奥武蔵
埼玉県
最終更新:hirohisa
基本情報
標高 | 648m |
---|---|
場所 | 北緯35度56分36秒, 東経139度00分07秒 |
以下、山頂の看板に記載されている内容。
熊倉城跡 県選定重要遺跡
関東管領山内上杉の家老長尾昌賢の死後、山内顕定は昌賢の弟忠影を家老とした。
しかし昌賢の子景春はこれに不満を持ち、文明六年(1474)主家山内家に反旗を翻した。
これを知った扇谷上杉の家臣太田道灌は文明十年(1478)には景春を鉢形城から追い出し、文明十二年六月には景春の籠もる熊倉城を攻め、ついに景春を降伏させた。
熊倉城には井戸がなく、谷津川上流より引水していたが、城攻めの折発見され落城したと言われる。また日野、白久にはこの熊倉城に関する伝説も多く残っている。
熊倉城跡は平地面積11.446平方メートル、二条の大きな空堀や、多くの土塁の跡がうかがわれる山城である。城跡の外周は急斜面がほとんどで、まさに要害の地であったと思われる。
熊倉城跡 県選定重要遺跡
関東管領山内上杉の家老長尾昌賢の死後、山内顕定は昌賢の弟忠影を家老とした。
しかし昌賢の子景春はこれに不満を持ち、文明六年(1474)主家山内家に反旗を翻した。
これを知った扇谷上杉の家臣太田道灌は文明十年(1478)には景春を鉢形城から追い出し、文明十二年六月には景春の籠もる熊倉城を攻め、ついに景春を降伏させた。
熊倉城には井戸がなく、谷津川上流より引水していたが、城攻めの折発見され落城したと言われる。また日野、白久にはこの熊倉城に関する伝説も多く残っている。
熊倉城跡は平地面積11.446平方メートル、二条の大きな空堀や、多くの土塁の跡がうかがわれる山城である。城跡の外周は急斜面がほとんどで、まさに要害の地であったと思われる。
山頂 |
---|
付近の山
この場所に関連する本
この場所を通る登山ルート
この場所を通る登山ルートはまだ登録されていません。