橿原考古学研究所「家形埴輪」展と葛城市歴史博物館「竹内街道」展
天候 | 晴れ |
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過去天気図(気象庁) | 2024年06月の天気図 |
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利用交通機関:
電車
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写真
感想
今年は関西方面への旅の多い年、今日は橿原市と葛城市、明日は松山で古代史関連展示と講演を聴講する予定。いつもの通り新横浜朝六時のひかりで京都駅経由大和八木から畝傍御陵前に向かう。八木まで特急を使い九時過ぎに畝傍御陵前駅に着き、すぐに橿原考古学研究所付属博物館に向かった。家形埴輪を集めた企画展はまもなく終了となり間に合った。家形埴輪は大型のものが多く、こうした展示は中々お目にかかれない。橿原考古学研究所付属博物館所蔵の室宮山古墳出土の大きな家形埴輪数点を始め、奈良や大阪ばかりでなく家形埴輪を始めて多数出土調査した関東の赤堀茶臼山古墳の家形埴輪、栃木壬生富士山古墳の縦長のの家形埴輪(関東最大級)など興味深い家形埴輪が多数並ぶ。
また列島最大の家形埴輪を持つ継体天皇の家形埴輪は圧巻だった。
また関東の赤堀茶臼山の家形埴輪は見たことがあるが壬生富士山古墳の家形埴輪はいつか是非見たいものだ。
家形埴輪の柱に関しては特に解説はなかったが
初期は大きな平たい柱の表現があり、途中から大きな丸い柱ーややエンタシス?ーになることの説明が欲しかった。また縦長の家形埴輪が流行った理由も知りたいものだー解説にあるように分割製作法と関係ありそうだがー多分不明であろうか?
今回の図録は製作法の変遷を中心に組み立てたことからいくつか説明が足りていない分野があると書いてある。補うための講演も東京から行くことができなかったので資料を請求するしかないかな?
畝傍御陵前から忍海駅に移動、駅近くの吉野家で麦とろ牛定食を食べる。ムギととろろとオクラと牛のご飯にのせて中々いい感じ、少し高めだがよいランチ。食後すぐ博物館に移動し展示を見る前に午後の講演会の申し込みを確認すると入っていないようだーでも東京からなので申し込みを受けてくださった。よかった。ネットか電車のどちらかをしたように思っていたが〜。危ないところ。受付まで展示を見る。
竹内遺跡は、縄文時代前期や後期晩期の土器などが出ている。
竹内遺跡では、縄文時代のサヌカイトげんせきや石器の製作、移動、交易に関連した人びとが残した石器や土器などが点々と出土しているが弥生時代に入ってもそうした活動は農耕も伴いながら断続的に続いたようだ。古墳時代に近づくとヒトやモノの動きが激しくなり、瀬戸内その他各地の土器も出土するようになる。庄内式土器の時代になると吉備や、山陰、和泉、瀬戸内、東海など多くの地域との交流、交易が益々盛んになった。竹内遺跡は、こうした活動、流通の拠点として栄えたのだろう。
竹内街道沿いにある当麻寺のある地域の、古墳時代には、仏像をあしらった鏡も出土、雄略ら倭の五王時代から中国南朝との交渉を開始し、朝鮮半島、とりわけ百済との関係を深めたが、継体天皇時代に百済王との親密な関係を築き、そのことが記紀の記述や銘文鏡銘文に残されている。その鏡には、仏様を表す光背を描いた人物像ー仏像も描かれている。講演者の千賀久氏は、竹内遺跡周辺の古墳ー群集墳被葬者の一部は交易拠点としての竹内遺跡の施設を管理運営したと思われる百済系渡来人の人々の可能性があり、河内の渡来人とのネットワークを築いて交易により富を得たのかもしれない。彼らはすでに仏教を信仰していた可能性もあり、後に早い時期に当麻寺やその全身の寺を建立したことも容易に理解できる、と氏は推論する。
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