奥武蔵
能気神社(のうきじんじゃ)
埼玉県
最終更新:Yamaotoko7
基本情報
標高 | 160m |
---|---|
場所 | 北緯36度03分08秒, 東経139度13分13秒 |
能気神社
http://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/9420/
白石峠に源を持つ槻川(つきがわ)の流れと並行する一条の道は、粥煮田峠(かゆにたとうげ)・定峰峠(さだみねとうげ)を経て、秩父と信州・甲州を結んでいる。鎮座地安戸(やすど)は、この道の交通の要所に有り、その地名について『秩父志』には「山路峻坂(しゅんぱん)ノ入口ニテ、往還ノ人々苦難ナルコトユヘ此ニテ休憩セント」したことに由来すると記されている。また、東秩父村の中でも、御堂と共に古くから開けた集落であると云われ、当社付近の畑からは縄文中期の土器片や黒曜石(こくようせき)が出土している。 当社の境内は、槻川の支流である入山沢を遡行(そこう)した山裾にあり、社殿から南に目を転ずると、田畑や集落を一望することが出来る。口碑によれば、当社は、創建当時は個人の氏神として祀られていたが、根岸・高野・小林・篠沢・鷹野などの旧家が氏子となり、ついには安戸村を挙げて祀る社となるに至ったと伝えられる。 『新編武蔵風土記稿』には、「能氣明神社 在家にあり、所祭詳らかならず、村の鎮守なり、例祭九月十八日(中略)上品寺(じょうほんじ)持」と記されており、当時既に祭神が不明になっていたことがうかがわれる。明治になってからは誉田別命を祀るようになったが、これは地内に八幡跡という地名があり、古くは八幡様が祀られていたとの伝えに拠っている。 社殿の造営は、覆屋(おおいや)・拝殿は『明神宮建立帳』に安永3年(1774)12月再建と載るが、一間社流造杮(こけら)葺き本殿の建立年代は不明である。
http://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/9420/
白石峠に源を持つ槻川(つきがわ)の流れと並行する一条の道は、粥煮田峠(かゆにたとうげ)・定峰峠(さだみねとうげ)を経て、秩父と信州・甲州を結んでいる。鎮座地安戸(やすど)は、この道の交通の要所に有り、その地名について『秩父志』には「山路峻坂(しゅんぱん)ノ入口ニテ、往還ノ人々苦難ナルコトユヘ此ニテ休憩セント」したことに由来すると記されている。また、東秩父村の中でも、御堂と共に古くから開けた集落であると云われ、当社付近の畑からは縄文中期の土器片や黒曜石(こくようせき)が出土している。 当社の境内は、槻川の支流である入山沢を遡行(そこう)した山裾にあり、社殿から南に目を転ずると、田畑や集落を一望することが出来る。口碑によれば、当社は、創建当時は個人の氏神として祀られていたが、根岸・高野・小林・篠沢・鷹野などの旧家が氏子となり、ついには安戸村を挙げて祀る社となるに至ったと伝えられる。 『新編武蔵風土記稿』には、「能氣明神社 在家にあり、所祭詳らかならず、村の鎮守なり、例祭九月十八日(中略)上品寺(じょうほんじ)持」と記されており、当時既に祭神が不明になっていたことがうかがわれる。明治になってからは誉田別命を祀るようになったが、これは地内に八幡跡という地名があり、古くは八幡様が祀られていたとの伝えに拠っている。 社殿の造営は、覆屋(おおいや)・拝殿は『明神宮建立帳』に安永3年(1774)12月再建と載るが、一間社流造杮(こけら)葺き本殿の建立年代は不明である。
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