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平瀬城跡(ひらせじょうあと)

都道府県 長野県
最終更新:まるた
平瀬城跡、2回目の登城
前回上の尾根を下り平瀬城跡に向かった
平瀬城跡から戻って林道からまた山道へ入る 北側斜面は残雪があって雪山ハイクの気分
平瀬城跡への入口があったので寄り道してここも繋げていきます 搦め手から攻めちゃる!
基本情報
標高 716m
場所 北緯36度17分12秒, 東経137度56分53秒
カシミール3D
天文19年(1550)信濃に侵攻した武田信玄に松本(信府)を追われた守護大名小笠原長時が最後の逆襲にかかったが、翌天文20年10月24日深志城から進軍してきた武田方に攻められて城兵204人を討ち取り陥落させた。「信府統記」によればこの丘の上とされるが、204人、それ以上の兵が詰めるには狭いので、この激戦があったのは、奈良井川左岸の下平瀬にある川合鶴宮八幡社付近が平瀬氏居館跡でそこが戦場とも。
展望ポイント

山の解説 - [出典:Wikipedia]

平瀬城(ひらせじょう)は、信濃国筑摩郡(長野県松本市)にあった日本の城。
平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550年)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552年)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。
安曇郡に通じる川手往還沿いにあり、平瀬山の南西に張り出した尾根先にある南城と、北西に張り出した尾根先にある北城からなる馬蹄型の山城であり、両尾根間を泉小太郎伝説で重要地点とされる犀乗沢が流れる。

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