない。あるいは1947年秋の5〜6世帯は離れ離れに小屋掛けで住んでいたというので、ここに住民票のある正規の住宅ではなかったかも知れない。
昔の住民が祭っていた弁財天を復活させたいという住民の願いから、1951年(昭和26年)に弁財天を近隣の個人宅に迎え、1978年(昭和53年)に現在の社殿が新築され遷座した。
原谷弁財天はこのような経緯があり、当時からの住民には大切な氏神になっている。祭り前には随所が幟(のぼり)が立っていた。なお、白龍大神は弁財天の境内摂社。現在の原谷は住宅地化が進んで新住民が大多数を占めるに至っている。(弁財天神社の公式Instagramアカウント https://www.instagram.com/haradanibenzaiten.official/ )
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