【過去の記録】 戦場ヶ原周遊 様々な事情で午後から歩く
- GPS
- --:--
- 距離
- 4.5km
- 登り
- 22m
- 下り
- 7m
コースタイム
天候 | 曇り、朝方雨が降っていたが、歩いているときは曇りであった。結構気持ちよい歩きであった。 |
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過去天気図(気象庁) | 2008年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
その他周辺情報 | その後、日光の旅館に宿泊。2日目には二社一寺方面へ。 |
写真
感想
日光戦場ヶ原には、実は何度も行っている。今回の記録はそのうちの一つである。日光男体山の噴火により華厳の滝ができたのが14000年ほど前と推定されている。その後中禅寺湖ができ、その奥に湿原として戦場ヶ原ができた。すべては、日光男体山の噴火から物語は始まっている。
戦場ヶ原の場合、特徴的なのは湯川がせき止められてできた湿原の上に、日光白根山からの火山噴出物が数度にわたりかかっている。これが独特の風土を・風景・植生を作り出しているとされているようだ。もちろん、歩いているときは、どこに火山噴出物があるのかなどは全く分からない・・・。
しかし、この独特の風景が評価されて、ラムサール条約にも登録されている。しかし、昭和終盤よりシカが増えだしたために、防御柵などを作り、自然が破壊されないような対策を取っている。
また、戦場ヶ原という名前の由来は、こんな物語で奏でられる。
当時下野国(現在の栃木県)の二荒神(二荒山(男体山))と上野国(ほぼ現在の群馬県)の赤城神(赤城山)がそれぞれ大蛇(男体山)と大ムカデ(赤城山)に化けて戦った戦場であるというもの。なお争いの原因は中禅寺湖を巡る領地争いで、この伝説で勝ったのは二荒神の孫で弓の名手であった小野猿丸を味方につけた二荒神(男体山)であったとされる。よって、現在も戦場ヶ原・中禅寺湖を含む日光地区は栃木県に属することとなる。という伝説である。
なお、赤沼の由来は戦場ヶ原の伝説に、二荒神に加勢した小野猿丸が放った矢が赤城神大ムカデの眉間を貫き真っ赤な血を流しながら退散した際に水が赤色に染まったことからである。とか、それぞれの場所がこの伝説の中で位置づけられている。
今回は、バスツアーであったので、ガイドさんがこの物語のことを簡単に紹介してくれた。当時北海道から関東に来て3年目の私は一生懸命に聞いていたのである。
今回歩いた戦場ヶ原自然研究路は、湯川沿いに戦場ヶ原を南北に縦貫する環境省が管理する歩道。湯川歩道の一部区間で、木道が整備されている。戦場ヶ原南側の入口は国道120号沿線の赤沼付近、北側の入口は泉門池付近となっており、途中、青木橋を経る。赤沼付近の入口は、赤沼橋の南側から赤沼川の下流方向、竜頭の滝、小田代ヶ原、湯滝方面に向かって西進した地点で、小田代ヶ原および竜頭ノ滝方面との分岐地点である。この分岐を折れ、赤沼川を渡って湯滝方面に向かう。北側の入口は戦場ヶ原地内の泉門池付近である。経路上の木道には所々に戦場ヶ原を一望する展望所が設けられており、ベンチも設置されている。
湯滝付近を除いて全体的に平坦なルートとなっており、また奥日光の自然を手近に触れることができるため、ハイキング客が多い。今回はツアーなので、自分の歩きたいコースを歩けることはなかったのである。今現在(2015年11月)であれば、結構足腰が鍛えているので、もっと長く、もっと遠くまで歩けるに違いない。
今回のツアーでは、横浜駅に9時ごろ集合で、そこから湘南新宿ライン、日光線と乗り継ぐのでハイク開始がこんな時間となった。次の日は二社一寺を見学し、東武特急で東武浅草駅で解散となった。浅草なので「神谷バァ」で電気ブランを飲んだ記憶がある。
で、写真として記録は残っているが、あまり記憶には残っていない。この後は、光徳牧場でアイスを食べて宿に戻り、夕食となった。
なお、観光バスでの移動なので、行きも帰りも国道に路駐し、全員で一気に下り、また全員で一気に乗った。そして、事前に三本松茶屋でトイレタイムの時間を取った。
なお、戦場ヶ原は、今回歩いたコースは初歩もいいとこである。他にも何度か歩いたが、湯ノ湖一周、光徳牧場方面など楽しい歩きも多かった。またそのうち、自分がもっと歩けなくなったら、懐かしい記憶を確かめながらここを歩いてみたいものである。
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