トマノ耳(とまのみみ) / 谷川岳
最終更新:aotty
基本情報
標高 | 1963m |
---|---|
場所 | 北緯36度50分03秒, 東経138度55分48秒 |
谷川岳を成す双耳峰の一つ
最高峰はオキノ耳(1977m)
最高峰はオキノ耳(1977m)
山頂 | |
---|---|
展望ポイント |
山の解説 - [出典:Wikipedia]
谷川岳(たにがわだけ)は群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町の県境(上越国境)にある標高1,977メートルの山。日本百名山、ぐんま百名山、越後百山、新潟100名山の一つ。群馬県の北方、新潟県の南方の上信越高原国立公園・三国山脈にある双耳峰の山。周辺の仙ノ倉山・万太郎山・一ノ倉岳・茂倉岳などを総じて谷川連峰という。広義には、これら周辺の山域の山も含めて「谷川岳」と一体視して呼ぶこともある。一帯がみなかみユネスコエコパークに含まれる。尾根を挟んで日本海側と太平洋側に水系が分かれる中央分水嶺で、ぐんま県境稜線トレイルのコースの一部。
山頂部は二峰に分かれており、それぞれトマの耳(標高1,963m)、オキの耳(標高1,977m)と呼ばれる。トマの耳には薬師瑠璃光如来を祀ったことから薬師岳、オキの耳には富士浅間神社(富士権現)の奥の院を祀ったことから谷川富士の別称がある。元来この山はトマ・オキの二つ耳(耳二つ)と呼ばれ、谷川岳の名は本来は谷川村(現在のみなかみ町谷川地区)を流れる谷川源流にある現在では俎?(マナイタグラ)と呼ばれる山の呼び名であったが、明治時代に作られた陸地測量部の5万分の1地形図(および、それを引き継いだ国土地理院地図)が薬師岳に谷川岳の名を当て、木暮理太郎や武田久吉らは正しい名称での呼称を呼び掛けたが、地形図の表記が定着し、トマ・オキの二つ耳が谷川岳と呼ばれるようになった。
初級者から上級者向けまでの変化に富む登山コースを有し。
一ノ倉沢などの谷川岳の岩場は、その険しさから剱岳・穂高岳とともに日本三大岩場の一つに数えられ、ロッククライミングの聖地となっている。山麓はスキーの聖地でもあり、谷川岳天神平スキー場やホワイトバレースキー場がある。
1960年12月開業の谷川岳ロープウェイが東麓から山稜付近(天神尾根)までを繋いでおり、冬場はスキー客と登山客が同じゴンドラで天神平を目指すことも少なくない。山稜の天神平駅のそばにはレストハウスがあり、簡単な食事も提供されている。
群馬県みなかみ町谷川にある谷川富士浅間神社は、縁起によれば、天授6年(1380年)の鎮座で、中宮の社殿は真田伊賀守によって沼田総鎮守として万治元年(1658年)あるいは寛文3年(1663年)に造営された。奥の院がオキノ耳の少し北にあり、山中の洞窟から発見された永禄8年(1565年)の銘がある懸け仏(御神体)の鏡が置かれていたが、文化財への指定にともない、水上歴史民俗資料館へと移されたのち、氏子総代によって保管されている。毎年4月29日が春祭りで、ここで踊られる奉納舞の太々神楽は真田信幸が慶長6年(1601年)に永楽銭三百貫文を寄進した際に始まったという。奥の院には安政7年(1860年)に作られた鉄板拭きの社があったが、現在は石作りのものに変わった。
元々信仰の山として修験者(山伏)や、地元民らを中心に登られていたほか、東麓を流れる湯檜曽川に沿って古道があり、江戸時代は口留番所によって通行が禁じられていたが、明治時代になって新道が開削され、国道に指定されたものの、新潟県側で土砂崩れや雪崩、路盤の崩落などが起きて2年ほどで通行不能となった(詳細は国道291号および清水峠を参照)。明治9年には陸運会社沼田分社によって一ノ倉沢出合、武能沢出合、白樺尾根に休泊所が作られたが、後に廃止された。
近代における記録に残る登頂は明治時代の陸地測量部による測量隊の登頂の後、1920年(大正9年)7月2日に日本山岳会の藤島敏男、森喬の両名が土樽村の剣持政吉の案内で矢場尾根から茂倉岳・一ノ倉岳を経由して登頂し、天神尾根から谷川温泉に下ったのが最初とされ、それにちなんで2011年より毎年7月2日が「谷川岳の日」と定められた(記念日制定について話し合いが持たれた2010年が藤島らの登頂より90周年だったことと、2011年が上越線開通80周年にあたること、また群馬デスティネーションキャンペーンの開催に合わせての制定)。群馬県側の山開きは毎年7月第一日曜日に行われ、「安全登山の日」として谷川岳ロープウェイの谷川岳ベースプラザもしくは谷川岳登山指導センターで安全祈願祭が行われるほか、記念日が制定された2011年からはJR東日本によって臨時夜行列車の「谷川岳山開き号」が運行され、ロープウェイも早朝営業を行うなど、いくつかのイベントが開催される。谷川岳の日と山開きの日の両者がある週を「谷川岳ウィーク」と呼称する。
木暮理太郎は清水峠を越えた際に見た絶壁の光景を『素晴らしい赫色の岩壁』と記した。大島亮吉が前年の秋に武尊山の山頂から見た谷川岳の岩壁に心惹かれて、1927年(昭和2年)3月22日に大賀道?と共に谷川温泉からスキーによる冬季登頂と、同年5月28日に芝倉沢(パートナーは斎藤長寿郎)、7月16日にマチガ沢(原文ではイヲノ沢、パートナーは大賀道?と酒井英)の完登と、前後の日程で一ノ倉沢(原文ではマチガ沢)・幽ノ沢(原文では一ノ倉沢)の試登を行い、1929年(昭和4年)に「(谷川岳の岩壁は)總ては尚研究を要すべし、近くてよい山なり」と述べたことで山岳界にその名を知られるようになった。1931年(昭和6年)に上越線の上越国境区間(清水トンネル)を含む全線が開通し、土合駅や土樽駅(開業当時はいずれも信号場)などが開業すると、登山アクセスが飛躍的に改善され、東京からの夜行列車を利用した日帰りが可能な近さと剱岳・穂高岳に勝るとも劣らぬ急峻な岩壁が多くの社会人登山家から好まれるようになり、クライマーを中心とした「ブーム」が1960年代まで続いた。
付近の山
この場所に関連する本
この場所を通る登山ルート
おすすめルート
-
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月冬山の入門から上級者のトレーニングまで、様々な楽しみ方ができるのが谷川岳の大きな魅力。 天神尾根は冬山初級者の道場ともいえる登竜門的なルートのひとつですが、状況によっては厳しい登山になることもあります。天候判断は確実に、基礎的な技術を身に着けた上でチャレンジしましょう。
-
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月関東地方に住んでいる方にとっては日帰り圏内で馴染みの深い山。魔の山のイメージが強いですが、稜線上は嫋やかで高山植物が咲き乱れる女性的な山容です。