埼玉県の山50
奥武蔵
埼玉県
最終更新:hirohisa
基本情報
標高 | 466m |
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場所 | 北緯35度58分27秒, 東経139度13分51秒 |
大築城跡である。
以下、山頂に掲示されている旧都幾川村の説明(誤字原文ママ)。
大築城跡(おおづくじょうあと)
この城跡(しろあと)は、本郭(ほんぐるわ)が標高四六五メートルの地にあり、周囲の斜面には郭(くるわ)やそれを結ぶ通路、防備のための空堀(からぼり)などが残つおり、中世の山城(やまじろ)としては県内でも有数の規模と遺構(いこう)を誇るものである。
大築城は、小田原北条氏の家臣、松山城主上田朝直(うえだともなお)が、一山七五坊を有し関東屈指の大寺院であった天台宗関東別院慈光寺を攻略するに際して築城し、北方五キロメートルに望む慈光寺を焼き打ちしたものと考えられている。
なお、この山の周辺には、遠見(とおみ)、馬場(ばば)硯水(すずりみず)、大木戸(おおきど)、モロドノクルワなどの地名が残っている。
平成六年三月 都幾川村 都幾川村教育委員会
以下、山頂に掲示されている旧都幾川村の説明(誤字原文ママ)。
大築城跡(おおづくじょうあと)
この城跡(しろあと)は、本郭(ほんぐるわ)が標高四六五メートルの地にあり、周囲の斜面には郭(くるわ)やそれを結ぶ通路、防備のための空堀(からぼり)などが残つおり、中世の山城(やまじろ)としては県内でも有数の規模と遺構(いこう)を誇るものである。
大築城は、小田原北条氏の家臣、松山城主上田朝直(うえだともなお)が、一山七五坊を有し関東屈指の大寺院であった天台宗関東別院慈光寺を攻略するに際して築城し、北方五キロメートルに望む慈光寺を焼き打ちしたものと考えられている。
なお、この山の周辺には、遠見(とおみ)、馬場(ばば)硯水(すずりみず)、大木戸(おおきど)、モロドノクルワなどの地名が残っている。
平成六年三月 都幾川村 都幾川村教育委員会
山頂 |
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