小谷山(過去レコです)。


- GPS
- --:--
- 距離
- 4.9km
- 登り
- 416m
- 下り
- 431m
天候 | 曇り。 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
危険個所はありません。 |
写真
感想
織田信長が美濃國の斎藤龍興を攻めるにあたって、北近江國の浅井長政と同盟を結び、妹お市を輿入れさせた。その頃京では、将軍足利義輝が暗殺され、従兄の足利義栄が擁立された。義輝の弟義昭も暗殺されそうになったが、京を逃れ、越前の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし義景は義昭の望む上洛戦に冷淡であったため、義昭は美濃の信長に接近。信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の義昭を奉戴し、上洛を行なった。義昭は第15代将軍となり、その後信長は伊勢も攻略。信長の2度に渡る上洛命令を拒否する朝倉義景を打つため、浅井長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康の軍とともに越前に進軍。次々と攻略していくが、途中で長政が寝返ったのを知り撤退。2ヶ月後、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで破り、浅井方の横山城を陥落させた。浅井・朝倉は比叡山延暦寺を巻き込み、その後も信長に抵抗し続けた。姉川の戦いから3年後、信長は3万の軍勢を率いて朝倉側の砦である大嶽砦を攻め、これにより朝倉軍は大敗して砦から追われる。越前へ撤退する義景は信長に追撃され、刀根坂の戦いで壊滅し、朝倉義景は自刃した。信長は続いて小谷城を攻略し、浅井久政・長政父子は自害。お市らは落城前に逃げ伸びて信長が引き取った。
以上、織田信長と浅井長政の関係を簡略に記したが、おそらくはNHK大河ドラマ「江」では、こんな話しが展開したものと思われる。2週間以上前であるが、賤ヶ岳の帰りに通った浅井の町には、「江」の幟が立ち並び、観光バスが連なる大きな駐車場は、溢れ返る程の人で埋め尽くされていた。わたしは大河ドラマは見た事も無いが、「新・分県登山ガイド 滋賀県の山」から、手頃な山ということで選んだのが小谷(おだに)山であった。「江」も最終回を終え、一週間が経った2011年12月11日、朝8時半、駐車場には一台も車は見られず、誰ひとり人の姿は見えない。小雨降る中、カッパの上下を着込んでいざ出発。登山口である大手道は遮断され、「松茸山につき入山を禁ずる。期間9月15日より11月30日まで」、と立て札がある。今は禁止期間外、8時40分、登山口に入る。石の上に濡れ落ち葉が降り積もった道を登る事5分程で、「出丸跡」に登る。尾根に連なる小谷城の最先端の曲輪(くるわ)で、そこからは城下を見渡す事が出来る。清水谷からの追手道を合わせ、間柄峠に着く。「江南の六角定頼が小谷城へ来攻した際、浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。越前軍が布陣した地をそれぞれ金吾丸・真柄峠と称するが、地元では古くから間柄峠と呼ばれている」、と記されている。浅井亮政は長政の祖父であり、すでにこの頃から朝倉・浅井同盟があったことが判る。金吾丸は一段高い場所にあり、それに続く階段を5分程登る。金吾丸の先は下りとなり、広い「番所跡」に降り立つ。すぐ上の曲輪は、「お茶屋跡」、小谷城主郭部最先端の曲輪である。その上は、「馬洗池」・「御馬屋跡」。馬洗池には水が張り、御馬屋は土塁で囲まれた要塞である。これを抜けると、「首据石」。「初代亮政は六角氏との合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺しここに首をさらしたと伝えられる」、と札が立てられている。「赤尾屋敷跡」への道を分け、「桜馬場」に至る。ここから、信長の本陣があった虎御前山を見張っていたということだが、見れば虎御前山は至近距離。信長が陣取ってからは、毎日気の休まる日はなかったものと思われる。そこから4m積まれた石垣の上に「大広間跡」があり、その入口は「黒金門跡」。大広間には建物跡が検出されており、浅井3姉妹の江はここで生まれたとされている。大広間の奥は一段と高く、ここが本丸で落城寸前まで長政が住んでいた。本丸の東西下は土塁で遮断され、敵が側面を回れないようになっている。北側には大堀切があり、さらに奥の曲輪と遮断されている。大堀切の向こうには3段構えの曲輪「中丸(なかのまる)跡」、その最上段に刀洗池がある。中丸の上には4段構えの「京極丸跡」。西側に虎口があり、清水谷から登る「水の手」につながっている。小谷城落城の際、秀吉軍が攻め上がった道である。京極丸の上には「小丸跡」、ここは二代城主久政が引退したあとに居住していた所である。秀吉が京極丸を落とし、長政の籠る本丸と久政の守る小丸の間が分断され、久政はここで自刃した。長政は本丸から討って出るが、大堀切で信長軍とぶつかり、本丸に帰ることが出来なくなった。長政は大堀切を下りて、家臣の赤尾清綱の屋敷に入り自刃する事になる。小丸の上には四段からなる小谷城の詰の丸、「山王丸跡」がある。秀吉は小谷城を落した後、この城を与えられ三年間ここに住んでいたが、この間に長浜城を築き、この城の石垣を砕いて持って行ったと云う。あとは誰もこの城を使えないようにして出て行く事を、「破城」という。その痕跡が今も残っており、虎口には石垣が散乱している。山王丸から急坂を下り、「六坊跡」を過ぎると、間もなく清水谷からの道を合わせる。歴史的なものは無くなり、急な階段をえっちらおっちら登る。灌木に囲まれた登山道、周囲の眺望は無いが、途中「岩尾」という展望ヶ所がある。そこからは琵琶湖が望め、竹生島も見える。振り返れば、辿って来た曲輪の連なる山が茶色く染まっている。階段はなくなり、清水谷との合流部から20分で頂上に登り着く。ここは、「大獄(おおづく)城跡」。小谷城落城の以前は朝倉援軍の砦であったが、信長の3万の軍勢に攻められ大敗し砦から追われた。こんな狭い場所ではそう大勢の兵士が居られる筈は無く、3万もの信長軍に囲まれればひとたまりも無かったものと思われる。丸太に腰を降ろし、コーヒを飲みながら初冬の頂でひとりのんびり。下りは清水谷を通る。名前が付けられた大岩、まずは、「布袋岩」、次いで「八畳岩」に「蛙岩」、そして「丸子岩」。浅井家重臣の武家屋敷跡、「土佐屋敷跡」、「三田村屋敷跡」を経て、浅井三代の城主やお市の方が暮らした「屋敷跡」に着くと道は平坦となる。その後も、「山城屋敷跡」、「遠藤屋敷跡」、「木村屋敷跡」と続き、「小谷城戦国歴史資料館」に着く。振り返れば小谷山が全貌を現している。山裾を回って車に帰り着いた時は11時46分、3時間ちょっとの山歩きであった。
近くの「あねがわ温泉」で汗を流し、ゆっくり温泉につかって身体も心もリフレッシ
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