記録ID: 7252111
全員に公開
キャンプ等、その他
東海
清水港と駿府
2024年09月17日(火) ~
2024年09月18日(水)


体力度
7
1~2泊以上が適当
- GPS
- 05:33
- 距離
- 62.9km
- 登り
- 1,350m
- 下り
- 1,591m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
氏純は瀬名氏出身であり、
今川氏一門である関口氏の跡取りが居なくなった為に関口氏を継ぐ事になる。
本名は瀬名義広とも。
実名は親永とも言われているが、他にも“氏”の字を使った名前が幾つかあり、文書では、「関口氏純」と署名されているのが確認されている、とのこと。
氏純は今川義元の妹(との説あり)と結婚して、
間に生まれた娘が家康に嫁いで築山殿となる。
今川氏一門である関口氏の跡取りが居なくなった為に関口氏を継ぐ事になる。
本名は瀬名義広とも。
実名は親永とも言われているが、他にも“氏”の字を使った名前が幾つかあり、文書では、「関口氏純」と署名されているのが確認されている、とのこと。
氏純は今川義元の妹(との説あり)と結婚して、
間に生まれた娘が家康に嫁いで築山殿となる。
文明七年、今川義忠が討ち死にすると、今川家督争いに介入した太田道灌が八幡山砦に入った。
この時、伊勢宗瑞は今川館に入り氏親を守っていた。
後に氏親は今川氏を相続する事となり、氏親は叔父である宗瑞を父のように慕い、
駿府と伊豆・相模は友好関係が続いていたのだった。
この時、伊勢宗瑞は今川館に入り氏親を守っていた。
後に氏親は今川氏を相続する事となり、氏親は叔父である宗瑞を父のように慕い、
駿府と伊豆・相模は友好関係が続いていたのだった。
駿府までやって来ました。
長らく相模は駿河とは同盟関係が続いていた。
氏親亡きあとの家督継承戦争である花倉の乱においても、
北条氏は栴岳承芳を支持していた。
今川氏の家督を義元が継いだのは天文五年の事。
ところが翌天文六年、義元は、それまで対立関係にあった甲斐との抗争を鎮める為に信虎の娘を貰い受ける甲駿同盟を締結してしまう。
これに氏綱は怒り、相模と駿河の同盟関係は破綻、第一河東一乱を勃発させる。
宗瑞の頃からの親密な関係は、ここで崩れてしまう事になる。
天文九年より、織田によって三河が侵され始める。
天文十年、信虎が晴信によって追放され駿府に入るその年、
小田原では氏綱が死去。
同じ年に甲斐と相模は当主が入れ替わった事になる。
長らく相模は駿河とは同盟関係が続いていた。
氏親亡きあとの家督継承戦争である花倉の乱においても、
北条氏は栴岳承芳を支持していた。
今川氏の家督を義元が継いだのは天文五年の事。
ところが翌天文六年、義元は、それまで対立関係にあった甲斐との抗争を鎮める為に信虎の娘を貰い受ける甲駿同盟を締結してしまう。
これに氏綱は怒り、相模と駿河の同盟関係は破綻、第一河東一乱を勃発させる。
宗瑞の頃からの親密な関係は、ここで崩れてしまう事になる。
天文九年より、織田によって三河が侵され始める。
天文十年、信虎が晴信によって追放され駿府に入るその年、
小田原では氏綱が死去。
同じ年に甲斐と相模は当主が入れ替わった事になる。
天文十四年、相模との関係が悪化の一途の中、
西三河の松平広忠が帰順した為、その嫡男竹千代が人質として駿府にやって来る事になるのだが、
十六年、送り届けられる途中で裏切りに遭い、竹千代は織田方に奪われてしまう。
ただ、織田方に岡崎城が落とされた事で広忠が織田に降伏した事から、竹千代が織田方に引き渡された可能性もあるのだそう。
西三河の松平広忠が帰順した為、その嫡男竹千代が人質として駿府にやって来る事になるのだが、
十六年、送り届けられる途中で裏切りに遭い、竹千代は織田方に奪われてしまう。
ただ、織田方に岡崎城が落とされた事で広忠が織田に降伏した事から、竹千代が織田方に引き渡された可能性もあるのだそう。
天文十八年、松平広忠の不可思議な死のあと、西三河地域を巡って織田との抗争が激しくなる。
そんな中、三河安祥城を攻略した事で今川が勝利。
信秀の長子である織田信広を捕える事に成功し、
織田方に囚われていた松平竹千代と人質を交換する事になる。
そして同年、ようやく約束通り竹千代は駿府に置かれる事になる。
そんな中、三河安祥城を攻略した事で今川が勝利。
信秀の長子である織田信広を捕える事に成功し、
織田方に囚われていた松平竹千代と人質を交換する事になる。
そして同年、ようやく約束通り竹千代は駿府に置かれる事になる。
今川としては、織田との戦に集中したいので、北条とは和睦したい思いが強くなり、
武田としては、信濃攻略に集中する為に今川の援軍も欲しいので、北条とまで争っていて欲しくない。
北条としては、北関東を静謐させたい。
との考えが、駿河・甲斐・相模の三国の和睦交渉に繋がっていく。
武田としては、信濃攻略に集中する為に今川の援軍も欲しいので、北条とまで争っていて欲しくない。
北条としては、北関東を静謐させたい。
との考えが、駿河・甲斐・相模の三国の和睦交渉に繋がっていく。
そのように情勢が変化していく中で、
天文廿一年(1552)正月、氏康嫡男氏親が元服しており、晴信の娘を娶る事になっていた。
ところが、氏親が三月に急死してしまった為、急いで次の婚約の手配をしなければならなくなる。
一方で、氏康の娘が今川家に入る事が決まるも、
娘はまだ幼過ぎたので輿入れする事が出来ない。
その為、人質を差し出さなければならなくなる。
天文廿一年(1552)正月、氏康嫡男氏親が元服しており、晴信の娘を娶る事になっていた。
ところが、氏親が三月に急死してしまった為、急いで次の婚約の手配をしなければならなくなる。
一方で、氏康の娘が今川家に入る事が決まるも、
娘はまだ幼過ぎたので輿入れする事が出来ない。
その為、人質を差し出さなければならなくなる。
この時点で、氏康の子女は以下の通り。
天文六年(1537)氏親(15)
天文七年(1538)松千代丸→氏政(14)
天文??年(15??)七曲殿
天文十一年(1542)藤菊丸(10)(大石家に入るのは弘治元年(1555)末頃?)
天文??年(15??)尾崎殿(天文廿三年、千葉氏へ)
天文十四年(1545)助五郎(7)
天文??年(15??)(長林院殿)(太田氏資が北条に降ったのが天文十七年)
天文??年(15??)(蔵春院)
天文十七年(1548)乙千代丸(4)
天文廿一年(1552)現在、人質に出せるのは、
四男である助五郎しかいない、となったのだろうか?
天文六年(1537)氏親(15)
天文七年(1538)松千代丸→氏政(14)
天文??年(15??)七曲殿
天文十一年(1542)藤菊丸(10)(大石家に入るのは弘治元年(1555)末頃?)
天文??年(15??)尾崎殿(天文廿三年、千葉氏へ)
天文十四年(1545)助五郎(7)
天文??年(15??)(長林院殿)(太田氏資が北条に降ったのが天文十七年)
天文??年(15??)(蔵春院)
天文十七年(1548)乙千代丸(4)
天文廿一年(1552)現在、人質に出せるのは、
四男である助五郎しかいない、となったのだろうか?
天文廿三年(1554)、兄の藤菊丸が大石家を継ぐ事になった為、
北条姓を名乗る者の中では、助五郎は次男という扱いを受ける事になったとされる。
天文廿四年、助五郎と同じく駿府に人質となっていた松代竹千代が元服し元信と名乗る。
その年末に改元され弘治となる。
弘治二年(1556)もしくは翌弘治三年(1557)に、元伸は今川一門の関口助五郎親永の娘(後の築山殿)を娶る。
翌弘治四年二月に、永禄に改元した(1558)。
この頃には、元信は祖父松平清康から一字をとって松平元康と名乗り始める。
北条姓を名乗る者の中では、助五郎は次男という扱いを受ける事になったとされる。
天文廿四年、助五郎と同じく駿府に人質となっていた松代竹千代が元服し元信と名乗る。
その年末に改元され弘治となる。
弘治二年(1556)もしくは翌弘治三年(1557)に、元伸は今川一門の関口助五郎親永の娘(後の築山殿)を娶る。
翌弘治四年二月に、永禄に改元した(1558)。
この頃には、元信は祖父松平清康から一字をとって松平元康と名乗り始める。
永禄元年頃に北条助五郎は駿府にて元服し、助五郎氏規と名乗ったとされる。
氏規が小田原では無く駿府で元服したのは、今川一門の扱いを受けていたからとの指摘がある。
氏の字は氏綱・氏康のものでは無く、氏真からの偏諱である、また、規の字は、今川家の通字の一つである憲の音から来ている、とも指摘されているらしい。
ただし、北条家としても、依然として次男扱いだったのではと思われる。
氏規が小田原では無く駿府で元服したのは、今川一門の扱いを受けていたからとの指摘がある。
氏の字は氏綱・氏康のものでは無く、氏真からの偏諱である、また、規の字は、今川家の通字の一つである憲の音から来ている、とも指摘されているらしい。
ただし、北条家としても、依然として次男扱いだったのではと思われる。
数年前より全国的に飢饉が発生しており、
それを機に、永禄二年(1559)、氏康は隠居して家督を氏政に譲った。
それに先立って、越後を遂にほぼ統一した長尾景虎は、
この年、上洛して正親町天皇や将軍義輝に謁見した。
それを機に、永禄二年(1559)、氏康は隠居して家督を氏政に譲った。
それに先立って、越後を遂にほぼ統一した長尾景虎は、
この年、上洛して正親町天皇や将軍義輝に謁見した。
永禄三年(1560)頃には、義元によって氏規は助五郎と呼ばれていた事が判っているらしい。
当時、氏真には兄弟が無く、一門で有力な近親者は、
関口親永(氏純)の兄である瀬名氏俊(貞綱)の子である瀬名氏詮(信輝)しか居なかったらしく、
氏規は、今川の一門衆の有力人物と目されていたと指摘されているらしい。
また、今川家の重臣の人物を氏規の下に付けられてもいる。
また、この頃に、松平元康と同じように親永の娘を娶っていた可能性もあるという。
即ち、家康と氏規は、妻が姉妹であった可能性があるという。
当時、氏真には兄弟が無く、一門で有力な近親者は、
関口親永(氏純)の兄である瀬名氏俊(貞綱)の子である瀬名氏詮(信輝)しか居なかったらしく、
氏規は、今川の一門衆の有力人物と目されていたと指摘されているらしい。
また、今川家の重臣の人物を氏規の下に付けられてもいる。
また、この頃に、松平元康と同じように親永の娘を娶っていた可能性もあるという。
即ち、家康と氏規は、妻が姉妹であった可能性があるという。
ところが、その永禄三年五月に、桶狭間にて義元が討ち死にしてしまう。
松平元康は、攻略した岡崎城の在城を氏真によって認められている。
今川が崩れた事で、越後長尾景虎は関東征伐を開始。
景虎は小田原城にまで攻め込んでしまう。
翌永禄四年、長尾景虎は、上杉政虎と名を改める。
松平元康は、攻略した岡崎城の在城を氏真によって認められている。
今川が崩れた事で、越後長尾景虎は関東征伐を開始。
景虎は小田原城にまで攻め込んでしまう。
翌永禄四年、長尾景虎は、上杉政虎と名を改める。
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