赤城・榛名・荒船
山ノ上碑(やまのうえのひ)

最終更新:higashino9
基本情報
場所 | 北緯36度16分37秒, 東経139度01分40秒 |
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トイレ | |
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水場 |
山の解説 - [出典:Wikipedia]
山ノ上碑(やまのうえのひ / やまのうえひ、山上碑。日本国内で完全な形で残るものとしては最古の石碑とされる。
高さ111センチメートル、幅47センチメートル、厚さ52センチメートルで、輝石安山岩に縦4行53文字が刻まれている。文字は楷書体の丸彫りで刻まれているが、古い隷書体の特徴も見られる。このような自然石を用いた碑は古代中国には例がないが、新羅には・南山新城碑のように多数の例があり、渡来系文化の影響と考えられている。
碑文に「辛己(巳)歳集月三日記」とあり、「辛巳年」にあたる天武天皇10年(681年)の建碑とされる。放光寺の僧侶・長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめのとじ)のために墳墓の山ノ上古墳の近傍に建てたものとみられる。かつては山ノ上碑と山ノ上古墳の築造は同時期とされ、古墳築造年代の基準になる資料とみられたが、現在では古墳の築造が先行していると考えられている。
碑文はすべて漢字だが、日本語の語順で読むことができ、日本独自の漢字の使用法を知る手掛かりとしても貴重である。このような語順の文章は長屋王邸出土木簡にも見え、古代中央・地方において用いられた文体とみてよい。
江戸時代、寛政年間の松平定信『集古十種』では「山名村観音堂碑」、文政5年(1818年)の狩谷棭斎『古京遺文』では「山名村碑」と称している。地元では古墳の前に立っていた御堂のそばの松の木の根元に建立されていた、あるいは丘陵の下に移されていたという伝承があるが、1875年(明治8年)頃には丘陵の石段を登り切った右側に立っていたとされる。
1884年(明治17年)に県令の楫取素彦によって公有化され、位置が確定し、台石と覆屋(おおいや)が設けられた。なお、1992年(平成4年)に鉄筋コンクリート製覆屋が新築された。
1921年(大正10年)3月3日に「山上碑及び古墳」の名称で国の史跡に指定され、1954年(昭和29年)3月20日には国の特別史跡に指定されている。
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