大峯奥駈道 〜吉野金峰神社から熊野本宮大社へ〜
![情報量の目安: S](https://yamareco.info/themes/bootstrap3/img/detail_level_S2.png)
- GPS
- --:--
- 距離
- ---km
- 登り
- ---m
- 下り
- ---m
コースタイム
- 山行
- 7:50
- 休憩
- 2:45
- 合計
- 10:35
- 山行
- 8:07
- 休憩
- 2:48
- 合計
- 10:55
- 山行
- 6:36
- 休憩
- 2:24
- 合計
- 9:00
- 山行
- 8:39
- 休憩
- 1:33
- 合計
- 10:12
- 山行
- 8:18
- 休憩
- 1:07
- 合計
- 9:25
- 山行
- 7:42
- 休憩
- 2:01
- 合計
- 9:43
- 山行
- 0:15
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 0:15
天候 | 4/23・24 快晴 4/25・26 晴れのち雷雨 4/27 晴れ 4/28 曇りのち雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス タクシー 自家用車
帰宅ルート:熊野本宮より奈良交通バスにて五条 近鉄にて五条から吉野 吉野駅からタクシーにて奥千本駐車場 |
コース状況/ 危険箇所等 |
五番関から太古の辻までは残雪多くルートが不明瞭な部分多数ありました 小笹の宿以外は水場が非常に少なく事前の情報取ることをお勧めします。 |
写真
感想
少し前まで、自分が大峯奥駈道を歩くことなどまずありえないと思っていた。
そりゃあ弥山だの、山上だの、大普賢だの、ピークハントすることくらいはあっても、
吉野山から熊野本宮大社までの94キロを通して歩くなどということは考えもしなかった。
歩き通してみよういう決意に至るきっかけはいろいろあった。
最初は完走することだけを目標に考えていたけれど、吉野の金峯山寺の田中利典宗務総長や熊野本宮大社の九鬼宮司のお話を聞く機会があり、もっと深くその内面にまで踏み込んでみたいという気持ちになった。そうして、大自然を畏敬の念の対象とし、修行の道場とされてきた大峯の山を歩いてみたいという気持ちは日増しに強くなっていった。
仕事を通じて国分寺の谷本和尚と親しくさせていただくようになったことも大きいし、
自分がお寺の生まれであることを、今頃になって意識するようになったことも少なからずある。
それにやっぱり山が好きだということ、そして山の素晴らしさを教えてくれた恩師がその山で亡くなられたこと、その時に、ただ普通に大峯奥駈道を歩くのではなく、無心になってやってみようと決心した気がする。
一日目 〜吉野から五番関を抜け山上ヶ岳へ〜
前日、仕事を早く切り上げて、家で夕食を済ませて一路吉野へ車を走らせた。年末から少しずつ進めて来た今回の準備にぬかりはなかった。これから一週間の山歩き。9日分の食糧や予備の着替え等々詰めたザックは24圓魃曚┐拭
数日前から久しぶりに味わった、山に向かう前の緊張感。普段なら、たとえバテたとしても歩ける自信はあったけど、未知の修験の道、やはりそのバテることへの緊張が少なからずあったのかもしれない。
10時頃に金峰神社の下にある奥千本駐車場に車を止め、朝の4時まで十分すぎるくらいの睡眠をとることができた。今回は吉野山の奥の金峰神社をスタートと決めた。会社から休みをもらえる日数にも限りがあり、吉野駅からのスタートだとかなり無理があったことが大きい。まだ太陽が昇る前の5時に出発。
役行者によって開かれた大峯奥駈道には75ヶ所の靡と呼ばれる拝所がある。1番目の熊野本宮大社から75番目の吉野の柳の宿へ向かうことは順峰と呼ばれ、吉野から熊野を目指すことは逆峰と呼ばれているが、現在は逆峰をたどる人が多い。
満開を少し過ぎたけれど、71番靡の金峰神社の桜はさすがに絵になる。ここでこれからの一週間の山歩きの無事を祈念しいよいよ出発。旧女人結界の石碑を過ぎ、しばらく行くと70番靡の愛染の宿に着くことになる。
杉の植林に覆われた起伏の少ない奥駈道を青根ヶ峰へと道を分けると一旦車道に出た。試み茶屋跡から四寸岩山への登りの山道に入って少しずつ高さを上げていく。頂上に立ってはじめて山上ヶ岳あたりまでの山並みを見ることができた。しかし目にすることができるのは、今日たった一日の行程だけの山並み。その先は、目にも見えぬ先のまた先・・・気が遠くなる気分になる。
四寸岩山の頂上を後に足摺の小屋を過ぎると、桜やタムシバの花がきれいに咲き乱れる中、再び山道に入るとすぐに69番靡の二蔵の宿の小屋に出た。ここで休憩と腹ごしらえをして、大天井ヶ岳への急登を行くことになる。
山道の横には一本レールのモノレールが頂上まで右に左についてくる。もちろん山仕事用のものなのだが、山上の宿坊の人たちは内緒でよく使うらしい。8人集まったら動いてくれる、別名「お助け道」というのだそうだ。かなりきつい登りを凌いだあとは、五番関までこれでもかというくらい下る。たどり着いたところは今も女人結界の門が立つ場所。ここから先、女性は入ることを今も許されていない。
五番関からは雪も出てくるようになり、標高も上がってきて、ブナの森が続く綺麗な道。特に今宿の跡付近の森の様子は素晴らしいものだった。
ブナの中を気持ちよく進んでいくと68番靡の浄心門がある洞辻茶屋にたどり着く。アーケードのようなつくりのお店の中を山道が通っている。そこで一服。
不動明王の大きな像が両方の入り口をしっかりと固めていた。陀羅助茶屋も洞辻茶屋とよく似ているが、勾配のきつい登り道の中に作られていておまけにカーブしている。ここでは大峰山寺の5月3日の戸開を前に既に準備で二人の方が入っておられた。
「ようお参り」山上での挨拶ではこうやって声をかけられる。大きなザックを見て「最後までかな?」とエールを頂く。
鐘掛岩までの急登がいよいよはじまる。日の当たらない急な斜面に、本来なら木道と階段がつけられているのだけど、今年は残雪がものすごく多くてずっと雪の斜面をステップ切りながら登っていく。滑ったら最後、上多古谷の底へとめどなく落ちていきそうなくらいの高度感だった。
屹立する岩峰群が目に入ってくるとすぐに西の覗、噂には聞いてはいたけど凄い高度差。ここから雪の量がまた一段と多くなって、等覚門から頂上まではほとんど雪道だった。
宿坊の建物を左に見下ろしながら、身なりを整え、汗を拭いて大峯山寺の境内に入る。
67番靡の山上ケ岳は10日後に戸開されるのが嘘みたいに静かで誰もいない。本堂に向かって両手を合わせていると、少し冷たい風に汗もひいた。
山上の頂上付近でテントを張るつもりだったけどやはり水がない。50分歩いた先にある小笹の宿の小屋に向かうことにする。
雪が多くて途中道が分からなくなることしばしば。無数の石垣が出てきてしばらくで赤いお堂の建つ小笹の宿に着いた。
避難小屋は三人が入ればいっぱい。先行の方がいて、後に来た人で満室になってしまった。夕方遅くになってさらに二人の方が到着して外でテントを張られていた。自分を含めた5人皆が熊野を目指すらしい。
小屋の中で夕食中に、今日の雪の多さと明日以降の雪の状況が話題になった。やはり鐘掛岩の雪の斜面の直登がかなり堪えているらしく明日からが不安だとのこと。お二人が弥山まで行かずに行者還までにしようという雰囲気に、聞いていて熊野まではもう諦めている様子。
その空気にどんどん引きずり込まれそうになってきたので水を汲みに外へ出た。戻ってきたらやはり、「明日どうされます?」と聞かれた。二日後に弥山に登って、川合に下山することで決まったらしい。お一人の方は東京からきて、那智まで目指す計画だったのに残念。
「僕は予定通り弥山まで行きたいと思っています、雪でダメなら行けたところでテントにします。」これでこの話は決着。今までの自分だったらこの空気に飲まれて妥協していたかもわからなかった。確かにそれだけ雪が多い。でも、だからこそ初心をここで曲げずやれるだけのことはやりたい。
妙にそんな気持ちを強くさせられた。この気持ちは最後まで折れることはなかった。
二日目 〜優しさと厳しさとの間に翻弄されて弥山まで〜
夜中の2時ごろだったと思う。寒さで眠れず、トイレで外に出た。恐ろしいほどの満天の星空。放射冷却で気温がものすごく下がっていた。自分は4時に起きて準備をしたけれど、あのお二人はずっと眠っておられた。
今日は水場が期待できない。目的地の弥山も水はないから、行動分と明日の朝、そして次の水場までに使う水をここで汲んでいかざるを得ない。6ℓの水を入れたらザックが煙突になってしまった。昨日は2ℓしか担がなかったからザックは多分27垓瓩い呂此
出てくるときにザックの重さなんか計らなきゃよかった。この重さを言い訳にしてしまいそうで。
スタートから道が分からない。それだけ雪が多い、おまけにツルツル。2万5千図をコンパスにあてながら、テープも見ながら、時々お尻くらいまで潜る雪に悪戦苦闘。これは弥山なんて無理かもそんな思いが頭の中をよぎる。
竜ヶ岳を巻いたところからゆっくり下っていくと雪も少なくなる。ホッとしたところで女人結界のある65番靡の阿弥陀が森に到着。ゆるく登り返すと、大普賢の巨体が一望できる64番靡の脇の宿。大普賢岳からの尾根をたどった先には遥か彼方に大台ケ原。大きな山体が朝日に美しい。
明王ヶ岳を過ぎるとまた雪が増えてきた。経筥岩へ行きたかったが、雪で所在が全く分からず諦めた。諦めたはいいけど小普賢岳へのルートも尾根が広すぎてどこを取るのかわからず藪をこぐ。ザックの重さがこの日一番肩にずしりと感じたところだった。
ここからは標高こそ高いところを歩くけど、南北に続く稜線は日当たりがいいせいか、雪はほとんど溶けてしまっていて、大きく見える稲村ヶ岳を横目に、普通に奥駈道を歩くことができた。
少しペースを上げないと。そう思いながらも七曜岳を越えるまでの岩稜のアップダウンはザックの重さ大きさに阻まれてさらに時間を使ってしまう結果になった。
63番靡の大普賢岳は和佐又からの人がいるかもと期待したけど誰もいない。61番靡の弥勒岳、60番靡の稚児泊り、59番靡の七曜岳と岩場鎖場の連続の中にある一息つけるところだった。
どこの靡にも奥駈道の修行を実践されている寺院の奉納木札がたくさん置かれている。古来の修験業の姿をこうして垣間見ることができるのが不思議な気持ちにさせてくれる。
七曜岳を過ぎると一転して穏やかなブナの巨木の別天地を歩くことになる。前方に58番靡のある行者還岳の丸くて大きな盛り上がりを見ながら遅れている時間を取り戻しにかかる。地図では行者還岳を踏んで越えられるようになっていたが、どうやら奥駈道は東側を巻いて頂上はピストン。その巻道に入るや否やまたまた荒々しい岩場の厳しいルート。かなり疲れを感じるようになって見上げたら行者還小屋が見えた。小屋の裏手に聳え立つ岩壁がまさしく大峯の稜線。優しい顔と厳しい顔の両方を持つこの山のその凄さをあらためて感じてしまった。
行者還小屋はログハウスの作りで広く清潔な小屋。こんなところでゆっくりと一泊を過ごしたいもの。小笹の小屋で一緒だった二人はここまで来るのだろうか。台高と雰囲気がよく似たブナの稜線を一ノ多和に向けて急ぐ。ゆっくりのんびりと歩きたい、そんな気持ちにさせる綺麗な稜線がどこまでも続く。
明け方はるか遠くに見えていた弥山がすぐそこ、手の届くところまで近づいてきた。57番靡の一ノ多和。大峯の山は峠や分岐に当たるところを多和とか辻という言葉で呼ぶことが多い。ここにある避難小屋はほぼ倒壊して使えない。その横に樹木に隠れてひっそりと行場を示す木柱が立っていた。ここから奥駈道は向きを西へ変えて56番靡石休宿(弁天の森)、55番靡の講婆世宿(聖宝の宿)をたどってゆっくりと登っていく。
稜線が東西を向いただけで雪の量がぐんと増える。またペースが落ちる。行者還トンネルから弥山を往復する登山者と何人かすれ違った。皆日帰り。何人かに避難小屋の状況や水が取れるかを聞いたけど分かる人はいなかった。
聖宝の宿付近は広い大地になった場所だけど、弥山の大きな山の陰で暗い雰囲気。いよいよここから弥山へ標高差300mの登りがはじまる。雪と岩稜、数えきれないアップダウンに食い込む重たいザック、取り付きから足が前に進まない。
雪は多いけど登山者の往来が多いこの道はトレースもあって道を外す心配はなかった。ゆっくりでも一歩一歩、休まずに足を進め1時間半かけてようやく弥山小屋まで登りきることができた。
54番靡の弥山はその頂上に天川大弁財天社の奥宮の弥山神社が祀られている。ここからは隣の大峯最高峰の八経ヶ岳が近い。その向こうには釈迦ヶ岳も見ることができた。
小屋の御主人が、26日からの小屋開けの準備で既に入られていた。避難小屋を使わせていただく了解を得て中で食事の準備をしていたら、二人の登山者が入ってきた。昨日小笹でテントを張ったお二人だった。ひとりは明日川合へ下山するとのこと。もう一人の方は暗くて翌朝まで顔をよく見なかったけど熊野まで目指すとのこと。この先熊野まで、この方が心強い存在になるとはこのときはまだ思ってもいなかった。今年で奥駈道5回目、うち過去3回完走を果たされている御年70のKさん。
経験豊富なKさんに、この日の夜まず聞いたことはやはり水場のことだった。一日に歩く距離、時間とも長いため行動中に飲んでしまう量が多くて食事が終わった時には3ℓを切っていた。明日の朝と、行動中の水、次の水場は楊枝の宿から下ったところとのことだった。
三日目 〜残雪の中釈迦ヶ岳を目指して〜
避難小屋といえどもとにかく寒かった。頭の先までシュラフに入り、備え付けてあった毛布も借りたけれど、寒さで何度も目が覚めた。
弥山神社の鳥居は三分の一が雪に埋まっていた。今日の行程は6時間くらい。三日目ともなると体にも疲れを感じてきて丁度いいと思っていた。
とにかく水が心配だった。下調べでは八経ヶ岳との鞍部の52番靡でもある古今宿で取れるはずだったが、深い雪でその場所さえもわからず、もちろん水なんて全く流れていなかった。今日の目的地の深仙の宿の水場は涸れていることもしばしばで2ℓ汲むのに30分かかることもあると聞いていた。
オオヤマレンゲの保護柵の中に入り八経ヶ岳を登るも、こんなメインルートですら道を時々外してしまう。途中で53番靡の頂仙岳を遠くに見ることができる遥拝の石碑。それを過ぎたら大峯最高峰の51番靡の八経ヶ岳の頂上に立った。
足元には白川又川の深い谷、北を見れば歩いてきた大普賢岳から弥山の山並み。もうすでに山上ヶ岳や稲村ヶ岳は弥山の陰で見ることができない。最高峰からの景色を堪能して隣の明星ヶ岳に向かう。
それにしても雪が多くて先に進むルートをよく見失う。川合へ下るといわれていた方も明星ヶ岳まで行くのに右往左往しておられた。
50番靡の明星ヶ岳はルートから少し外れてその頂に立つ。
トウヒ?の立ち枯れが目立つ。台高のそれよりも現状は厳しいような気がする。気候のせいなのか、シカの食害なのか、それともそこを歩く人間の責任なのか。山が荒れている。Kさんは先に行ってしまったようで、クマ除けの鈴の音もいつしか聞こえなくなってしまった。
49番靡の菊の窟と48番靡禅師の森はその場所が定かではなくなっているが、禅師の森の付近には奉納木札がたくさん置かれていた。ここあたりから奥駈道は大峯の稜線の西を巻くようになる。深い樹林の中の道は雪に埋もれて遅々として前へ進まない。倒木をまたいだりくぐったり、雪に足を取られて滑って落ちてしまったりと、疲れが来ている体を一層消耗させてしまって、肩で大きな息を繰り返してしまう。
46番靡の五鈷の峰も巻いていたけど、ザックを下して気分転換かねて訪ねた。でもそこは大きな岩がうっそうとした樹林の中にあるだけで、訪れる人も少ない感じだった。
再びブナの稜線になり ホッと一息。稜線の地形が船窪に変化してきたらしばらくで、その名の通り46番靡の舟ノ多和に着いた。残雪とブナとバイケイソウが最高の別天地。ザックを下してしばしの休憩を取り、行動食をおなか一杯に溜め込んだ。
荷物を軽くするために今回は食料もかなり軽量化した。だから食事の量も決して多いとは言えずなんとなく常に空腹感がある。 大きな登り返しがある前には行動食で空腹感をなくして前に進む。 そんなことを繰り返しながらここまでなんとか歩いてきた。
しばらく緊張感がほぐれるブナの道をのんびりと歩みを進める。厳しさと優しさが極端に入れ替わる奥駈道、楊枝の森を東から巻きながら下ってようやく44番靡の楊枝の宿に着いた。
ログハウスの小屋に入ってザックの中の水を見たらもうほとんどなくなっていた。ここから5分ルートを外れた所に水場がある。滔々と流れる様子を想像していたけど細いパイプから糸のような流れが出ているだけだった。それでもこれでまた水の心配からしばらく解放される。それだけでうれしかった。
小屋に戻ってパッキングをしていたらクマ除けの鈴の音が聞こえて来た。楊枝の森からKさんが下ってきていた。てっきり先に行っていると思っていたら、やっぱり八経ヶ岳の付近でルートを外してしまい、いったん弥山のほうに戻って稜線を忠実に歩いて八経、明星と歩いて来たらしい。それだけ今回の雪には苦労をさせられている。体力ももうぎりぎりのところまで来ていた。
仏生ヶ岳への大きな尾根を行く途中に45番靡の七面岳の遥拝の石碑。この七面岳、南側に200mくらいのほぼ垂直の岩壁を宇無の川に落としていて迫力が凄い。
43番靡の仏性ヶ岳を左に見ながら奥駈道はまた西側を巻くようになる。孔雀岳までも雪と倒木に阻まれて思うように進まない。
その時、雪が積もった倒木に気が付かずに両足とも踏み抜いてしまった。足が地面に届かず宙ぶらりん。ザックが引っかかってなかったら胸くらいまで落ちていたかもわからない。これを抜けだすのに力を絞り出す。釈迦ヶ岳はまだまだまだ遠い。
それでも何とか42番靡の孔雀岳を越えて奥駈道はいよいよ両部分の地へ入っていく。小さなアップダウンを繰り返して、急峻な岩稜の道へと変わっていく。大きな岩を右から回り込もうとしたその足元に無数の木札が置かれた蔵王権現が姿を現す。やっと両部分に着いた。この先奥駈道は金剛界から胎蔵界に入っていく。大峯の山はそれ自体が大きな曼荼羅なのだ。
両部分から橡ノ鼻の岩峰群を過ぎていよいよ釈迦ヶ岳への150mあまりの登り。岩の間を縫うように奥駈道が続いているけど、途中から深い雪でついに道が消える。
目もくらむような急峻な灌木の斜面をステップを切って登るのだけど、楽なわけがない。時々出てくる鎖やロープにも頼って息も絶え絶えに40番靡の釈迦ヶ岳の頂上に立った。
残念ながら少し前から濃いガスの中に入ってしまい、展望は全く望めなかった。頂上に鎮座される釈迦如来。修行から悟りを開いた苦痛の表情とは違い、よくここまで歩いてきたと、迎え入れてくれるような柔和な顔をされている。今日はKさん以外誰とも会わなかった、ここもひとりだった。
楊枝の小屋で新宮山彦グループの水マップを見て千丈平は絶対に水が涸れないとの情報から、ここから奥駈道を外れて千丈平へ下ることにした。ガスが濃くなってきて雷も鳴りだした。
夏場はテントで賑わうらしい千丈平も誰もいない。見つけた水場は楊枝のそれよりも心細い。6ℓを満タンにするのに15分以上かかった。
また重たくなったザックを担いで、今日の予定地の深仙の宿へのトラバースルートを行く。釈迦から稜線伝いの奥駈道と合流するところでKさんも下って来られた。
「全然休養日にならなかったですね」そう言って二人で笑って話しているけれど、考えてみればKさんは70才。もの凄いパワーと忍耐力。Kさんが役行者に見えてくる。
宿泊地の深仙の宿は38番靡にもあたるところ。痛みが進んだ避難小屋なのでテントのつもりだったけど雷がひどくて中で泊まることにした。
熊野からこの日で5日目という京都からの方が一人入られていた。潅頂堂というお堂にお参りをするのに扉を開けると役行者の像が祀られていて護摩ができるようになっている。おそらく大峯でも一番深いところにあたるこの場所で護摩を焚いて何日も修行をされる方が今もいらっしゃるのだ。
四日目 〜南奥駈道へ太古の森を行く〜
夜は三人で山の話で盛り上がった。Kさんは山岳部出身とのこと。京都からの人は43才で山をはじめてまだ5年ということだが、山への思いや魅力を熱く語るその目は凄く輝いていた。
今日も朝から文句なしの快晴。東の空が明け始めるその上に月が綺麗に浮かんでいる。
四日目にしてなんとなく体が慣れて来たのかものすごく軽く感じる。だけども今日の行程はコース中一番のロングルート。いつも以上に早出をした。
深仙の宿のすぐ近くに37番靡の聖天の森と36番靡の五角仙があるのだけどよくわからなかった。35番靡大日岳でちょうど日の出を迎える。南奥駈道の山並みが遥か彼方まで続いている。
大日岳を過ぎて鞍部まで下るとそこが太古の辻。
「これより南奥駈道」と書かれた大きな道標の下にはじめて見る熊野本宮大社の文字。
45キロは余分だけど。逆峰修行の場合はここから前鬼にいったん下ることになるけど、さすがそれはできず先へ急ぐ。
蘇莫岳の32番靡、天狗岳、27番靡の奥守岳と昨日とは打って変わって雪のない初春のブナの稜線を行く。南奥駈道は今までとは違って忠実に稜線上を歩くことが多く、その分アップダウンはきつくなってくる。
嫁越峠へぐんぐん下って26番靡のある子守岳(地蔵岳)への登り返し。汗が止まらない。
どの頂上も大きなブナの木が茂っていて展望が効くところは少ない。時々今日の目的地の行仙岳の電波塔がひときわ大きく見え隠れするのだけれど、本当にあの山を今日越えられるのかと心配になってくる。
昨日の夜の小屋でKさんが話していた。「ただただ無心に歩きさえすればゴールにたどり着かない山はないのですよ。」と。当たり前のこと言われるなあってその時は聞いていたけど、それを実践するのは難しいし苦しい。
地蔵岳で休憩をしていたらKさんが追いついて来られた。思えばKさんも苦しいはずなのに、いつも笑ってらっしゃる。何かを達観されたようなその笑顔に、「息子のような年の差の自分が顔をゆがませてどうするのだ。」と、我に返って、ゆっくりと一歩一歩また行仙岳に向かって歩き始めた。
25番靡の般若岳から拝み返しの宿までまた下り、24番靡の涅槃岳へ登り返す。高度を徐々に下げていくと、山の森もさらに深くなる。23番靡の乾光門(証誠無漏岳)を抜けて阿須迦利岳の登りは久しぶりに鎖場が出てくる。それも束の間でそのあとは22番靡持経の宿へ気が遠くなるほどの下りが続いた。
22番靡、持経の宿で久しぶりに車道に出た。池郷林道だ。今日もほとんど水を使い果たしてしまっていたので、小屋の汲み置きの水を頂くことにした。
御礼ではないけど、少しばかりのお金を箱に入れて山桜が綺麗なこの宿でしばらく休憩を取った。
さらに深い山の中へ入っていくような感じになる。21番靡の平治の宿までは巨木の森の中。ブナも立山で見るような大きい木がたくさんある。まさに太古の森だ。時々シカやフクロウの鳴き声が耳に入ってくる。
転法輪岳、倶利伽羅岳は更に鬱蒼とした樹林となってゆっくりと20番靡の怒田の宿へ向かい下っていく。
国道425号線が急な斜面にへばりつくようにつけられている。あの道路からいつも見ていた奥駈道の稜線はこんなにも深い森の中だったのだと知った。
長かった今日の道も行仙岳への最後の登りで終わりになる。が、しかし、この登りに残っていた力を全部捧げざるを得ないほど堪える登りだった。
頂上でKさんが待っていてくれた。19番靡の行仙岳。遠い所からも頂上の電波塔を今日はずっと見ながらやっとの思いでたどり着いて感無量。いろんな話をKさんとしているうちに、今日も濃いガスに包まれてしまう。
宿泊地の行仙小屋へはただただ下るだけ。雷も鳴ってきて急ぐことにする。いっぱいになるといけないと思い予約を入れておいたけどKさんと自分の結局二人だけだった。
大きくて、清潔で贅沢すぎると感じてしまうほどの行仙小屋。新宮山彦グループの南奥駈道の整備に、頭が下がる。新鮮な汲み置きの水もあり、恐縮しながらも使わせていただく。明日は目的地の玉置神社まで全く水が望めない。
四日間で雑になっていた荷物をもう一度綺麗に作り直してラジオを聞きながら夕食。明日ももう一日天気が良さそう。
五日目 〜いよいよ奥駈道も後半、すっかり初夏の稜線を玉置神社まで〜
4時に起きてガラス越しに外を見ると、昨日からのガスがそのまままとわりついている。どおりで一晩中雫がぽたぽたと落ちる音が聞こえていたわだ。
「もうあと少し。」そんなことを僕が呟いたのを聞いてKさんが、「初めてだとそう思うよね」って。でもまだまだ先は長い。ガスに包まれて天気は心配だったが今日も安定しているとラジオが言う。
一足先に小屋を出て、電源開発の送電線を左に見ながら笠捨山の鞍部へ下っていく。今日は朝一から笠捨山の急な登りがはじまる。ザックが軽くなってきたせいなのか、日を追うごとに体も軽くどこも痛みもない。しんどいと聞いていたこの登りもあっという間に頂上へ。
18番靡の笠捨山の頂上は、立合川を詰めたところでもある。今年の夏はぜひとも昨夏行けなかったこの立合川の沢へトライしたいと思っている。Kさんも若い頃は大峯の沢によくわらじを履いて来たらしい。時代の違いを感じつつも沢登りの話で盛り上がる。
奥駈道はこの笠捨山から進路を西に90度変えて、槍ヶ岳の鞍部へと底なしのように下っていく。どれだけ下ったかわからないくらい下るとガスも晴れてスカッとする。スカッとしたのも束の間で、周りは久しぶりに見る暗い桧の植林帯。葛川の集落にも近いこの付近は人の出入りが多いようだ。
17番靡の槍ヶ岳はその名前とは正反対に知らない間に通り過ぎてしまっていた。
目の前にツンととがった地蔵岳のピークが顔を見せ始める。
今日のこの地蔵岳を越えるのが大きなザックを担いでのポイントとのこと。シャクナゲの灌木と岩稜が続く斜面を器用に奥駈道はつけられている。けれどもザックが灌木に引っかかってかなり苦労を強いられた。鎖やロープが常に張られて結構緊張もする。
着いた地蔵岳の頂上は狭くてそのまま通過、すぐに6mの垂直な岩壁の上に立つ。鎖が二つかけてあって、ひとつはザック用で一つは人間用なのだとか。ザックはそのまま背負って下りはしたけど、掛ける足場が少なくて危ないところ。周りを見てもそれでもここしか通り抜けるいい場所は他にはなかった。
想像はしていたけど地蔵岳を越えるのに相当な時間がかかった。16番靡の四阿の宿でようやくザックを下すことができた。ここで再び南に進路を変えて下っていく。
菊が池という15番靡は所在が分からず気が付いたら14番靡の拝返しに来ていた。体が軽いと思っていても実際に歩いていると、蓄積されてきた疲れが正直に出てくる。13番靡の香精山でもまたザックを下して少し長めの休憩を取ってしまった。
風が暖かい。今までの風とは全然違う。もうかなり低いところまで下ってきている。どこからかわからないけど、チェーンソーの唸る音がひっきりなしに聞こえても来る。奥駈道も里山といえるような場所までやってきたのだろう。
貝吹之野、貝吹金剛を過ぎるとさらに下る。気が遠くなるような感覚に陥る。右下に建物が見えた。赤と白の花がたくさん咲いている21世紀の森の公園で、観光客が歩いている。
水場の道標があったけどそれはこの公園へ行きなさいというものだった。12番靡の古屋の宿、11番靡の如意宝珠岳を抜けて奥駈道は林道に出た。ここからの道は玉置神社まで林道と付かず外れずで、ゆるい上り坂を進んでいく。
時々観光客か玉置神社の参拝の人なのか車とすれ違う。そのたびにスピードを落として珍しいものでも見るかのように観察されてしまう。多分日にも焼けて髭もかなり伸びているだろう。でももう五日も自分の顔を見ていない。体が臭いのだけはよく分かっているけれど。
花折塚からは植林とはいえ立派な杉の樹林の中を行く。明治の20年代に十津川村の人たちによって植林された杉が今も大切に管理されているらしい。
カツエ坂に入っていよいよ玉置山までの最後の登り。ハイカーや観光客の人とも何人かすれ違い、Kさん以外の人間を久しぶりに見た気がする。
10番靡、玉置神社についてまずは水の補給。今日は神社の駐車場でテントを張る予定。しかしいつもたくさん出ている水がほとんど出ていない。神社に聞いたらここ最近水涸れが続いているとのこと、水場はここしかない。神社にお願いしても水を分けてくれず、仕方なく手洗い場に溜まっていた水でなんとか6ℓ確保した。見た目は綺麗だけど中身はどうなのか?しかし全部煮沸するほどの燃料ももうない。
駐車場に来て一番奥の日陰にKさんと並んでテントを張った。鳥居の前にある小さな売店。ここでペットボトルのジュースとうどん、そしてこんにゃくのおでんを一気にお腹に入れた。
この売店のおじさんが熱い。玉置神社と十津川村をこよなく愛しいろんなお話を聞かせていただいた。そして何よりもうれしかったのは、観光客でも参拝客でもなく、奥駈道を歩いてきた人を一番大切にしてくれる。汚くて汗臭いKさんと僕をお店の中に入れてくれて注文していないものまでどんどん出してくれる。
昨日も青岸渡寺の奥駈道の春峰でたくさんの人が熊野から登ってこられた話をしていただいた。
その中にマイミクさんがいらっしゃったことを下山してから知ることになるのだが。
Kさんは無類のお酒好き。缶ビールを何本も空けた後におじさんから売っていない焼酎まで御馳走になって酔っ払いオヤジ状態。僕も勧められたけど、今回の奥駈道は国分寺の谷本和尚から白衣をお接待いただいて、各靡や要所で心経を上げながら精進して熊野を目指していることもあって泣く泣くそれを断った。
「ええ、ええ。嫌でも明日は熊野や、下りてから精進落とししたらそれでええ」
「それでも飲みたかったら玉置神社のお神酒飲みに行くか?あれはおさがりや問題なしや!」いいこと言ってくれる。その言葉だけで十分だった。最後にはテントしまってここで寝て行けとまで言ってくれる。さすがにそれはダメだと断ったら最後に、「お前ら水足りてるんか?なかったらどんだけでも持って行け」って。その言葉にはさすがに今回水に苦労しているだけあってウルッときてしまった。
明日最後の一日には十分すぎるくらいの水を頂いて、果無山脈に沈む太陽を見送ってテントに入った。どう見ても明日の天気は下り坂。でもここまで来たら帰る道は奥駈道しかない。
そう考えたら気持ちも軽くなって朝までぐっすりと、久しぶりに熟睡感のある眠りだった。
六日目 〜熊野川とともに大斎原を目指す最終日〜
明らかに天気が悪くなってきていた。玉置神社の駐車場は濃いガスで霧雨も降っている。正面に見えるこれから向かう大森山も上半分が雲の中。売店で買った目ハリ寿司と味噌汁を作って5時に出発境内へと続く参道を進み、本殿を下から見上げて玉置神社を後にして、本宮辻へ下る。
奥駈道もここまで来ると周りはほとんどが植林になってくる。9番靡の水呑の宿はその場所が特定されていないけど、その付近へ向かう道が分かれている。そこを過ぎてからは大森山への急登がはじまる。登りきるまで杉の植林の中、雨は止んで昨日までカラカラだったのがジメっとした空気に代わって汗が止まらない。
大森山は靡にはなっていないけれど、たくさんの奉納木札が置かれていた。天気もしばらくは持ちそう。空が明るくなって時々日も差してくる。ここまで来たらなんとか合羽を使わずに熊野本宮大社まで行きたいもの。
ロープがつけられた急な道を延々と下っていく。六日間数え切れないアップダウンを繰り返して、ここにきてつま先と踝が痛み始める。8番靡の岸の宿でザックを下し、靴ひもを少し緩めに結びなおして五大尊岳へ登り返した。
7番靡になる五大尊岳は狭い山頂に比較的新しい不動明王が祀られている。何年か前に台座だけを残して姿を消してしまったと説明書きが加えられていた。
靡の数もいつの間にか一桁になっている。熊野本宮大社まで10キロの道標。スタートが90キロを越えていたことを考えるとよく歩いてきたと今日までの六日間を懐かしく思い出した。
長い長い下りを終えたところが6番靡の金剛多和。相当古い役行者の石像が石を組んで作られた祠に安置されている。
桜が綺麗だった金峰神社の美しい社殿からはじまった靡も、山の奥に進むにつれて、それが石像になり、石標になり、最後には目の前にある大自然が崇拝の対象に変化していく。そして今また熊野本宮大社に近づくことで、石像や祠が増えてくる。
すべては自然から生まれ、また自然に還っていく、儚さに対する日本人の独特の感性を体験できるのがこの奥駈道なのかもわからない。
雲が低くなってきていよいよ天気が怪しくなってきた。5番靡の大黒天神岳を目前にいきなり土砂降りの雨に急いで合羽を着た。山の天気はいつ来てもよくわからない。
山在峠の手間、果無山脈をバックに熊野川が大きく蛇行する場所でまた雨が上がった。ここからの景色をカメラで撮りたかった。
本宮まで本当にもう少し。
4番靡の吹越山を過ぎて、七越山まではほぼ平坦な奥駈道。早く降りたい気持ちと、ついに終わってしまう気持ちとが自分でもよくわからない。気持ちが折れることなくここまで歩き通せたことが素直に嬉しい。足の痛みは、引きずらないと歩けないくらいになってしまったけどそれもまた気分がいい。
七越山の手前で足元に大斎原が見下ろせる大地に出た。6日前の吉野を出発したことがずいぶん昔のように思えてくる。雨も完全に上がった。まずは大峯の山が熊野川に没する備崎に降り立たなければ。
七越峰から下りきってまた車道に出た、備崎はもう目の前のはず。もう登り返しはないとタカをくくっていたらまだ登り返す。一回降りてもうないだろうと思っていたらまた登る。結局三回も繰り返し。最後まで奥駈道は修行の道だった。
ガラガラの急な坂道が終わった目の前に熊野川の広い河原が広がっていた。最後はKさんと一緒にその河原に立つことができた。 Kさんはそのまま請川の予約してある宿に向かうということでここで分かれることになった。Kさんがいなかったらもしかしたらここに来ることができなかったかもわからない。また大峯の山で会いましょうと約束をしてKさんを見送った。
そして自分はできれば備崎橋を渡らずに、熊野川で水垢離をして大斎原に入りたい。これは吉野を出発した時から強く思っていたことだった。川の流れの岸辺に沿って歩いて渡れそうな場所を探す。
大峯山脈の末端備崎と大斎原の末端がちょうどまっすぐに結ばれたあたりの広い川の瀬が渡れそう。ズボンをまくりあげてしまえば濡れることはなかったけど、やっぱり熊野川の水は冷たかった。渡りきった正面には大斎原へ入る小道があり、それをたどり、いよいよ石で造られた小祠の前に立つことができた。
1番靡の熊野本宮大社が最終の目的地ではあるのだけれど、自分にとってはこの大斎原のこの場所がゴールと同じ。熊野本宮大社の九鬼宮司も本宮に参拝する前に大斎原をお参りしてほしいといわれるくらい、ここは今でも神聖な場所なのだ。
祠の前で白衣を整え、汗を拭いて最後の心経を上げさせていただく。どうかなって思ったけど最後はやっぱりちょっと涙が出た。本宮大社は明日の朝に参拝することにして、予約しておいた宿へ向かった。
七日目 〜熊野本宮大社から吉野金峯山寺へバスの旅〜
八木行きのバスが出る前に宿から1番靡の熊野本宮大社へ参拝に行った。
長い階段を登りきって社務所の前を歩いていたら、ふらりと九鬼宮司がジャージ姿で歩かれているのを発見。津でのフォーラムでお世話になったお礼と奥駈道を歩けた報告をさせていただいたら、「おめでとうございます」と言われて恐縮してしまった。
御朱印を書いてもらっている間、道中のいろんな話をさせて頂けた。帰り際に春の大祭に向けて書かれた宮司の一筆「挑」のキーホルダーなど、お土産までいただき本宮を後にした。思いがけない出会いにこれもご縁と感謝。
十津川を抜けるバスの外は土砂降りの雨。何時間乗ったかわからないけど、五条でJRに乗り換え、近鉄を乗り継いで吉野の駅に着いたのは15時頃だった。
今から熊野を目指すという単独の男性と金峰神社までタクシーを相乗りした。
金峰神社にお参りをして、72番靡の水分神社に参拝し、最後は金峯山寺の蔵王堂へ向かったのは言うまでもなく。秘仏蔵王権現の御開帳が行われ、さらに堂内では能の奉納が行われて荘厳な雰囲気。そのあと、蔵王権現の前に正座し、心経を上げさせてもらった。蔵王権現の大きさ、素晴らしさに圧倒され、身が引き締まる思いだ。
最後に御朱印を書いていただいていたら、なんと、田中利典宗務総長が後ろから歩いてこられるではないか。思わず声をかけてしまった。九鬼宮司といい、利典さんといい、今日はなんて良い日だと、自分の強運さに驚く。上の方はどうでしたか?と反対に質問されて場が和んだ。「奥駈達成おめでとう」と言って頂いた言葉に、感極まり返す声が詰まってしまった。
一緒に蔵王権現を見上げて、写真ではわからないでしょうと笑って話される宗務総長の笑顔に、楽ではなかった大峯奥駈道の六日間を重ね、歩き切れたという達成感がこの時はじめてこみあげてきたような気がした。
金峯山寺を後にする頃にはすでに空には夕闇が迫り、止んでいたはずの雨もまた強く降ってきた。
最後に車を吉野川に進めて、75番靡の柳の宿へ立ち寄り今回の大峯奥駈道の山旅を終えた。
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する