新・花の百名山
四国
愛媛県
最終更新:ベルクハイル
基本情報
標高 | 1300m |
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場所 | 北緯33度51分44秒, 東経133度19分32秒 |
石鎚山脈の支脈である、法皇山脈 赤石山系の中にある峠の一つ。
峠自体は「銅山越」と称するが、地元では「銅山越」を含む尾根筋一体を「銅山峰(どうざんみね)」とも称する。
江戸時代初期に、山脈の南側((旧)別子山村)に別子銅山が開かれ、その銅鉱石を、この峠を越えて、瀬戸内側の新居浜側まで運搬されていたことから、「銅山越」の名がついた。
峠には当時のなごりの、お地蔵さんが祭られている。
登路は北の新居浜側から、東平(とうなる)より上がる登山道、および南の(旧)別子山村側から、旧別子遺構群を通って上がるルートがある。
銅山峰から東には西赤石山への縦走路が続いている。西側へは、以前は笹ヶ峰までの縦走路があったが、最近では通る人は少ない。
旧別子銅山周辺は、別子銅山の煙害(亜硫酸ガス)の影響で、長らく禿山状態となっていたが、明治時代以降、植林により徐々に植生が回復してきた。
しかし銅山越の周辺のみは、山脈を越える風が強いことも影響して植生の回復が遅れており、まだ部分的に地肌が露出している。
高木は生えていないが、ツガザクラ、アカモノといった矮小な植生が優先している。
ツガザクラは通常、北アルプスの高山地帯に生えることが多く、1300m程度のあたりに分布しているのは珍しい。5月下旬の開花期には花見物で賑わう。
なお、銅山越の西側の小ピークを「西山」、東側の小ピークを「東山」と称する。
【参考文献】
1)「赤石山系の自然」 伊藤玉男 著(1971)
2)ウイキペディア 「別子銅山」
峠自体は「銅山越」と称するが、地元では「銅山越」を含む尾根筋一体を「銅山峰(どうざんみね)」とも称する。
江戸時代初期に、山脈の南側((旧)別子山村)に別子銅山が開かれ、その銅鉱石を、この峠を越えて、瀬戸内側の新居浜側まで運搬されていたことから、「銅山越」の名がついた。
峠には当時のなごりの、お地蔵さんが祭られている。
登路は北の新居浜側から、東平(とうなる)より上がる登山道、および南の(旧)別子山村側から、旧別子遺構群を通って上がるルートがある。
銅山峰から東には西赤石山への縦走路が続いている。西側へは、以前は笹ヶ峰までの縦走路があったが、最近では通る人は少ない。
旧別子銅山周辺は、別子銅山の煙害(亜硫酸ガス)の影響で、長らく禿山状態となっていたが、明治時代以降、植林により徐々に植生が回復してきた。
しかし銅山越の周辺のみは、山脈を越える風が強いことも影響して植生の回復が遅れており、まだ部分的に地肌が露出している。
高木は生えていないが、ツガザクラ、アカモノといった矮小な植生が優先している。
ツガザクラは通常、北アルプスの高山地帯に生えることが多く、1300m程度のあたりに分布しているのは珍しい。5月下旬の開花期には花見物で賑わう。
なお、銅山越の西側の小ピークを「西山」、東側の小ピークを「東山」と称する。
【参考文献】
1)「赤石山系の自然」 伊藤玉男 著(1971)
2)ウイキペディア 「別子銅山」
峠 |
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山の解説 - [出典:Wikipedia]
別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市にあった銅山。総産銅量は日本第2位の約65万トン。日本三大銅山の一つ。元禄4年(1691年)の開坑から1973年(昭和48年)の閉山まで283年間、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。
最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移っていった。
坑道は全長700キロメートル、最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよぶ。
皇居前広場の公園内に現存する楠木正成像は、1900年(明治33年)に別子銅山の銅で献納された。
1900年(明治33年)の銅山川鉱毒事件や製錬所の煙による煙害など、複数回公害問題が発生している。
閉山後は植林事業の成果もあり緑深い自然の山へと戻って、産業遺跡が山林の中に佇んでいる状態であったが、別子山村の合併により一体的な観光開発にも弾みがつき、歴史的意義を風化させないことを目的として、発祥の地の旧別子の遺産群、それに続く東平(とうなる)、 端出場(はでば)、筏津(いかだつ)、星越(ほしごえ)の遺産を整備し、新居浜市の新たな観光資源として甦っている。