藤原京から大和三山を見る+龍王山古墳群展(橿原市歴史に憩う博物館)


- GPS
- --:--
- 距離
- 15.6km
- 登り
- 15m
- 下り
- 15m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
写真
感想
橿原市歴史博物館で龍王山古墳群に関する展示と講演会があるので出掛けてみた。いつものように新横浜6時発のひかりで京都に向かう。伊吹山は勿論のこと、琵琶湖の周りの山々もうっすら雪化粧していた。
京都で近鉄特急に乗り換え、大和八木駅乗換で橿原神宮前に出る。途中で財布のお金が少ないことに気付き、倹約旅にする必要を悟る。明日の龍王山は、雨がちだしロッカーに荷物を預ける場所を探すしかないが今日のチャリ旅は荷物を預けずに走るかなー。でも電動チャリ代を払ってお釣りに百円玉五枚来たのを見てやはり駅前のロッカーに荷物を預けて出発。まずは藤原京朱雀門跡に立ち寄る。平城京朱雀大路が道幅74メートルもあったのに対して藤原京は、21メートル、それでも相当広いが、その後の遣唐使が見た長安の都に比べ物足りないと感じたのか、わずか16年で平城京に移ってしまった。その理由は諸説あるが、天智天皇や天武の頭の中には常に対中国外交があったに違いない。負けまいと頑張ったのだ。昨日の茅ヶ崎市での律令国家展と奈文研の井上氏の講演を思い出す。
奈文研の藤原宮資料館では、ロビー展示として、近年調査された日高山瓦窯跡の瓦が並び、早速ボランティア解説員の方が説明に来られた。先に見た朱雀門跡のすぐ近くらしい。また次には藤原京造営時に一部壊されたり移築された日高山古墳群出土の円筒埴輪などが並ぶ。推古天皇は、朱雀大路建設の際にこれらの古墳を大切に扱い、必要な場合は、お墓を移設するよう命じたらしい。この時期の為政者がこうした過去のお墓をどのように見ていたのか興味深いエピソードだ。藤原京に使われた瓦についても足りなくなるとかなり遠隔地から運んだという。藤原宮の巡る塀に付けられた瓦など、この時期の様々な寺院の瓦と共に展示されていた。また、こうした藤原京で使われた巨大な木材が平城京で別の目的で転用されていることのわかる一定間隔で穴の開いている材も展示されていた。その他、古墳時代には存在した首長以下の大豪族集団が解体され、上層貴族には、政府が派遣する家政組織を取り持つ職員が大勢いたようだが、地方豪族層や古墳時代の有力者の家にも派遣されたのではなくともそうした人々が働いていたのだろうか?
こうした変化の中で、政府と豪族の力関係は大きく変化し、中央集権の律令国家体制が形成されて行ったのだろう。
参考=日高山瓦窯跡出土瓦(奈文研HP)
藤原宮に瓦を供給した瓦窯は奈良盆地内外に複数存在しますが、日高山瓦窯は宮に最も近く、また、藤原宮の造営過程の中でも初期段階に操業していた窯であることが、これまでの研究から指摘されています。
日高山瓦窯では3基の瓦窯が既に知られており、今回の調査で基の瓦窯を新たに確認し、合計6基の瓦窯の存在が明らかになりました。窯の数はさらに増えるとみられます。
日高山瓦窯は従来型の窖窯と、藤原宮造営段階に新たに導入された平窯を併用することが知られてきました。今回の調査では、窖窯と平窯を組み合わせたような窯(5号窯)も含まれるなど、これまで考えられてきたより個体差があることが明らかになりました。瓦葺き宮殿の造営という一大プロジェクトを前に、新型の瓦窯を取り入れつつ、なんとか生産に対応しようとした、日高山瓦窯の瓦工人たちの試行錯誤がうかがえるような成果を上げることができました。今後は出土した瓦の検討をさらに進めていく予定です。なお、今回の調査で出土した瓦とこれまでに藤原宮内で出土した瓦を集めた展示、「日高山瓦窯の瓦」を、藤原宮跡資料室にて開催しております。こちらもぜひお越しください。(奈良文化財研究所HPより)
奈文研藤原宮資料館を後にして、藤原宮大極殿跡などを見学し、橿原市藤原京資料室に立ち寄りる。藤原京は、平城京ほどは史跡整備は、進んでいないが大極殿や朝堂院の門跡に位置を示す柱が立っている。平城京とほとんど変わらない規模で都が造営されたようだ。16年で平城京に移ってしまったのは、惜しい気がする。東西四つの門を巡り、橿原市藤原京資料館に向かう。ここは奈文研以外に橿原市でも発掘調査があり、その出土品などを展示している。発掘調査の規模が小さいのであまり多くの遺物展示はなくやや拍子抜け。次の日高山瓦窯跡に向かう。先の朱雀門跡のすぐ南側の小高い丘の下に遺跡表示があった。
日高山瓦窯跡から橿原神宮前駅に戻る途中、本薬師寺跡があった。巨大な礎石が狭いスペースにいくつもあり、当時は広い伽藍が存在したであろうと想像する。橿原神宮前近くのカフェで、ランチ。腹ごしらえをして再びチャリで橿原市歴史博物館に向かう。途中、近世の堤のような土手の遺跡も公園の中にあった。
さて、新沢千塚古墳群が見えてきて右側の施設内にチャリを停め、エレベーターで施設内に入るとそこは、橿原市のシルクの杜で、教室や体操などの会場となっており博物館ではなかった。これまで二度ほど訪問したが、いつも施設の位置や繋がりが飲み込めていない。午後の講演会は、ここで行われるようだ。時間も二時でなく一時半だった。十二時半から受付が始まると言うのであと30分急いで展示を見に行く。
企画展の龍王山古墳群は、展示品は多くないが、後期から終末期の群集墳とは、どのようなものか理解しやすいように整理されていた。比較として、龍王山初源と同時期、6世紀後半の牧野(ばくや)古墳の横穴式石室と出土品の展示、解説があり、規模、墳形、副葬品で階層を示す古墳の論理が示された。次に龍王山古墳群の中でも発掘調査がなされたD.C.E群についてそれぞれ展示と解説があり、墳形は最初に円墳、方墳があり、この時期には畿内では、既に前方後円墳は、無くなり、あってもごく小さいものになっている。ただし、副葬品は須恵器などの他、金銅製馬具や銀製太刀なども入っていてそれなりに階層性を表現している。また、方墳などの古墳のそばには小石室と呼ばれる小さな墓があり、この集団に属する下の階層の人々らしい。しかしその後、薄葬令がでて、お墓も横穴墓に移行し、副葬品は土器だけになって行く。横穴墓は、正面から見ると横穴式石室を模してあり、それなりの階層性の表現はあるものの、次第にその効力は失われ、奈良平安時代まで墓域は続き、火葬墓となって行く。この龍王山古墳群は、飛鳥時代以降王権の上位役人層を中心とした墓域と見られ、物部氏や柿本氏等が想定されているようだ。
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