百済寺・百済王氏(こにきし)遺跡巡り(枚方市)
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- 距離
- 15.2km
- 登り
- 45m
- 下り
- 44m
天候 | 曇りのち雨 |
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過去天気図(気象庁) | 2024年04月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
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写真
感想
今日は橿原考古学研究所付属博物館友の会の百済王氏関連遺跡巡りの日だが、大阪狭山池でも狭山池検討会が開催されるので、百済寺関連遺跡は自分で回ることにした。五時半前にホテルを出て恵美須町のすき家で定番の卵かけご飯朝食で腹を満たし、京阪で牧野駅に出る。牧野駅東駐輪場でチャリを借り、まず河埜神社に向かう。この神社は平安時代の延喜式で式内社とされ、本殿は秀吉が再建した豪華な桃山様式で、重要文化財に指定されているようだ。隣の牧野公園からは、大量の古代瓦が出土し、西寺と書かれた文字瓦も出て、瓦が生産を行った窯跡ー牧野阪瓦窯跡が存在したらしい。しかし何の標注も解説板もなかった。次に九頭神廃寺跡にむかった。
ここは、北河内では最も古い古代寺院として高句麗系の瓦が出土することでも知られるが周囲は宅地開発が進み、実態が良くわかっていない。
近年周辺の発掘調査が進み、寺院遺構のほかその下の層からも豪族の居館か寺院のような遺構も検出され、この地域の古代から古墳時代末の様子が少しづつ解明されつつあるようだ。縄文時代の痕跡もあるらしい。
参考(枚方市のHP解説)
ザ綟神廃寺史跡公園(クズガミハイジシセキコウエン)
九頭神廃寺は飛鳥時代後期から奈良時代にかけて建立された古代寺院で、平安時代に廃絶したものと考えられています。字「ドンドン山」付近では、明治20年代銅造(ドウヅクリ)誕生釈迦仏立像(タンジョウシャカブツリュウゾウ)(市指定文化財)が発見されたほか、昭和8年には焼けた土壇(ダン)とともに鉄釘や青銅製品などが出土し、確かな古代寺院存在の証が得られました。しかしその後、付近一帯は宅地化され、時には幻の古代寺院などと呼ばれることもありました。
昭和58年以降、発掘調査を精力的に実施し、塔跡(瓦積基壇(カワラヅミキダン))が発見されたほか、周辺部でも建立氏族の居館と目される、大型掘立柱建物群(第168次調査)が検出されるなどの発見が相次いでいます。延喜式内社久須々美(エンキシキナイシャ クススミ)神社(氏神)が寺院地の南西角部に隣接して造営されていたことも判明しており、付近一帯は寺院(氏寺)を取り巻く古代の景観を具体的に復元できる、重要な地域として注目されます(図1)。
平成17〜19年にかけて実施した第206次調査では、寺院地の北西域の外郭施設や内部施設が良好な状態で見つかりました(図2)。外角施設としては、西面大垣(SF2・3)によって区画された二つの付属院地(倉垣院(ソウエンイン)と北西院)と寺院地内道路などがあります。付属院地は、塔などの中心伽藍周辺部に造営された寺院経営にかかわる施設で、さまざまな役割に分かれていたと考えられています。これら付属院地の検出は地方寺院では初の検出例となるもので、その意義には計り知れないものがあります。
ここに大阪府などの関係機関の御協力を得、倉垣院を中心とする範囲と外郭施設の一部の永久的な保存を図り、「市指定史跡 九頭神廃寺」として整備することとなりました。生きた歴史教育の場として、かつ地元の皆さまの憩いの場として広く活用されますことを切望致します。
平成22年3月 枚方市教育委員会
粟倉瓦窯跡の解説板にある粟倉寺跡は未発見だが、辺り一帯はアゼクラ遺跡として認知されており、弥生時代から室町時代までの様々な遺跡が存在しているようだ。その一つがアゼクラ横穴墓群で、瓦窯跡から少し裏に回ると、コマツの大阪工場があり、そのグランドの奥の斜面から横穴墓が発見されたようだ。枚方市の北側にある京都府内にも同様の横穴墓群が続いていて、その延長にあるようで、この地域の古代の状況を知るうえで重要らしい。グランドは厳重に鉄網柵で囲われて、中の様子をうかがうことはできない。やむなく次の目標、渚ノ院と御殿山神社に向かった。
渚の院は9世紀、皇位争いに敗れた失意の惟喬親王が交野遊猟に用いた別荘らしい。その遺構を守るためか、遺構の入り口には鉄網柵で守られた中には入れなくなっている。隙間から中をのぞいて撮影、何やら鐘つき堂のようなものが見えるが何か関係あるのだろうか?
次に向かった御殿山神社は、この渚ノ院跡と関連すると思われる平安時代前期の掘立柱建物が神社南側から検出されたようだ。どこが入口かわからず、御殿山の麓側から石段を登って神社に出たら、上から直接入口に出る道と合流、渚ノ院跡からもこの御殿山は見えているので、このあたり一帯の遺跡が注目される。神社そのものは渚ノ院跡にある観音寺境内に隣接した粟倉神社の御旅所が起源という。御殿山の山頂にある神社境内からは周辺の家並みがよく見え、また本殿前に置かれたクレマチスの花がきれいだった。
参考=渚の院は9世紀、惟喬親王が交野遊猟に用いた別荘とされている場所である。
惟喬親王は文徳天皇(在位:850〜58年)の第1皇子で、藤原氏を外戚とする惟仁親王(後の清和天皇)との皇位争いに敗れ、その憂さを晴らすため、在原業平らとしばしば渚の院に来ており、『伊勢物語』82段には「いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり」と記されている。
紀貫之が淀川をさかのぼり、京に向かう途中、渚の院のかっての有様をしのんで『土佐日記』2月9日条に「かくてふねひきのぼるに、なぎさの院といふところをみつゝゆく。その院むかしをおもひやりてみればおもしろかりけるところなり。しりへなるをかには、まつのきどもあり。なかのにはには、むめのはなさけり」と記している。
院は後に観音寺と呼ばれる寺院が建立されたが、明治初年の神仏分離で廃寺となっている。現在その跡地には鐘楼と鐘が残されており、枚方市の文化財の指定を受けている。
渚院跡、御殿山神社から禁野本町遺跡に向かう。いよいよ百済寺跡が近くなり、禁野本町周辺は古代の百済王氏一族らが居住する碁盤目状の渡来系の王族を中心とする都市が建設されたようなのだ。
まず御殿山から南下して禁野本町方面に向かうと、途中土塁のようなものが目立つので近寄ってみると、戦時中の禁野火薬庫の跡の土塁だった。130年近く前の大村益次郎による構想から生まれた歴史を持つが、多数の死者を出す二度の大爆発という悲しい歴史も持っているらしい。
さて、禁野地域には、百済王氏関連遺跡が多数残されているようだ。ただ、市街地開発で、断片的にしか発掘されず、全体像は不明だったが、近年の発掘調査で、道路遺構など百済王氏一族が居住する碁盤目状の都市の姿が次第に明らかにされつつあるようだ。
偶然、徒歩コースでナビを検索したらアミティ中宮北町というマンションの中の露路を通過することになり、このエリアにも百済王氏関連都市遺構が散在することがわかった。途中、「アミティ中宮北町」内にある禁野本町遺跡に関する案内板があり、様々な遺跡、遺構の断片があちこちに広がっているようだ。
同じ敷地内に関連道路遺構発見の案内板も出ていた。
最後に禁野本町遺跡公園に出た。
参考1(wikipedia)=禁野火薬庫(きんやかやくこ)とは、現在の大阪府枚方市禁野本町にあった日本陸軍の火薬庫の通称である。
概要
大村益次郎が構想、1896年10月に完成し、綿火薬庫、弾薬庫等の建物が20数棟建てられた。1933年には43ヘクタールの規模となる。1938年、禁野火薬庫に隣接して陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設、砲弾・火薬製造の一大拠点となる。2度の爆発事故により、1940年には新しく開設した大阪陸軍兵器補給廠祝園支処へ一部の施設が移転された。
1956年跡地には中宮団地が造成された。現在は記念碑として火薬庫を囲んでいた延焼防止用の土塁が残されている。軍用鉄道跡は枚方市の愛称道路「中宮平和ロード」と名付けられ、軍用電柱や陸軍用地の石柱が保存されている。 枚方市立中央図書館1階平和資料室に禁野火薬庫の詳しい展示がある。
参考禁野本町遺跡(大阪府HPより):禁野本町遺跡(きんやほんまちいせき)
更新日:2017年3月30日
所在地:枚方市禁野本町(きんやほんまち)
種類:集落跡
時代:6世紀後半、8世紀後半から10世紀
調査期間:平成23年6月10日から平成23年12月27日
主な遺構:6世紀後半:竪穴住居、土坑(どこう)など
8世紀後半から10世紀:掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、土坑(どこう)、道路側溝、溝など
主な遺物:土師器、須恵器、陶器、磁器、瓦など
禁野本町遺跡(きんやほんまちいせき)の南側には奈良時代から平安時代の百済王氏(くだらのこにきし)の氏寺と考えられる「百済寺跡(くだらじあと)」があり、本遺跡はその一族の居住域と推定されています。
調査区は、府道に沿う東西約105メートル、幅6メートルから10メートルの範囲です。中央部分で、南北方向の浅い谷地形が確認でき、その両側で居住域(東・西居住域)が見つかりました。
東居住域では、柱穴群と南北に並行する2条の溝状遺構が見つかりました。写真の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)は北側調査範囲外にのびます。また溝状遺構は、道路側溝と考えられます。他に6世紀後半の竪穴住居と小さな土坑(どこう)も確認されています。
西居住域では、多数の大きな柱穴が密集して見つかりました。庇を備えた立派な掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)も確認しています。東西方向の溝状遺構は、道路の北側の側溝の可能性があります。
枚方・禁野本町遺跡に「方形街区」…裏付ける路面、側溝出土
2023/12/09 05:00
スクラップ
路面や側溝の跡が出土した発掘現場(手前右)。中央奥に百済寺跡の史跡公園が見える(枚方市提供)
路面や側溝の跡が出土した発掘現場(枚方市提供)
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百済王氏の実力示す
枚方市は、市内の 禁野本町きんやほんまち 遺跡(奈良時代〜平安時代中期)で、国特別史跡「 百済くだら寺でら 跡」の北側に碁盤目状に街並みが広がる「方形街区」が形成されていたことを裏付ける路面や側溝の跡が今秋、出土したと発表した。専門家は「造営には当時の都に匹敵する都市計画が必要。この地を治めていた 百済くだらの王こにきし 氏に高い技術力と資金力があり、朝廷との関係も深かったことを示している」と指摘している。(福永健人)
禁野本町遺跡では、過去230回以上の発掘調査で、建物、井戸、道路跡などが多数出土。渡来系氏族・百済王氏の氏寺と考えられる百済寺跡を含め、南北約900メートル、東西約450メートルの範囲で都市があったと考えられている。平城京や平安京のような方形街区の存在が推測されてきたが、これまで道路跡の発掘は遺跡北部の一部に限られていた。
今回、路面や側溝の跡が見つかった場所は、百済寺北門跡から北に約250メートル。北門跡から既に発見されている道路跡までの中間に位置し、南北に延びる道路の全長は約760メートルに及んでいたとみられる。
見つかった路面跡は全体幅約12メートル(推定)の西端約2メートル部分で、側溝は最大幅約3メートル、深さ約20センチ。それぞれ長さ約25メートル分確認され、側溝からは 土師器はじき や須恵器などの土器も出土した。
方形街区形成には、正確な測量などが必要で、当時は都や伊勢の斎宮(三重県)、多賀城(宮城県)など国の重要施設に限られていた。近畿の一都市に過ぎなかった枚方で実現できた背景として、平安京を築いた桓武天皇の影響力があったと推測されている。
桓武天皇は百済系氏族の血を引いており、発掘にあたった市文化財課の井戸竜太主任(38)は「桓武天皇は『百済王らは 朕ちん の外戚』と公言するほど百済王氏を重用し、枚方周辺にもたびたびタカ狩りや儀式などで訪れていた。朝廷の支援もあったのではないか」と語る。
古代の国家形成に詳しい京都府立大(日本考古学)の菱田哲郎教授(63)は「中心軸となる道路が見つかったことで、碁盤目状に一定の計画性を持って古代都市が造られていたことが明らかになった」と話している。
アミティ中宮北町の敷地内をぐるぐる回って禁野本町遺跡を探していると、道路遺構発見地点に出る。
昨年暮に枚方市文化財課は、禁野本町遺跡の一角(アミティ中宮北町敷地内)で百済寺の北門跡から南北に延びる直線道路遺構の一角を発見したと発表、すでに調査された同様の遺構と北門の中間地点で、百済王氏居住地が碁盤目状に整備された都市を形成していた状況を示す重要遺構だという。
アミティ中宮北町から外に出て禁野本町遺跡公園を探す。意外と小ぶりの公園で、中に解説や柱など遺構位置を示すものを見ることができる。百済王氏の居住した都市計画都市の1角とすれば、全体像を頭に描かないと理解しにくいが、桓武の助力を得て巨大な都市を作ったようだ。
参考=産経新聞20231204付記事より)
禁野本町遺跡で幅12メートルの道路発見か、発掘調査で判明
2023/12/4 17:00
道路の一部が発見された禁野本町遺跡の発掘現場=大阪府枚方市
大阪府枚方市文化財課は、禁野本町(きんやほんまち)遺跡の発掘調査で、特別史跡に指定されている百済(くだら)寺跡北門から延びる大規模な道路跡が発見されたと発表した。同寺一帯は約1200年前、碁盤目状の都市が形成されていたとみられており、同課は「裏付ける発見だ」としている。
発掘調査は今年9〜10月に実施。見つかった道路跡は幅約2メートルで、奈良時代後半〜平安時代初期(8世紀後半〜9世紀前半頃)に作られたとみられ、幅約3メートルの側溝もあった。
調査が進む禁野本町遺跡全景(枚方市提供)
調査が進む禁野本町遺跡全景(枚方市提供)
百済寺は、7世紀後半に滅んだ朝鮮半島の「百済」王族の末裔(まつえい)に当たる百済王氏が築いた寺。寺の北側では、これまでも碁盤の目のように整備された道路跡が見つかっており、南端の百済寺を中心に東西約450メートル、南北900メートルの範囲が方形街区で整備されていたと考えられている。
今回の発掘現場は、百済寺の北門とされる場所から北へ約250メートルに位置しており、さらに北側で発見された道路跡と直線でつながっていることが確認された。百済寺跡の伽藍(がらん)配置などを手がかりにすると、道路幅は約12メートルにも達する見込みで、平安京(京都市)の小路と同規模だという
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禁野本町遺跡をめぐった後、最後にいよいよ百済寺跡に向かう。公園から南下してもう少し先だ。小高くなっている大きな敷地が見えてきたので、チャリを中に入れて広大な敷地を見渡す。まず史跡標柱石のある場所に出て全体を概観、松の名残を見て、築地塀の復元を見る。これが最新の復元箇所らしく、枚方市が盛んに宣伝している。さらに築地塀に沿って百済式の伽藍配置を見るーー二塔偽眛押△修譴帽崙押∩留,覆匹南北直線状に並ぶ百済式伽藍配置で走した遺構が復元され、示されている。南門跡と金堂跡を見学し、さらに講堂、僧院などを回る。
最後に禁野車塚古墳を見てから輝きプラザの展示を見るつもりでいたが、予定時間をかなりオーバーしたので禁野車塚は割愛して「きらら」に向かった。
参考=文化財オンラインより
百済寺跡 くだらでらあと
社寺跡又は旧境内 / 近畿 / 大阪府 おおさかふ大阪府 枚方市中宮西之町
指定年月日:19410127 管理団体名:枚方市(昭40・10・7)
史跡名勝天然記念物
解説
字宮山ノ臺地ニ存シ南正面ニ南大門阯アリ其ノ北ニ中門阯、金堂阯、講堂阯アリテ南北中軸線上ニ並ビ金堂阯ノ斜前方ニ二基ノ塔阯東西相對シテ存シ廻廊阯ハ中門阯ノ兩側面ヨリ左右ニ延ビテ東西ニ向ヒ北折シテ塔阯ノ外側ヲ過ギテ北ニ進メリ
南大門阯ハ土壇ノ高サ約一尺ニシテ四個ノ礎石殘存シ中門阯ハ三個ノ礎石及九箇所ニ柱礎下栗石群アリ孰レモ三間ニ二間ノ樓門タリシコトヲ示セリ 塔阯ハ其ノ心礎ノ位置中門阯ノ眞柱筋ヨリ直北約五十九尺ノ線上ニアリテ夫々中軸線ヨリ約百四十一尺離レテ存シ共ニ土壇ヲトドメ基壇周圍ニハ地覆石ヨク殘レリ東塔阯ハ現在二個ノ四天柱礎ト三個ノ側柱礎トヲ有シ方三間ニシテ一邊十七尺九寸ト推定セラル 礎石ハ孰レモ表面ニ徑約二尺ノ圓形造出シヲ設ケ更ニ徑一尺八九寸ノ圓柱座ヲ施シ中央ニ高サ二寸乃至三寸ノ■ヲ突出セリ 西塔阯ハ心礎及四天柱礎二個、側柱礎七個ヲ有シ心礎ハ略圓形ニシテ表面ニ徑二尺九寸二分ノ圓形造出シヲ設ケ更ニ徑二尺六寸四分ノ柱座ヲ施シ其ノ中央ニ高サ二寸徑一尺ニ近キ■ヲ突出セリ 金堂阯ハ兩塔阯ノ中心線上ヨリ約六十五尺離レテ存シ高サ約二尺五寸ノ土壇ヲ有シ土壇周圍ニ專列繞リ五個ノ礎石及十六個所ノ柱礎下栗石群アリ是等ニ依ツテ七間ニ四間ノ堂宇タリシコト推察セラル 講堂阯ハ柱礎下栗石群存シテ其ノ位置推定セラルルモ規模明カナラズ廻廊阯ハ單廊ニシテ礎石ハ西廻廊阯最モヨク殘リ内側列十二個、外側列十個、都合二十二個ノ礎石殘存セリ尚寺阯ノ地域内ヨリ奈良時代末期平安時代初期ノ様式ヲ示ス遺瓦多量ニ出土シ又古錢、鍍金飾金具、塔露盤覆鉢片等ヲ出ダセリ 此ノ如ク堂塔ノ遺阯明暸ニシテ廻廊阯モ殘存シ殊ニ其ノ伽藍配置ガ所謂藥師寺式ヲナス點ニ於テ類少キモノナリ續日本紀ニ桓武天皇交野ニ行幸シテ遊獵シ給ヒシ時百濟王等ニ位ヲ授ケ百濟寺ニ近江播磨二國ノ正税各五千束ヲ施ストアリ 此ノ地附近ハ古ノ交野ノ地ニ屬シテ皇室ノ御遊獵地タリ 且百濟王氏ノ居住ニ關係アル地ナルヲ考フレバ本寺阯ヲ以テ百濟寺ニ推定スルコトヲ得ベシ 河内志ニモ此ノ寺阯ヲ百濟廢寺ト記セリ
字宮山の台地に存し、南正面に南大門跡がありその北に中門跡、金堂跡、講堂跡があって、南北中軸線上に並び、金堂跡の斜前方に二基の塔跡が東西相対して存し、廻廊跡は中門跡の両側面より左右に延びて東西に向い北折して塔跡の外側を過ぎて北に進んでいる。南大門跡は土壇の高さ約1尺で4個の礎石が残存し中門跡は3個の礎石及び9箇所に柱礎下栗石群があり、いずれも3間に2間の楼門であったことを示している。塔跡はその心礎の位置は中門跡の直柱跡から直北約59尺の線上にあってそれぞれ中軸線より約141尺離れて存し共に土壇をとどめ基壇周囲には地覆石がよく残っている。
東塔跡は現在2個の四天柱礎と3個の側柱礎とを有し方3間で一辺17尺9寸と推定せられ西塔跡も亦心礎及び四天柱礎2個、側柱礎7個を有する。金堂跡は両塔跡の中心線上より約65尺離れて存し高さ約2尺5寸の土壇を有し土壇周囲に墫列繞り5個の礎石及び16個所の柱礎下栗石群があり、是等に依って7間に4間の堂宇のあったことが推察せられる。廻廊跡は單廊で礎石は西廻廊跡が最もよく残っている。なお寺跡の地域内より奈良時代末期平安時代初期の様式を示す遺瓦が多量に出土し、又渡金飾金具、塔露盤覆鉢片等が出土している。このように堂塔の遺跡が明瞭で廻廊跡も残存し殊に其の伽藍配置が所謂薬師寺式をなす点において類例少く学術上特に価値が深い。
(同オンライン)S46-12-006禁野車塚古墳.txt: 淀川の南岸、生駒山脈の北西山麓にのびる枚方丘陵のなかにある前方後円墳。全長約110メートルで前方部を西に向けており、周濠その他の施設はない。墳丘上には葺石、円筒埴輪片、形象埴輪片がある。主体部は不明であるが、後円部頂に板石片があり、あるいは竪穴式石室であるかもしれない。淀川流域南岸に残る数少ない前方後円墳の一つであり、淀川が瀬戸内から畿内中心部にいたる主要交通路の一つと推定されることからして、この地域の歴史的発展を示す資料として、この古墳のもつ意義は高い。
参考=枚方市HPより=
第31回輝きプラザきらら文化財展示会「よみがえる百済寺 −復元築地塀完成記念−」を開催中
百済寺(くだらでら)跡は奈良時代後半に百済王の末裔、百済王(くだらのこにきし)氏が建立した氏寺の跡です。薬師寺式に似た伽藍(がらん)配置で、遺構(いこう)が良好に残ることや文献にも天皇の行幸(ぎょうこう)記事とともに登場することから、昭和27年に「国宝」に相当する「特別史跡」に指定されました。
昭和41〜42年(1966〜1967)に史跡公園と整備されましたが、整備後40年以上経過し、老朽化や樹木の繁茂などによる遺構(いこう)の損壊や変形が顕著となったため、平成27年度より再整備工事をおこないました。
令和4年度からは寺院外周の南面と東面の築地塀(ついじべい)を部分的に復元する工事に着手し、このたび、完成の運びとなりました。復元築地塀の完成により、古代寺院のありさまをより体感していただけるものと思います。
今回は、特別史跡百済寺跡の復元築地塀の完成を記念し、百済寺跡を中心とした発掘調査の成果や百済寺跡の再整備工事についてご紹介します。
復元築地塀
在来工法で復元した築地塀
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