関東周辺やまなみ歩き
富士・御坂
村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)

最終更新:shin132
基本情報
場所 | 北緯35度15分40秒, 東経138度39分58秒 |
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火山の神である木花開夜姫(このはなさくやひめ)を祭神とする。
村山浅間神社は、かつては神仏習合の興法寺の一部であった。
興法寺は、大日堂、大棟梁権現社、村山浅間神社、さらに村山三坊をを含んでいたが、1868年の神仏分離令により、村山浅間神社は大日堂等と分離された。
平安時代の富士修験の祖である末代(富士)上人が富士山頂に大日寺を建て富士山修験道の基礎を築いた。その後鎌倉時代の1317年(文保元年)に、末代の流れを汲む頼尊が村山に興法寺を開いたと伝わる。
戦国今川氏の庇護を受けて勢力を拡大し、その後も豊臣秀吉、江戸幕府の大名から保護され、浅間本宮大社と勢力を拮抗させていた。
しかし、1707年に起こった宝永大噴火により、富士山村山口登山道含め興法寺の建築物が全壊すると村山口登山道の利用者は減少した。
特に、1868年の神仏分離令により山伏は還俗するという処置が取られ、村山修験は大きく衰退することとなった。
大棟梁権現社も廃されることとなり、場所を移して「富士大神社」として祀られることとなった。
1906年(明治39年)に新大宮口が開かれると村山口の利用者の減少が顕著となり、登山道は廃れていった。
2004年、畠堀操八氏らの活動により、ほぼ百年ぶりに村山古道が復活されて現在に至る。
その他境内には、静岡県天然記念物の千年杉や大銀杏がある。
村山浅間神社は、かつては神仏習合の興法寺の一部であった。
興法寺は、大日堂、大棟梁権現社、村山浅間神社、さらに村山三坊をを含んでいたが、1868年の神仏分離令により、村山浅間神社は大日堂等と分離された。
平安時代の富士修験の祖である末代(富士)上人が富士山頂に大日寺を建て富士山修験道の基礎を築いた。その後鎌倉時代の1317年(文保元年)に、末代の流れを汲む頼尊が村山に興法寺を開いたと伝わる。
戦国今川氏の庇護を受けて勢力を拡大し、その後も豊臣秀吉、江戸幕府の大名から保護され、浅間本宮大社と勢力を拮抗させていた。
しかし、1707年に起こった宝永大噴火により、富士山村山口登山道含め興法寺の建築物が全壊すると村山口登山道の利用者は減少した。
特に、1868年の神仏分離令により山伏は還俗するという処置が取られ、村山修験は大きく衰退することとなった。
大棟梁権現社も廃されることとなり、場所を移して「富士大神社」として祀られることとなった。
1906年(明治39年)に新大宮口が開かれると村山口の利用者の減少が顕著となり、登山道は廃れていった。
2004年、畠堀操八氏らの活動により、ほぼ百年ぶりに村山古道が復活されて現在に至る。
その他境内には、静岡県天然記念物の千年杉や大銀杏がある。
登山口 | |
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駐車場 | 神社西側の登山道入り口に数台。国469そばに広く新しい駐車場、昼間のみのようです。 |
トイレ | 社務所の裏側。案内所にきれいなトイレあり。 |