赤城・榛名・荒船
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最終更新:higashino9
基本情報
場所 | 北緯36度15分53秒, 東経138度59分46秒 |
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駐車場 | |
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トイレ | |
水場 |
山の解説 - [出典:Wikipedia]
多胡碑(たごひ、たごのひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)。多胡郡の建郡を記念して和銅4年(711年)ごろに建碑された。国の特別史跡に指定されており、「上野三碑」の一つとして国連教育科学文化機関(UNESCO)の「世界の記憶」に登録されている。また、書道史の上からは日本三古碑の一つとされる。
碑身、笠石、台石からなり、材質は近隣で産出される牛伏砂岩(石質ワッケ)である。台石は戦後コンクリートで固められており、コンクリート上端から笠石の上端までの全高は152.5センチメートル。碑身は高さ129センチメートル、幅69センチメートル、厚さ62センチメートルの四角柱で前面に6行80文字を丸彫りで刻む。碑の下部はコンクリートに埋まっているが、先端を切り落とした角錐形で「國」の一字が刻まれているとされる。
碑文は上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡の三郡から300戸を分けて多胡郡を新設したとの内容で、『続日本紀』和銅4年(711年)3月辛亥(6日)条と一致しており、同書から711年ごろの建立とされる。
台石の上に柱状の碑身を立て、その上に蓋石を載せる多胡碑のような形態の碑は中国ではほとんど確認されておらず、日本国内に那須国造碑(栃木県大田原市)、阿波国造碑(徳島県名西郡石井町、塼製)、浄水寺天長3年銘碑(熊本県宇城市)があるのみとみられる。特に那須国造碑は地理的にも時期的にも近く、関連があると考えてよい。朝鮮には高句麗に柱状で蓋石を持たない石碑(好太王碑、中原碑)が、新羅に板状で蓋石を持つ石碑(北漢山碑)が確認できることから、多胡碑の形式は両者の特徴を受け継いだものである可能性が指摘されている。
多胡碑の笠石と台石は変遷していることが知られている。笠石は2つに割れており、安永3年(1774年)高桑闌更編『俳諧多胡碑集』の図では亀裂の方向は右側面から正面左だが、1878年(明治11年)宮内庁所蔵写真、1952年(昭和37年)尾崎喜左雄『上野三碑の研究』所載図、平成時代で向きが変遷している。戦後の再建の過程などで向きが変わったものとみられるが、笠石の加工などの検討から当初の向きは最も幅の狭い亀裂の入った面が正面に来ると考えられている。周囲も江戸時代には敷石が敷かれていたとされ、「明治十四年四月上野国多胡郡池村古碑上家建築仕様目論見帳」に礎切石代が計上されていることから、1882年(明治15年)頃に木製の「雨覆」や土壇が設置された際に台石も据えられたと考えられている。
1967年(昭和42年)には鉄筋コンクリート製多胡碑覆屋が完成した。
2023年(令和5年)12月から2024年(令和6年)にかけての保存修理で、笠石の亀裂を漆喰や砂岩で修理し、前後が逆になっていた笠石の位置が正しい向きに直された。
通常は覆屋のガラス越しの観覧となる。ただし、碑文にある「和銅4年3月9日」の日付に因んで、その近辺の休日に「多胡碑まつり」が開催されており、その日には扉が開かれ直接見学できる。
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