1ヶ月前、北海道の十勝岳で、私の30数年のBCスキー歴で最大のピンチとなる事故を起こしてしまった。幸い北海道警察救助隊に無事救助され事なきを得たが、今後二度とこうした事故を起こさないための教訓とするため、事故原因を分析し、その他の反省点も付け加え、ヤマレコの山行記録や日記などで公開していた。このたびそれらを改めて整理し、事故に至るまでの経験や今回の最大の失敗原因ならびに生還の決定的ポイントなどを加筆したので、皆さんの登山活動への参考にもなればと思い、改めてヤマノートで公開するしだいである。
1.私のBCスキー歴、BCスキーによるケガ、北海道BCスキーの経験
私自身のBCスキー経験は1986年からなので今年で36年目ということになる(1998年からはテレマークスキーを始め、テレマーク歴は24年目)。
BCスキーでケガをしたのは今回以前に3回ある。なかでも2回目(1993年3月下旬に広島県高体連登山部の先生たちと出かけた山スキー研修での初日、栂池の天狗原から蓮華温泉への滑り出し、悪雪での転倒)は左肩亀裂骨折と左膝靭帯損傷のケガをし、1ヶ月ほどは当時乗っていたマニュアル車が運転できなかったほどの重程度のものだったが、それでも自力下山が可能で、救助隊のお世話になるということはなかった。
北海道での本格的なBCスキー経験は2019年正月の人に誘われての羊蹄山中腹・ニセコ一帯が最初で、その後、3年連続で春に単独&車で実行してきた(2019年3月末〜4月初め、ニセコ連峰・羊蹄山のほか、余市岳、十勝連峰など。2020年3月下旬、ニセコ連峰・羊蹄山・十勝連峰のほか、大雪山旭岳、知床方面など。2021年2月後半、知床方面から道北の和寒町、そして2/20夕方、上富良野へ移動)。
BCスキーでケガをしたのは今回以前に3回ある。なかでも2回目(1993年3月下旬に広島県高体連登山部の先生たちと出かけた山スキー研修での初日、栂池の天狗原から蓮華温泉への滑り出し、悪雪での転倒)は左肩亀裂骨折と左膝靭帯損傷のケガをし、1ヶ月ほどは当時乗っていたマニュアル車が運転できなかったほどの重程度のものだったが、それでも自力下山が可能で、救助隊のお世話になるということはなかった。
北海道での本格的なBCスキー経験は2019年正月の人に誘われての羊蹄山中腹・ニセコ一帯が最初で、その後、3年連続で春に単独&車で実行してきた(2019年3月末〜4月初め、ニセコ連峰・羊蹄山のほか、余市岳、十勝連峰など。2020年3月下旬、ニセコ連峰・羊蹄山・十勝連峰のほか、大雪山旭岳、知床方面など。2021年2月後半、知床方面から道北の和寒町、そして2/20夕方、上富良野へ移動)。
2.当日の行動
2月21日の天候は曇りであった。翌22日は晴天予報だったので、翌日の十勝岳トライも考えた。ただ、その日は北海道の最終日で、下山後苫小牧まで移動し、23日午前1時30分出港の大洗行きフェリーに乗船予定だったので、山頂を踏むには余裕がないと考え、曇ってはいたが21日に実行した。
2年前の3月末に白銀荘から前十勝の山頂直下(1770m)までスキーで登り、そのあとはアイゼンに履き替えて山頂(1790m)を踏み、さらに十勝岳本峰(2077m)まで足を延ばそうとしたが、付近の火口からの強烈な噴煙で早々に退散していた。十勝岳に登るには避難小屋付近経由でないと難しいとわかり、今回はそちらからトライする計画であった。
最初に白銀荘の駐車場(1010m)を出発したのは朝7時30分であったが、すぐ先の三段山/十勝岳登山口まで登ったところでビーコンの装着を忘れていたことに気づき引き返した。そうして再び出発したのが7時47分であった。
火山噴火観測小屋を過ぎて樹林帯を抜け、渡渉点のスノーブリッジを渡るまでは、2年前の前十勝までのルートと同じである。そのあとは避難小屋に向けて左にトラバースし、所々ある露岩帯を避けて登ることになるが、傾斜は緩めで特に難しい斜面ではない。ただし、樹林帯を抜けた地点で、前日までのトレースは無くなっていた。
10時9分に避難小屋(1320m)に着いて小屋の周囲をぐるりと回っていると、あとから一人追いついてきた。その方が入口前を備え付けのスコップで除雪してくれ、二人で小屋に入って休憩した。小屋に登って来るまでの行動中はあまり寒さを感じず、長袖アンダー・Tシャツ・フリース中着(+カッパ上着を腰に巻き付けて)といういで立ちだったが、休憩していると寒くなってきたので、フリースの上に厚めのアウターを着て、以後、行動時もその恰好のままだった。小屋では行動食のパンと飲料を少しばかり摂った。
小屋で一緒になった人は群馬から来たとのことで、昨年私が訪れた群馬の山のことも色々お話した。30分近く小屋に滞在したのち二人とも出発したが、群馬の人は、他の人も登っているようなので前十勝に登ることにすると言ってそちらへ向かっていった。私のほうは、避難小屋をパスして避難小屋の少し上のほうで登高終了/滑走準備をしていた4人パーティーを追い越して、さらに登っていった。
この辺り(標高1400m過ぎ)まではパウダー雪で、下りではおおいに楽しめそうだと思った。そこから先、標高1500mを超えると、雪も固くなり、露岩も所々ある斜面となったが、クトー(スキーアイゼン)を装着すれば、登るのにそんなに苦労はなかった(クトー装着は12時過ぎ、標高1610m辺り)。
ただ、視界は極端に悪く、低温でスマホもダウンした (モバイルバッテリーを繋いでみたが、これも効かなかった) ため、どこを登っているかよくわからなかった (ガーミンのGPSも持参していたが、地図画面が小さくて見づらく、登山中は使い勝手が悪い) が、ともあれ上を目指して登っていき、タイムリミットとした14時で登高終了とした (のちにガーミンGPSをパソコンで確認すると、1890m地点)。
下りも依然としてガスガスなので、シールとクトーを装着したまま、登ってきた方向に下っていった(つもりだったが、あとでガーミンを確認すると登ってきた方向とはずれていた)。そうしてしばらく下ると(のちの確認で1720m地点)、滑りやすそうなきれいな斜面となったので、そこでシールとクトーを外して滑走態勢に入った(15時33分)。
高度差で数十mほど滑り降りて、ガーミンを確認すると、登って来たグラウンド火口だと思っていた滑り降りた斜面は、ひとつ北側のスリバチ火口だと判明した。ちょっとミスってしまったが、ともあれ登り返さなければならない。シールをまた付けるのは面倒なので、そのまま火口を避難小屋方向に向けて斜上するように登っていった。ガスが一瞬薄れて左上方に火口壁の黒々とした岩肌が姿を見せたが、それはまるで悪魔がこちらを見ているかのようでもあった。
ともあれ黙々と登っていき、火口縁に近づいて再度現在地を確認すると、火口を4分の3ほど回って往路からはまた離れてしまっていた(この時は私自身「えっ、まさか!リングワンデリングをしてしまったのか?!」と焦った気持ちにもなった)ので、こんどは紙地図とコンパスを出して進行方向を確認し、180度向きを変えて進んで行った。そうしてようやくスリバチ火口を脱出したのが17時25分頃になっていた(1690m)。そのまま往路に向けて少しずつ下りながら、17時45分頃に往路の登りルートと思われる斜面に出たが、その頃には、依然として視界が悪いのに加え、薄暗くなってもいた。
そこからはやや斜度はあるがきれいな斜面だったので、横滑りで、歩くよりはやや速めのスピードで下っていった。すると突然、岩がわずかに露出する露岩帯に出くわし、スキーを露岩に引っかけて転倒してしまった。固い斜面だったので何回か体が回転しながらようやく止まったが、そんなに急な斜面でもなかったので、滑落というほどのものではなかった。ただ、転倒した際に左腰を強打したようで、かなり強い痛みがあった。左膝と左肘も少々痛かった(17時54分頃、1530m辺り。ガーミンも17時50分過ぎに電池切れとなっていた)。
ともあれ、腰や膝などの痛みをこらえながら、転倒して左右が絡まったスキーの流れ止めを苦労して外し、このあとはスキーをザックに取り付けて、せめて避難小屋まで歩いて下ろうと考えた。ところが、腰の痛みが尋常でなく、歩いて下るのは厳しいと考えたので、転倒したすぐ下の所(1530m弱)でビバークし、救助要請をすることを決意した (18時30分頃か)。
一帯の斜面は雪が固かったが、腰ほかの痛みをこらえながらスコップでなんとか雪の斜面を、座った際の背面で約1mほど掘り、掘った雪は横に積み上げながら、座って尻が当たる部分はくぼみ状にして座った際に斜面の下に体が滑らないようにし、くぼみに折り畳んだ断熱シートを敷いて座り込み、上からはツェルトを被せてビバーク態勢に入った。
落ち着いたところで、スマホを取り出して手で温めて復活させ、この日も宿泊予定であった白銀荘に電話をして、翌朝の救助を要請した(20時06分)。そして家族にLINEで状況を知らせ、一報の入った警察署からの電話にも対応した。スマホの電池残量表示は16%と少なかったが、なんとか連絡が取れ、安堵した。(ポッシェに入れていたモバイルバッテリーは転倒した際に紛失してしまっていたようだった。)
白銀荘に電話したとき、ビバーク地点の位置を知らせなければならないと思い、「避難小屋の上、1500〜1600m辺り」と伝えはしたが、より正確な位置を知らせるために、復活したスマホでヤマレコ地図を確認し、それをスクショして白銀荘にいる知人にLINEで送り、宿の人に伝えてもらうように頼んだ。それと前後して、警察からの連絡で、110番してもらえれば警察のほうで位置が確認できるとのことだったので、それも行った。
寒くはあったが、天候は穏やかで、ツェルトの中でもあり、風で震えることはなかった。とはいえ、北海道内陸部の標高1500mの冷気で少しばかり体が震えることもあったので、エネルギーを補給しようと思い、行動食や非常食をできる限り食べた。持参していたスポーツ飲料は半分は凍っていたが、ペットボトルの中ほどを押して飲み口から出てくるシャーベット状のものを口に入れた。パンは少々パサパサで食べにくかったが、パウチに入ったゼリーがなかなか良かった。クッキーのほか、何かのおまけでもらっていたキャラメルも良かった。
22時過ぎ、白銀荘に宿泊している知人からのLINEで、救助隊が夜中にも来てくれることがわかり、心強く思った(それまでは、朝までビバークしていなければならないことを覚悟していたが)。天候は依然穏やかで、ビバークに入って2回ほど小用でツェルトの外に出たが、空には半月が昇っており、富良野や美瑛(もしかしたら旭川もか)の町の明かり、そして白銀荘の明かりが煌々と輝いていた。
2年前の3月末に白銀荘から前十勝の山頂直下(1770m)までスキーで登り、そのあとはアイゼンに履き替えて山頂(1790m)を踏み、さらに十勝岳本峰(2077m)まで足を延ばそうとしたが、付近の火口からの強烈な噴煙で早々に退散していた。十勝岳に登るには避難小屋付近経由でないと難しいとわかり、今回はそちらからトライする計画であった。
最初に白銀荘の駐車場(1010m)を出発したのは朝7時30分であったが、すぐ先の三段山/十勝岳登山口まで登ったところでビーコンの装着を忘れていたことに気づき引き返した。そうして再び出発したのが7時47分であった。
火山噴火観測小屋を過ぎて樹林帯を抜け、渡渉点のスノーブリッジを渡るまでは、2年前の前十勝までのルートと同じである。そのあとは避難小屋に向けて左にトラバースし、所々ある露岩帯を避けて登ることになるが、傾斜は緩めで特に難しい斜面ではない。ただし、樹林帯を抜けた地点で、前日までのトレースは無くなっていた。
10時9分に避難小屋(1320m)に着いて小屋の周囲をぐるりと回っていると、あとから一人追いついてきた。その方が入口前を備え付けのスコップで除雪してくれ、二人で小屋に入って休憩した。小屋に登って来るまでの行動中はあまり寒さを感じず、長袖アンダー・Tシャツ・フリース中着(+カッパ上着を腰に巻き付けて)といういで立ちだったが、休憩していると寒くなってきたので、フリースの上に厚めのアウターを着て、以後、行動時もその恰好のままだった。小屋では行動食のパンと飲料を少しばかり摂った。
小屋で一緒になった人は群馬から来たとのことで、昨年私が訪れた群馬の山のことも色々お話した。30分近く小屋に滞在したのち二人とも出発したが、群馬の人は、他の人も登っているようなので前十勝に登ることにすると言ってそちらへ向かっていった。私のほうは、避難小屋をパスして避難小屋の少し上のほうで登高終了/滑走準備をしていた4人パーティーを追い越して、さらに登っていった。
この辺り(標高1400m過ぎ)まではパウダー雪で、下りではおおいに楽しめそうだと思った。そこから先、標高1500mを超えると、雪も固くなり、露岩も所々ある斜面となったが、クトー(スキーアイゼン)を装着すれば、登るのにそんなに苦労はなかった(クトー装着は12時過ぎ、標高1610m辺り)。
ただ、視界は極端に悪く、低温でスマホもダウンした (モバイルバッテリーを繋いでみたが、これも効かなかった) ため、どこを登っているかよくわからなかった (ガーミンのGPSも持参していたが、地図画面が小さくて見づらく、登山中は使い勝手が悪い) が、ともあれ上を目指して登っていき、タイムリミットとした14時で登高終了とした (のちにガーミンGPSをパソコンで確認すると、1890m地点)。
下りも依然としてガスガスなので、シールとクトーを装着したまま、登ってきた方向に下っていった(つもりだったが、あとでガーミンを確認すると登ってきた方向とはずれていた)。そうしてしばらく下ると(のちの確認で1720m地点)、滑りやすそうなきれいな斜面となったので、そこでシールとクトーを外して滑走態勢に入った(15時33分)。
高度差で数十mほど滑り降りて、ガーミンを確認すると、登って来たグラウンド火口だと思っていた滑り降りた斜面は、ひとつ北側のスリバチ火口だと判明した。ちょっとミスってしまったが、ともあれ登り返さなければならない。シールをまた付けるのは面倒なので、そのまま火口を避難小屋方向に向けて斜上するように登っていった。ガスが一瞬薄れて左上方に火口壁の黒々とした岩肌が姿を見せたが、それはまるで悪魔がこちらを見ているかのようでもあった。
ともあれ黙々と登っていき、火口縁に近づいて再度現在地を確認すると、火口を4分の3ほど回って往路からはまた離れてしまっていた(この時は私自身「えっ、まさか!リングワンデリングをしてしまったのか?!」と焦った気持ちにもなった)ので、こんどは紙地図とコンパスを出して進行方向を確認し、180度向きを変えて進んで行った。そうしてようやくスリバチ火口を脱出したのが17時25分頃になっていた(1690m)。そのまま往路に向けて少しずつ下りながら、17時45分頃に往路の登りルートと思われる斜面に出たが、その頃には、依然として視界が悪いのに加え、薄暗くなってもいた。
そこからはやや斜度はあるがきれいな斜面だったので、横滑りで、歩くよりはやや速めのスピードで下っていった。すると突然、岩がわずかに露出する露岩帯に出くわし、スキーを露岩に引っかけて転倒してしまった。固い斜面だったので何回か体が回転しながらようやく止まったが、そんなに急な斜面でもなかったので、滑落というほどのものではなかった。ただ、転倒した際に左腰を強打したようで、かなり強い痛みがあった。左膝と左肘も少々痛かった(17時54分頃、1530m辺り。ガーミンも17時50分過ぎに電池切れとなっていた)。
ともあれ、腰や膝などの痛みをこらえながら、転倒して左右が絡まったスキーの流れ止めを苦労して外し、このあとはスキーをザックに取り付けて、せめて避難小屋まで歩いて下ろうと考えた。ところが、腰の痛みが尋常でなく、歩いて下るのは厳しいと考えたので、転倒したすぐ下の所(1530m弱)でビバークし、救助要請をすることを決意した (18時30分頃か)。
一帯の斜面は雪が固かったが、腰ほかの痛みをこらえながらスコップでなんとか雪の斜面を、座った際の背面で約1mほど掘り、掘った雪は横に積み上げながら、座って尻が当たる部分はくぼみ状にして座った際に斜面の下に体が滑らないようにし、くぼみに折り畳んだ断熱シートを敷いて座り込み、上からはツェルトを被せてビバーク態勢に入った。
落ち着いたところで、スマホを取り出して手で温めて復活させ、この日も宿泊予定であった白銀荘に電話をして、翌朝の救助を要請した(20時06分)。そして家族にLINEで状況を知らせ、一報の入った警察署からの電話にも対応した。スマホの電池残量表示は16%と少なかったが、なんとか連絡が取れ、安堵した。(ポッシェに入れていたモバイルバッテリーは転倒した際に紛失してしまっていたようだった。)
白銀荘に電話したとき、ビバーク地点の位置を知らせなければならないと思い、「避難小屋の上、1500〜1600m辺り」と伝えはしたが、より正確な位置を知らせるために、復活したスマホでヤマレコ地図を確認し、それをスクショして白銀荘にいる知人にLINEで送り、宿の人に伝えてもらうように頼んだ。それと前後して、警察からの連絡で、110番してもらえれば警察のほうで位置が確認できるとのことだったので、それも行った。
寒くはあったが、天候は穏やかで、ツェルトの中でもあり、風で震えることはなかった。とはいえ、北海道内陸部の標高1500mの冷気で少しばかり体が震えることもあったので、エネルギーを補給しようと思い、行動食や非常食をできる限り食べた。持参していたスポーツ飲料は半分は凍っていたが、ペットボトルの中ほどを押して飲み口から出てくるシャーベット状のものを口に入れた。パンは少々パサパサで食べにくかったが、パウチに入ったゼリーがなかなか良かった。クッキーのほか、何かのおまけでもらっていたキャラメルも良かった。
22時過ぎ、白銀荘に宿泊している知人からのLINEで、救助隊が夜中にも来てくれることがわかり、心強く思った(それまでは、朝までビバークしていなければならないことを覚悟していたが)。天候は依然穏やかで、ビバークに入って2回ほど小用でツェルトの外に出たが、空には半月が昇っており、富良野や美瑛(もしかしたら旭川もか)の町の明かり、そして白銀荘の明かりが煌々と輝いていた。
3.救助隊による救助
警察の救助隊はスノーモービルで上がってくるのかとも思っていたが、22日午前1時47分頃、スキーで歩いて登って来てくれた。斜面の下から声が聞こえ、50mほど先にヘッドランプが7つ8つ点灯しているのを見たときには、さすがにほっとした。
手際よい作業で熱湯入りプラティパスを4つ胸の箇所に入れてくれたり、腰を強打していたので骨折を気遣って固定ベルトを尻/大腿部の辺りに装着してくれたり、体の下にマットを入れてくれながらシュラフとシートで全身を包んでくれたり、さらには真夜中にもかかわらず、救助隊チーフの方は国際山岳医の大城和恵先生と電話連絡を取りつつ、酸素吸入の処置(4L/分)もしてくれたりしながら、到着して45分後くらいには搬送作業に入って頂いた。
私をくるんでいたシートの下部には私自身のスキーが装着されたようであった。「金具が当たるのが痛くないですか?」と尋ねられもしたからである。なお、コロナの時勢であり、防寒にもなるのでビバーク中はマスクを装着していた(行動中はアゴマスク)が、救助隊に救助されることとなり、それが役立った。ただし、酸素吸入中はもちろん外すこととなった。
「ここは少し急だから、少し先までツボ(足)で下ろう」という救助隊チーフの声が聞こえ、いったん少し下ってしばらく止まり、そのあとはわりと速めに下りだしていったので、おそらく救助隊員たちはスキーで下りながら搬送してくれたのだと思う。シートにくるまれ、救助隊員たちの姿を見ることはできなかったが。
途中、救助隊員の方たちからは「大丈夫ですか?」「あと○○分くらいですよ」などと頻繁に声をかけても頂いた。白銀荘に戻るにはスノーブリッジの渡渉箇所が1ヶ所あるが、そこを通過しているのもなんとなくわかった。渡渉箇所を過ぎて下りも緩やかになると、それまで上側にあった頭部の位置が下がってきたためか、顔に雪しぶきが時々かかるのが冷たく感じられたが、特に苦痛と言うほどのものではなかった。
そうして搬送開始から1時間半弱で白銀荘の駐車場に降り着き(午前4時2分)、そのあとは救急車に乗せられて上富良野町立病院に運ばれた。救急外来で診てもらうと、左脇腹から大腿部にかけてかなりひどい内出血と腫れがあると言われた。さらにCTを撮ってもらったところ、ひどいものではないが左骨盤が一部骨折していることが判明した。手術の必要性を判断するため、富良野協会病院に転送され、そこで再検査を受けたところ、手術の必要性は無いものの、1週間かそこらの入院が必要ということになった。
手際よい作業で熱湯入りプラティパスを4つ胸の箇所に入れてくれたり、腰を強打していたので骨折を気遣って固定ベルトを尻/大腿部の辺りに装着してくれたり、体の下にマットを入れてくれながらシュラフとシートで全身を包んでくれたり、さらには真夜中にもかかわらず、救助隊チーフの方は国際山岳医の大城和恵先生と電話連絡を取りつつ、酸素吸入の処置(4L/分)もしてくれたりしながら、到着して45分後くらいには搬送作業に入って頂いた。
私をくるんでいたシートの下部には私自身のスキーが装着されたようであった。「金具が当たるのが痛くないですか?」と尋ねられもしたからである。なお、コロナの時勢であり、防寒にもなるのでビバーク中はマスクを装着していた(行動中はアゴマスク)が、救助隊に救助されることとなり、それが役立った。ただし、酸素吸入中はもちろん外すこととなった。
「ここは少し急だから、少し先までツボ(足)で下ろう」という救助隊チーフの声が聞こえ、いったん少し下ってしばらく止まり、そのあとはわりと速めに下りだしていったので、おそらく救助隊員たちはスキーで下りながら搬送してくれたのだと思う。シートにくるまれ、救助隊員たちの姿を見ることはできなかったが。
途中、救助隊員の方たちからは「大丈夫ですか?」「あと○○分くらいですよ」などと頻繁に声をかけても頂いた。白銀荘に戻るにはスノーブリッジの渡渉箇所が1ヶ所あるが、そこを通過しているのもなんとなくわかった。渡渉箇所を過ぎて下りも緩やかになると、それまで上側にあった頭部の位置が下がってきたためか、顔に雪しぶきが時々かかるのが冷たく感じられたが、特に苦痛と言うほどのものではなかった。
そうして搬送開始から1時間半弱で白銀荘の駐車場に降り着き(午前4時2分)、そのあとは救急車に乗せられて上富良野町立病院に運ばれた。救急外来で診てもらうと、左脇腹から大腿部にかけてかなりひどい内出血と腫れがあると言われた。さらにCTを撮ってもらったところ、ひどいものではないが左骨盤が一部骨折していることが判明した。手術の必要性を判断するため、富良野協会病院に転送され、そこで再検査を受けたところ、手術の必要性は無いものの、1週間かそこらの入院が必要ということになった。
4.その後(入院/退院から広島に戻るまで)
入院先の富良野協会病院にはちょうど1週間入院していた(2月22日朝〜3月1日朝)。入院翌日の23日からは車椅子で移動できるようになり、25日からは松葉杖で移動できるようになった。その頃にはあと数日で退院できそうとのことだったので、28日(日)の夕方に茨城県つくば市在住の娘に富良野まで来てもらって退院準備を整えた。
3月1日(月)朝、ザックなどの重い荷物は病院に置かせてもらったまま、7時半に病院を出て娘と二人でJRとバスを乗り継いで白銀荘に向かった(9時半前に白銀荘着)。スタッフの方にお礼を言い、宿代の支払いを済ませ、置きっぱなしになっていた荷物と車を回収して、娘の運転で10時前に白銀荘を後にした。
そのあと、このたびお世話になった最初の搬送先の上富良野町立病と搬送してくれた上富良野消防署を訪れて挨拶、荷物の回収で再び富良野協会病院、そして救助隊が所属する旭川東警察署へ向かい救助隊チーフであったAさんに挨拶。その後、18時半出港の大洗行きフェリーに乗るべく、苫小牧西港まで娘に運転してもらった。
翌2日(火)の13時に大洗港に着き、夕方遅くならない時間帯につくば市の娘宅に着くことができた。
娘宅でしばらく静養したのち、娘の仕事が休みになる6日(土)につくば市内の整形外科を受診し、特に問題ないとのことだったので、翌7日(日)に広島に帰ることに決めた。こんどは自分で運転しなければならないが、休憩を多めに取りつつ、場合によっては高速道途中のレストイン多賀(滋賀県)で宿泊することも考えていた。
すると県岳連知人のTさんから急遽連絡があり、所用で東京(立川市)に来ており、7日に一緒に広島まで帰ることが可能との連絡を受け、ご厚意に甘えることとした。娘と一緒にTさんを7日朝8時過ぎにつくば駅で出迎え、娘宅の近くで娘が降りた後は、まずはTさんの運転でつくば中央ICから高速道に入った。以後、私も都合4時間弱は運転して、ちょうど正味10時間ほどの走行ののち、19時10分にTさんがJRに乗り換える海田市駅(広島駅の3つ東側)に着いた。以後、西隣の向洋駅近くの我が家まではすぐであった。
3月1日(月)朝、ザックなどの重い荷物は病院に置かせてもらったまま、7時半に病院を出て娘と二人でJRとバスを乗り継いで白銀荘に向かった(9時半前に白銀荘着)。スタッフの方にお礼を言い、宿代の支払いを済ませ、置きっぱなしになっていた荷物と車を回収して、娘の運転で10時前に白銀荘を後にした。
そのあと、このたびお世話になった最初の搬送先の上富良野町立病と搬送してくれた上富良野消防署を訪れて挨拶、荷物の回収で再び富良野協会病院、そして救助隊が所属する旭川東警察署へ向かい救助隊チーフであったAさんに挨拶。その後、18時半出港の大洗行きフェリーに乗るべく、苫小牧西港まで娘に運転してもらった。
翌2日(火)の13時に大洗港に着き、夕方遅くならない時間帯につくば市の娘宅に着くことができた。
娘宅でしばらく静養したのち、娘の仕事が休みになる6日(土)につくば市内の整形外科を受診し、特に問題ないとのことだったので、翌7日(日)に広島に帰ることに決めた。こんどは自分で運転しなければならないが、休憩を多めに取りつつ、場合によっては高速道途中のレストイン多賀(滋賀県)で宿泊することも考えていた。
すると県岳連知人のTさんから急遽連絡があり、所用で東京(立川市)に来ており、7日に一緒に広島まで帰ることが可能との連絡を受け、ご厚意に甘えることとした。娘と一緒にTさんを7日朝8時過ぎにつくば駅で出迎え、娘宅の近くで娘が降りた後は、まずはTさんの運転でつくば中央ICから高速道に入った。以後、私も都合4時間弱は運転して、ちょうど正味10時間ほどの走行ののち、19時10分にTさんがJRに乗り換える海田市駅(広島駅の3つ東側)に着いた。以後、西隣の向洋駅近くの我が家まではすぐであった。
5.お世話になった方々
今回の遭難事故にあたっては多くの方々にお世話になったが、まずは何といっても、命の危険を救ってくれた北海道警察救助隊の方々である。県岳連の冬山レスキュー研修会や国立登山研修所の安全登山講習会で学んだことが、このたびの救助隊の実践でそのまま実行されており、救助されながらとても安心感を抱いた。低体温症にも留意しながらの北海道警察救助隊の救助技術は大変すばらしく、救助隊の皆様には大変感謝している。
警察に連絡を取って頂き、いろいろとご心配をおかけした白銀荘スタッフの方にも、入院中に放置することになってしまった車の雪かきも含め、大変お世話になった。白銀荘に一緒に宿泊していてやはり心配していただき、入院先にスマホ充電器やパソコンなどの必要なものを届けてくれた知人もしかりであるし、入院していた富良野協会病院の先生や看護スタッフの方々はもちろん、最初の搬送先であった上富良野町立病院の方と搬送してくれた救急隊員の方もしかりである。
なおまた、入院中に話しかけてくれて話し相手となり、退院の前々日には、病院から近くの富良野駅への経路を病院内から確認するに際して案内もしてくれた同室のOさんにも感謝しなければならない。あとは身内だが、つくば在住の娘にはずいぶん助けられた。
警察に連絡を取って頂き、いろいろとご心配をおかけした白銀荘スタッフの方にも、入院中に放置することになってしまった車の雪かきも含め、大変お世話になった。白銀荘に一緒に宿泊していてやはり心配していただき、入院先にスマホ充電器やパソコンなどの必要なものを届けてくれた知人もしかりであるし、入院していた富良野協会病院の先生や看護スタッフの方々はもちろん、最初の搬送先であった上富良野町立病院の方と搬送してくれた救急隊員の方もしかりである。
なおまた、入院中に話しかけてくれて話し相手となり、退院の前々日には、病院から近くの富良野駅への経路を病院内から確認するに際して案内もしてくれた同室のOさんにも感謝しなければならない。あとは身内だが、つくば在住の娘にはずいぶん助けられた。
6.今回の事故に至った原因と今後留意すべきこと
お世話になった方々に感謝するとともに、今回のことを教訓に、今後より一層の安全登山/BCスキーに精進しなければならないと思っている。
失敗の原因がいくつか考えられる。
1 天候(視界)が優れないにもかかわらず、スキーでかなり上まで登ってしまったこと
2 スマホをフリースの中着の胸ポケットに入れておかなかったこと(フリースの中着の上に肩に斜め掛けしたポッシェの外側ポケットに入れ、アウターでおおわれるようにしてはいたが。ちなみに、スマホがダウンしたのは、12時47分、標高1710m地点)
3 スマホがダウンしたにもかかわらず、さらに登山を続けたこと
4 下山を開始するとき、紙地図とコンパスで方向を確認しなかったこと
5 下りでグラウンド火口だと思われる斜面に出たとき、紙地図とコンパスを出して滑降するべき方向を確認しなかったこと
6 誤ったルートに滑り降りたとわかったとき、登り返しでシールを付けなかったこと
7 視界が悪く、さらに薄暗くなって斜面の先の状況がよくわからなかったにもかかわらず、スキーで下っていったこと
8 薄暗くなっていたにもかかわらず、ヘッドランプを使用しなかったこと
9 登りの際に露岩帯があることを認識していながら、下りの滑走の際にその危険性の認識が欠けていたこと
10 十勝岳の特性の認識が甘かったこと
十勝岳本峰へのルートも前十勝同様、露岩帯が所々にある斜面である。滑走に際しては十分に気をつけなければならないはずなのに、その認識が甘かった。
転倒した際、ターンをしながら下っていたのではなく(スリバチ火口に滑走したときはターンもしたが)、そんなにスピードは出してない横滑りでの滑走だったので、油断があったとも言えるし、2年前の前十勝からの滑走成功も油断につながったと言える。
また、十勝岳の山頂一帯にはいくつかの火口があり、視界が悪いと迷いやすいということも頭に入れておかなければならなかった。
11 直接的な原因ではないが、過去の成功体験から来る過信があったこと
事故報告の前段となる「1.私のBCスキー歴、BCスキーによるケガ、北海道BCスキーの経験」で過去のおおまかな経歴については触れたが、ガスがかなり濃い状態でスキー登山/滑走したことは過去にもあった。北海道での最初の本格的な単独BCとなったニセコアンヌプリ北斜面では、コンパスを出して進むべき方向を慎重に確認したし、2019春の北海道の最初の山であった余市岳では、朝里岳の広大な台地を通過せねばならず、かなり神経を使った(ヤマップ地図とコンパスとで頻繁に確認)。そうして無事に滑走・登頂もしていた。
また、天気は良かったが、2年前に前十勝を登頂/滑走したことや、1年前に大雪山旭岳(2291m)を地獄谷経由で登頂(スキーは2150mまで)/滑走したことで、北海道の高山への登頂/滑走も一応は自信があった。
さらに、この日の十勝岳は曇りで視界は悪かったが、風雪という点では穏やかで、2年前に登った余市岳や三段山のほうがよっぽど厳しかった。厳しい天候をつきながら登頂もしていたので、それから来る自信もあった。
今回、これらの過去の成功体験が油断をもたらし、禍となってしまった。
12 未踏峰と名山へのこだわりがあったこと
これまた直接的な原因ではないが、曇っていて視界が良くないにもかかわらずこの日に登頂を目指したことの背景には、やはりこのことがあったと思う。(登頂できなくても14時になったら下山と決めていたのはまだしも賢明ではあったのだが。)
原因ではないが、反省点として
13 スマホのモバイルバッテリーを入れていたポッシェのファスナーをきちんと閉めていなかったこと
14 スマホのモバイルバッテリーの予備を持参していなかったこと
さらなる反省点として
15 今回ビバークしたのが電波状況の良い所で簡単に連絡が取れたが、もしもそうでない所だったら…ということも考えなければならない。
スコップ・ツェルト・シート・防寒着・行動食(千数百〜2千kcal)・非常食(約千kcal)・ヘッドランプといったビバーク用装備、紙地図・コンパスの基本装備は持参していたので大事には至らなかったが、ウェア類や非常食の装備については、実際にビバークを経験してみて、不十分ということはなかったものの、余裕があるものでもなかったので、改善の必要があると考えている。
16 ウェア類については最低限アンダー上下の着替えは持参しておかなければならないし、
17 非常食についてはこれまでの1.5〜2倍持参しなければならないと考えている。
失敗の原因がいくつか考えられる。
1 天候(視界)が優れないにもかかわらず、スキーでかなり上まで登ってしまったこと
2 スマホをフリースの中着の胸ポケットに入れておかなかったこと(フリースの中着の上に肩に斜め掛けしたポッシェの外側ポケットに入れ、アウターでおおわれるようにしてはいたが。ちなみに、スマホがダウンしたのは、12時47分、標高1710m地点)
3 スマホがダウンしたにもかかわらず、さらに登山を続けたこと
4 下山を開始するとき、紙地図とコンパスで方向を確認しなかったこと
5 下りでグラウンド火口だと思われる斜面に出たとき、紙地図とコンパスを出して滑降するべき方向を確認しなかったこと
6 誤ったルートに滑り降りたとわかったとき、登り返しでシールを付けなかったこと
7 視界が悪く、さらに薄暗くなって斜面の先の状況がよくわからなかったにもかかわらず、スキーで下っていったこと
8 薄暗くなっていたにもかかわらず、ヘッドランプを使用しなかったこと
9 登りの際に露岩帯があることを認識していながら、下りの滑走の際にその危険性の認識が欠けていたこと
10 十勝岳の特性の認識が甘かったこと
十勝岳本峰へのルートも前十勝同様、露岩帯が所々にある斜面である。滑走に際しては十分に気をつけなければならないはずなのに、その認識が甘かった。
転倒した際、ターンをしながら下っていたのではなく(スリバチ火口に滑走したときはターンもしたが)、そんなにスピードは出してない横滑りでの滑走だったので、油断があったとも言えるし、2年前の前十勝からの滑走成功も油断につながったと言える。
また、十勝岳の山頂一帯にはいくつかの火口があり、視界が悪いと迷いやすいということも頭に入れておかなければならなかった。
11 直接的な原因ではないが、過去の成功体験から来る過信があったこと
事故報告の前段となる「1.私のBCスキー歴、BCスキーによるケガ、北海道BCスキーの経験」で過去のおおまかな経歴については触れたが、ガスがかなり濃い状態でスキー登山/滑走したことは過去にもあった。北海道での最初の本格的な単独BCとなったニセコアンヌプリ北斜面では、コンパスを出して進むべき方向を慎重に確認したし、2019春の北海道の最初の山であった余市岳では、朝里岳の広大な台地を通過せねばならず、かなり神経を使った(ヤマップ地図とコンパスとで頻繁に確認)。そうして無事に滑走・登頂もしていた。
また、天気は良かったが、2年前に前十勝を登頂/滑走したことや、1年前に大雪山旭岳(2291m)を地獄谷経由で登頂(スキーは2150mまで)/滑走したことで、北海道の高山への登頂/滑走も一応は自信があった。
さらに、この日の十勝岳は曇りで視界は悪かったが、風雪という点では穏やかで、2年前に登った余市岳や三段山のほうがよっぽど厳しかった。厳しい天候をつきながら登頂もしていたので、それから来る自信もあった。
今回、これらの過去の成功体験が油断をもたらし、禍となってしまった。
12 未踏峰と名山へのこだわりがあったこと
これまた直接的な原因ではないが、曇っていて視界が良くないにもかかわらずこの日に登頂を目指したことの背景には、やはりこのことがあったと思う。(登頂できなくても14時になったら下山と決めていたのはまだしも賢明ではあったのだが。)
原因ではないが、反省点として
13 スマホのモバイルバッテリーを入れていたポッシェのファスナーをきちんと閉めていなかったこと
14 スマホのモバイルバッテリーの予備を持参していなかったこと
さらなる反省点として
15 今回ビバークしたのが電波状況の良い所で簡単に連絡が取れたが、もしもそうでない所だったら…ということも考えなければならない。
スコップ・ツェルト・シート・防寒着・行動食(千数百〜2千kcal)・非常食(約千kcal)・ヘッドランプといったビバーク用装備、紙地図・コンパスの基本装備は持参していたので大事には至らなかったが、ウェア類や非常食の装備については、実際にビバークを経験してみて、不十分ということはなかったものの、余裕があるものでもなかったので、改善の必要があると考えている。
16 ウェア類については最低限アンダー上下の着替えは持参しておかなければならないし、
17 非常食についてはこれまでの1.5〜2倍持参しなければならないと考えている。
7.最大の失敗原因と生還の決定的ポイント
以上、いくつかの事故の原因ならびに反省点を列挙したが、最大の失敗原因となるとやはり1である。「視界不良時において、頂点となる山頂にルートを定めるのは比較的容易ではあるが(高い所を目指して登っていけばよい)、下山時、裾野広がる山麓に向けて正しいルートを定めるのは至難の業である」ことをこのたび痛感させられた。そして、1の遠因となったのが11と12であったと言えよう。
次に、「登ってしまった以上は、正しい下山ルートを定めることに全精力を注がなければならない」、具体的には、「わずかな頼りであれ、現在地がある程度わかれば、(スマホ地図が使えないのであれば)面倒でも紙地図とコンパスで確認しなければならない」(上記4・5)ということであり、
3番目としてはやはり、「視界不良時のスキー滑走の危険性」(7)である。露岩帯などの危険要素がある斜面においてはとりわけ気をつけなければならない。
一方、失敗はしたものの、次のことがなければ、無事の生還にはつながらなかったかもしれない。
● GPSの携行(スマホの地図アプリに比べれば見にくい画面ではあるが、スマホがダウンした後は、これが唯一の頼りとなった)
● 紙地図とコンパスの使用による正しい方向の確認
下山開始時と滑降開始時に紙地図とコンパスを使用しなかった失敗については4・5で述べたが、誤って滑り降りたスリバチ火口を登り返して火口縁に近づいた際に再び往路から離れていっていたことに気づき焦りもした時、それでもGPSを信じ、そして紙地図とコンパスを出して進むべき方向が180度真反対であることを確認できたのは決定的なポイントだった。もしもあの時、感だけを頼りにそのまま進んでいたなら、それこそ道迷い遭難にもつながったことだろう。
● ビバーク用装備の携行(具体的な装備品目については、6.の「さらなる反省点」以下を参照)
● 救助要請の発信
20時過ぎで遅い時間ではあったが、私自身から救助要請を発したことが何と言っても大きかった。救助要請の是非については登山者の中でも様々な考えがあるようだが、緊急事態の発生に際しては潔く救助要請をすべきだと私は考える。何をもって「緊急事態」とするかであるが、「自力下山が可能かどうか」ということになるだろう。私の場合、転倒したのちも自力下山を試みたが、それが不可能とわかり、救助要請を決意した。
山中で遭難/ビバークしながら、自らは救助要請することなく、到着が遅いのを心配した山小屋スタッフが遠くにライトの明かりを見て駆け付け、疲労しきっていた遭難者を救助して小屋まで連れ帰り、その後、警察/消防に連絡して翌日ヘリコプターで収容してもらったという事例もあるようだが、それは大変ラッキーとしか言いようがなく、そうした事態は絶対に避けるべきだと考える。救助されなくても自力下山できるといった場合でも、下山時刻が常識を逸するような場合には、心配するであろう人々には連絡だけは入れなければならない。
ただ、私の場合、救助要請を発したのは20時06分で、落ち着けるビバーク態勢に入るまでに時間を要しやむをえなかったとはいえ、少々遅かった。20時過ぎまではダウンしたままになっていたスマホをのちに確認すると、白銀荘にいた知人からは18時17分に最初の不在着信が入っていた。その後、18時半過ぎには知人が心配して白銀荘のスタッフに連絡したと思われ、白銀荘から18時38分に不在着信が入っていた。私のほうから白銀荘に連絡したのが20時06分であったから、その間の2時間近く、知人やスタッフの方には大変な心配をかけたと思う。
次に、「登ってしまった以上は、正しい下山ルートを定めることに全精力を注がなければならない」、具体的には、「わずかな頼りであれ、現在地がある程度わかれば、(スマホ地図が使えないのであれば)面倒でも紙地図とコンパスで確認しなければならない」(上記4・5)ということであり、
3番目としてはやはり、「視界不良時のスキー滑走の危険性」(7)である。露岩帯などの危険要素がある斜面においてはとりわけ気をつけなければならない。
一方、失敗はしたものの、次のことがなければ、無事の生還にはつながらなかったかもしれない。
● GPSの携行(スマホの地図アプリに比べれば見にくい画面ではあるが、スマホがダウンした後は、これが唯一の頼りとなった)
● 紙地図とコンパスの使用による正しい方向の確認
下山開始時と滑降開始時に紙地図とコンパスを使用しなかった失敗については4・5で述べたが、誤って滑り降りたスリバチ火口を登り返して火口縁に近づいた際に再び往路から離れていっていたことに気づき焦りもした時、それでもGPSを信じ、そして紙地図とコンパスを出して進むべき方向が180度真反対であることを確認できたのは決定的なポイントだった。もしもあの時、感だけを頼りにそのまま進んでいたなら、それこそ道迷い遭難にもつながったことだろう。
● ビバーク用装備の携行(具体的な装備品目については、6.の「さらなる反省点」以下を参照)
● 救助要請の発信
20時過ぎで遅い時間ではあったが、私自身から救助要請を発したことが何と言っても大きかった。救助要請の是非については登山者の中でも様々な考えがあるようだが、緊急事態の発生に際しては潔く救助要請をすべきだと私は考える。何をもって「緊急事態」とするかであるが、「自力下山が可能かどうか」ということになるだろう。私の場合、転倒したのちも自力下山を試みたが、それが不可能とわかり、救助要請を決意した。
山中で遭難/ビバークしながら、自らは救助要請することなく、到着が遅いのを心配した山小屋スタッフが遠くにライトの明かりを見て駆け付け、疲労しきっていた遭難者を救助して小屋まで連れ帰り、その後、警察/消防に連絡して翌日ヘリコプターで収容してもらったという事例もあるようだが、それは大変ラッキーとしか言いようがなく、そうした事態は絶対に避けるべきだと考える。救助されなくても自力下山できるといった場合でも、下山時刻が常識を逸するような場合には、心配するであろう人々には連絡だけは入れなければならない。
ただ、私の場合、救助要請を発したのは20時06分で、落ち着けるビバーク態勢に入るまでに時間を要しやむをえなかったとはいえ、少々遅かった。20時過ぎまではダウンしたままになっていたスマホをのちに確認すると、白銀荘にいた知人からは18時17分に最初の不在着信が入っていた。その後、18時半過ぎには知人が心配して白銀荘のスタッフに連絡したと思われ、白銀荘から18時38分に不在着信が入っていた。私のほうから白銀荘に連絡したのが20時06分であったから、その間の2時間近く、知人やスタッフの方には大変な心配をかけたと思う。
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