520人が亡くなった日航機墜落事故から24年がたちました。あのときは朝日連峰の八久和川を遡行して下山し、帰京。その数日後に事故は起こりました。私は、当時、報道関係の仕事をしていたため、自宅に帰ったばかりのところを呼び出しを受け、墜落したとすれば現場は山岳地帯になった可能性が高いことから、とりあえず雨具と水筒、非常食にヘッドランプだけはバッグに放り込んで、再出勤しました。
夜通し墜落現場の位置が二転三転するするなか、長野県側の北相木村に午前3時ごろ到着。未明に現場が三国岳の北数キロの群馬県側山腹と判明し、現地のスタッフの支援をうけて、林道を使って車で南相木村から御座山を東側から乗り越して三国峠へと抜けました。
現場の位置から、踏み跡があるはずの稜線から入った方が早いという判断でした。群馬県側からも支局のメンバーや別行動の東京からの同僚らが、沢ルートで行動していました。三国峠で車のスタッフから行動食と飲料を受け取り、5時30分に出発。三国岳(1874メートル)を越えてすすみました。
標高1900メートル前後のアップダウン。同僚のカメラマンと共に、当時はときどき切れ切れになるような踏み跡をほぼ稜線通しにたどりました。松本の陸上自衛隊の救助隊と前後しながらの行動でした。彼らはしばしば休憩して指示をあおぐため、途中からこの隊に先行し、御座山への尾根を分け、墜落現場から煙が昇る様子を見ながら、稜線をさらに北へ。煙が斜め下に見える位置から、枝沢を伝って現場へと下降しました。
同行のカメラマンが途中で斜面を転げ落ち、なんとか止まりました。荷物を任せてもらい、さらに急斜面を下降、そしてトラバース。機体が焼ける匂い。青い煙がまだ薄く立ち昇るなか、後に「御巣鷹の尾根」と呼ばれることになった中腹の支尾根にたどりつきました。
翼の1つが尾根を斜めに横断し、斜面の赤土を深く削り取って、横たわっていました。燃え残った車輪が逆立ちして、空を向いていました。機体らしいものはそれだけ。後は姿をとどめない破片と、なぎ倒された樹木があり、それらに衣類や紙やバックなど様々のものが絡み付いていました。その時点で、尾根には20人ほどの自衛隊員、報道陣、地元の消防団しかいませんでした。機体のうち胴体は北側の枝沢に転げ落ち、沢の斜面の立ち木は爆風を受けたようになぎ倒されていました。後の事故調査では、尾根に激突する直前、機体は時速600キロを超していたことがわかっています。
午前11時すぎごろ、その谷底から「そーれ」という掛け声が大きく響いてきました。ハッピ姿の上野村など周辺町村の消防団の方々でした。人の手とロープとで縦につなぎあい支えられて、木の枝で組んだ担架が急斜面を上がってきたのです。助かった母子のうち母親でした。1つの担架を上げるのに30人近い人が手をつなぎ、声をかけあって、登ってきました。母親のその二の腕が生きている人の色だったのを見て、今までに感じたことのない感動を覚えたことを記憶しています。
2番目にそのお子さん(小学生の女の子)が担ぎ上げられ、3番目に同行した家族で1人生き残った中学生の女子生徒(Kさん)が上げられ、最後にアシスタント・パーサーの女性が上がってきました。4人ともほとんど動く力もないように見えました。
尾根は樹木がなぎ払われ、身を隠す場所がありません。機体などからの熱に加え、真夏の日差しが照りつけていました。1時間してようやく医師がヘリで降りたものの、救助体制に問題があり、4人を迎えるヘリがなかなかきません。ヘリの到着は、尾根に全員が上がってからさらに2時間後でした。地元消防団の奮闘とは異なり、生存者はいるはずがない、という態勢だったと、私は思いました。
Kさんは大型ヘリに吊り上げられる際、一瞬のことでしたが目を大きく開いたのが印象に残っています。その後、事故で亡くなられた母親と同じく医療の道をすすんだように聞いています。見上げる消防隊員の方々も涙を流していた方もいました。
油の燃えかすと土ぼこりと汗とで、私たちもぼろ屑のような姿になりました。520人が亡くなった尾根です。現場周辺で目にしたことは忘れてしまいたいようなことが多かった。でも、生存者がおり、あのようにして救助されたことが、心の一つの場所を満たしてくれていたように思います。上野村側から沢を伝ってひどく苦労して上がってきた支局のメンバーや別行動の東京からの同僚らと打ち合わせをし、午後4時すぎ、御巣鷹の尾根を出発。私たちはわずかの水を分け合いながら、三国岳へと登り返しました。
(写真は三国岳からの往復ルート)
夜通し墜落現場の位置が二転三転するするなか、長野県側の北相木村に午前3時ごろ到着。未明に現場が三国岳の北数キロの群馬県側山腹と判明し、現地のスタッフの支援をうけて、林道を使って車で南相木村から御座山を東側から乗り越して三国峠へと抜けました。
現場の位置から、踏み跡があるはずの稜線から入った方が早いという判断でした。群馬県側からも支局のメンバーや別行動の東京からの同僚らが、沢ルートで行動していました。三国峠で車のスタッフから行動食と飲料を受け取り、5時30分に出発。三国岳(1874メートル)を越えてすすみました。
標高1900メートル前後のアップダウン。同僚のカメラマンと共に、当時はときどき切れ切れになるような踏み跡をほぼ稜線通しにたどりました。松本の陸上自衛隊の救助隊と前後しながらの行動でした。彼らはしばしば休憩して指示をあおぐため、途中からこの隊に先行し、御座山への尾根を分け、墜落現場から煙が昇る様子を見ながら、稜線をさらに北へ。煙が斜め下に見える位置から、枝沢を伝って現場へと下降しました。
同行のカメラマンが途中で斜面を転げ落ち、なんとか止まりました。荷物を任せてもらい、さらに急斜面を下降、そしてトラバース。機体が焼ける匂い。青い煙がまだ薄く立ち昇るなか、後に「御巣鷹の尾根」と呼ばれることになった中腹の支尾根にたどりつきました。
翼の1つが尾根を斜めに横断し、斜面の赤土を深く削り取って、横たわっていました。燃え残った車輪が逆立ちして、空を向いていました。機体らしいものはそれだけ。後は姿をとどめない破片と、なぎ倒された樹木があり、それらに衣類や紙やバックなど様々のものが絡み付いていました。その時点で、尾根には20人ほどの自衛隊員、報道陣、地元の消防団しかいませんでした。機体のうち胴体は北側の枝沢に転げ落ち、沢の斜面の立ち木は爆風を受けたようになぎ倒されていました。後の事故調査では、尾根に激突する直前、機体は時速600キロを超していたことがわかっています。
午前11時すぎごろ、その谷底から「そーれ」という掛け声が大きく響いてきました。ハッピ姿の上野村など周辺町村の消防団の方々でした。人の手とロープとで縦につなぎあい支えられて、木の枝で組んだ担架が急斜面を上がってきたのです。助かった母子のうち母親でした。1つの担架を上げるのに30人近い人が手をつなぎ、声をかけあって、登ってきました。母親のその二の腕が生きている人の色だったのを見て、今までに感じたことのない感動を覚えたことを記憶しています。
2番目にそのお子さん(小学生の女の子)が担ぎ上げられ、3番目に同行した家族で1人生き残った中学生の女子生徒(Kさん)が上げられ、最後にアシスタント・パーサーの女性が上がってきました。4人ともほとんど動く力もないように見えました。
尾根は樹木がなぎ払われ、身を隠す場所がありません。機体などからの熱に加え、真夏の日差しが照りつけていました。1時間してようやく医師がヘリで降りたものの、救助体制に問題があり、4人を迎えるヘリがなかなかきません。ヘリの到着は、尾根に全員が上がってからさらに2時間後でした。地元消防団の奮闘とは異なり、生存者はいるはずがない、という態勢だったと、私は思いました。
Kさんは大型ヘリに吊り上げられる際、一瞬のことでしたが目を大きく開いたのが印象に残っています。その後、事故で亡くなられた母親と同じく医療の道をすすんだように聞いています。見上げる消防隊員の方々も涙を流していた方もいました。
油の燃えかすと土ぼこりと汗とで、私たちもぼろ屑のような姿になりました。520人が亡くなった尾根です。現場周辺で目にしたことは忘れてしまいたいようなことが多かった。でも、生存者がおり、あのようにして救助されたことが、心の一つの場所を満たしてくれていたように思います。上野村側から沢を伝ってひどく苦労して上がってきた支局のメンバーや別行動の東京からの同僚らと打ち合わせをし、午後4時すぎ、御巣鷹の尾根を出発。私たちはわずかの水を分け合いながら、三国岳へと登り返しました。
(写真は三国岳からの往復ルート)
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