中国
陶晴賢碑(すえはるかたひ)
広島県
最終更新:akimasa21
基本情報
標高 | 200m |
---|---|
場所 | 北緯34度16分05秒, 東経132度18分14秒 |
(注)陶晴賢敗死之碑の地名登録は暫定的であり正確では
ありません。ご注意ください。
もし正確な地点・位置をご存知の方がいらっしゃい
ましたら修正登録していただければ幸甚です。
陶晴賢(すえはるかた)が毛利元就との厳島合戦に敗れて自害したという場所は、諸説ありますが、一つの説として、毛利軍に追われて多々良浦から高安ヶ原を通って島の反対側の青海苔浦に出て、舟で島を脱出することを企てたのですが、舟がみつからなかったため、再び高安ヶ原に戻り、もうこれ以上逃れられないと悟り1555年10月1日、この場で自害したとか。この石碑は、その戦跡を調べた歴史学者の瀬川秀雄氏が1921年(大正10年)に建立しました。もう一説は、厳島合戦当時の厳島神社棚守であった房顕の覚書には陶晴賢の自害の場所は大江(大江浦)とあります。
陶晴賢 辞世の句
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
この有様に 定まれる身に
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陶晴賢碑
(碑銘:高安原 陶晴賢敗死之所)
ありません。ご注意ください。
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陶晴賢(すえはるかた)が毛利元就との厳島合戦に敗れて自害したという場所は、諸説ありますが、一つの説として、毛利軍に追われて多々良浦から高安ヶ原を通って島の反対側の青海苔浦に出て、舟で島を脱出することを企てたのですが、舟がみつからなかったため、再び高安ヶ原に戻り、もうこれ以上逃れられないと悟り1555年10月1日、この場で自害したとか。この石碑は、その戦跡を調べた歴史学者の瀬川秀雄氏が1921年(大正10年)に建立しました。もう一説は、厳島合戦当時の厳島神社棚守であった房顕の覚書には陶晴賢の自害の場所は大江(大江浦)とあります。
陶晴賢 辞世の句
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
この有様に 定まれる身に
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陶晴賢碑
(碑銘:高安原 陶晴賢敗死之所)
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