奥多摩・高尾
奥牧野城山(おくまきのじょうやま)
神奈川県
山梨県
最終更新:へるにゃん
基本情報
標高 | 278m |
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場所 | 北緯35度34分56秒, 東経139度07分32秒 |
前川橋(歩車ともに通行止め)南詰の解説板より
この城山は、相模国の最西端に位置し、三方を秋山川に囲まれた要害の地にあります。戦国時代(後北條の頃)には、甲斐武田氏に備える北條方の出城であり、武田・北條の合戦の地でもありました。
城山の後方には約百坪程の平地があり、「武者屋敷」と言い伝えられております。又、この上の高台(舟久保東端)には、周囲四十メートル、高さ一メートル程の塚があり、土地の人はこれを「傘松塚」と呼んでいます、甲斐国志・古蹟部には次のように記されています。
『一(古塚)秋山村 一子澤の東、犬橋と云う地にあり。土人相云う、古乱世の時、甲相の兵此地に決戦の事あり。戦死の者を集めて一同に此地に集めて一同に此地に埋め、塚を築き、其上に松樹を植えて其表とすと。但し、時代何れの世に当るを知らず。近世其傍より塚崩れて矢の根或いは鎖帷子等出でし事あり。又、塚上の草木を採れば必ず祟ありとて、土人之を恐れてとらず。此の東、秋山川の向岸に城跡あり。周囲一町(約百メートル)余り、堤防今に存せり。河東は相地なれば是北條氏の城砦にして甲軍に備に置ける城なるべし』(ママ) これがこの城山です。
合戦の後、武田方は一古沢犬橋に、北條方は舟久保の地に死者を埋め、塚を築き手厚く葬ったのでありましょう。
平成元年二月 藤野町教育委員会
この城山は、相模国の最西端に位置し、三方を秋山川に囲まれた要害の地にあります。戦国時代(後北條の頃)には、甲斐武田氏に備える北條方の出城であり、武田・北條の合戦の地でもありました。
城山の後方には約百坪程の平地があり、「武者屋敷」と言い伝えられております。又、この上の高台(舟久保東端)には、周囲四十メートル、高さ一メートル程の塚があり、土地の人はこれを「傘松塚」と呼んでいます、甲斐国志・古蹟部には次のように記されています。
『一(古塚)秋山村 一子澤の東、犬橋と云う地にあり。土人相云う、古乱世の時、甲相の兵此地に決戦の事あり。戦死の者を集めて一同に此地に集めて一同に此地に埋め、塚を築き、其上に松樹を植えて其表とすと。但し、時代何れの世に当るを知らず。近世其傍より塚崩れて矢の根或いは鎖帷子等出でし事あり。又、塚上の草木を採れば必ず祟ありとて、土人之を恐れてとらず。此の東、秋山川の向岸に城跡あり。周囲一町(約百メートル)余り、堤防今に存せり。河東は相地なれば是北條氏の城砦にして甲軍に備に置ける城なるべし』(ママ) これがこの城山です。
合戦の後、武田方は一古沢犬橋に、北條方は舟久保の地に死者を埋め、塚を築き手厚く葬ったのでありましょう。
平成元年二月 藤野町教育委員会
山頂 |
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