【冬の遠征2】241225の(2) 高天神城跡「高天神城を制すものが遠江を制する」続・日本100名城49
- GPS
- 01:01
- 距離
- 1.2km
- 登り
- 118m
- 下り
- 117m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
感想
本日2つ目である。2つ目は、続・日本100名城に選ばれている高天神城にやってきました。今川が持っていたお城ですが、それを徳川が奪い、武田に取られ、また徳川が奪い返した歴史を持っています。「高天神城を制するものは遠江を制する。」と言われていた名城とされています。
北から登るには「搦手門」、南から登るには「大手門」を活用します。私は北からやってきたので「搦手門」から登ることになります。ここからの坂は階段で一気に登ります。その時にも両側の高いところから攻撃されることになります。急な山を削って作ってあり、しかも高いところと低いところをうまく使い、攻め手は低いところから登らなければならず、守り手は高いところから攻めることができる。そういうところは非常にうまく作ってある上だと思いました。
坂を上って、鞍部にたどり着いてから左に行くと、本丸、三の丸に達し、右に行くと二の丸にたどり着きます。二の丸は兵士の住居が主に置かれていたとされており、本丸は戦うところとうまく分けられていたそうです。看板などを見ると、守備兵はおよそ1000人、それだけの人たちがここに住んでおり、水や食料が備蓄され、守っていたと言うのだから驚きです。住居といっても、一人ひとりの場所は非常に狭く、寝るところもままならなかったのではないかと思われます。
1度は、武田勝頼に奪われてしまったお城、取り返すためには、徳川家康は、まず周りの高地を固めます。という事はお城に威圧を与え、物品の輸送を牽制し、精神的にも参らせる効果があったのではないかと思います。結局徳川家康は、このお城を取り戻しました。しかしながら、このお城はその後破棄されてしまいます。一国一城令のせいです。江戸時代の最中にここに神社ができました。江戸時代の間は宗教的施設としてここが使われ、現在はかつてここであったとを知らせるような施設となっています。
私はここを去ってから、道の駅「とよはし」でお昼ご飯。さらに西に向かいました。道の駅「とよはし」は交通の要所、きっと帰ってくる時にも活用するに違いありません。
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