奥多摩・高尾
神奈川県
最終更新:gezansya
基本情報
標高 | 400m |
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場所 | 北緯35度33分47秒, 東経139度09分12秒 |
「東海自然歩道」の案内板がある。
「尾崎城址」や「石砂山2.6km」など、標識多数。
伏馬田(別名:尾崎)城址がある山頂536mの西側緩斜面の山腹地一帯は尾崎原(オザキパッラ)という。
以下の文は地元「尾崎城跡保存会」のリーフレットの一部を抜粋し記したものである。
その昔、ここ菅井の尾崎原山頂(城山)には尾崎城(別名伏馬田城)があり、烽火台を兼た出城として津久井衆の尾崎掃部助が城主として守っていた。この事から「尾崎城」と呼ばれている。
北条氏(相模)は津久井を甲斐武田氏からの脅威を防ぎ止め、北武蔵進出への重要な拠点として確保する必要があった。そのため甲斐の国に隣接している尾崎城が西の砦として軍事的要衝の地であった。また、尾崎原は官や寺などがある大きな集落となっており、六つの街道が交差し、交通の要衝として大変栄えていた。また菅井は政治経済の重要な拠点であり、数多くの昔にちなんだ地名が残っている。
「尾崎城址」や「石砂山2.6km」など、標識多数。
伏馬田(別名:尾崎)城址がある山頂536mの西側緩斜面の山腹地一帯は尾崎原(オザキパッラ)という。
以下の文は地元「尾崎城跡保存会」のリーフレットの一部を抜粋し記したものである。
その昔、ここ菅井の尾崎原山頂(城山)には尾崎城(別名伏馬田城)があり、烽火台を兼た出城として津久井衆の尾崎掃部助が城主として守っていた。この事から「尾崎城」と呼ばれている。
北条氏(相模)は津久井を甲斐武田氏からの脅威を防ぎ止め、北武蔵進出への重要な拠点として確保する必要があった。そのため甲斐の国に隣接している尾崎城が西の砦として軍事的要衝の地であった。また、尾崎原は官や寺などがある大きな集落となっており、六つの街道が交差し、交通の要衝として大変栄えていた。また菅井は政治経済の重要な拠点であり、数多くの昔にちなんだ地名が残っている。
登山口 |
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