九州・沖縄
塚山古墳
大分県
最終更新:らる
基本情報
場所 | 北緯33度27分13秒, 東経131度43分13秒 |
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所在地 大分県国東市安岐町大字塩屋字塚山
所有者 国東市
年代 六世紀後半
大和政権の支配体制が四世紀後半以降ほぼ確立すると、わが国は大陸 や朝鮮半島に対外政策を進めた。この対外政策は、大くの大陸文化をも たらす結果となり、特に横穴式石室・金銅製品・須恵器の導入をみた。 この横穴式石室は五世紀後半に大陸の影響を受け北九州に発生するが、 六世紀代には在来の墓制の影響も受けながらほぼ全国的に広がりを見せる。 最盛期の横穴式石室は内部構造の中で最も普遍的なものとなり、石室は遺骸を納める玄室と、外部からの通路である羨道からなる。
塚山古墳が造られた時期は、大分県 内に横穴式石室が最も集中する六世紀 後半のものである。玄室奥行一・八m、幅三m、高さ四・ 五mで全長五mを測る。石室の内部構 造は、極端な長方形と天井までの高さ は他に類例の少ないものであり、 高度 の技術を用いたことが推測できる。 副葬品に鉄刀、短甲などがある。
(出典:安岐町教育委員会 平成五年三月)
所有者 国東市
年代 六世紀後半
大和政権の支配体制が四世紀後半以降ほぼ確立すると、わが国は大陸 や朝鮮半島に対外政策を進めた。この対外政策は、大くの大陸文化をも たらす結果となり、特に横穴式石室・金銅製品・須恵器の導入をみた。 この横穴式石室は五世紀後半に大陸の影響を受け北九州に発生するが、 六世紀代には在来の墓制の影響も受けながらほぼ全国的に広がりを見せる。 最盛期の横穴式石室は内部構造の中で最も普遍的なものとなり、石室は遺骸を納める玄室と、外部からの通路である羨道からなる。
塚山古墳が造られた時期は、大分県 内に横穴式石室が最も集中する六世紀 後半のものである。玄室奥行一・八m、幅三m、高さ四・ 五mで全長五mを測る。石室の内部構 造は、極端な長方形と天井までの高さ は他に類例の少ないものであり、 高度 の技術を用いたことが推測できる。 副葬品に鉄刀、短甲などがある。
(出典:安岐町教育委員会 平成五年三月)
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