東海
愛知県
最終更新:げんた
基本情報
標高 | 307m |
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場所 | 北緯35度08分06秒, 東経137度19分30秒 |
真弓山は足助の中心市街地の東南に位置し、山頂部からは、信州・東濃・岡崎・名古屋方面へ向かう街道を一望できる。足助城は、この真弓山山頂を中心に構築された城郭である。
愛知の山城ベスト50の20番目
愛知の山城ベスト50の20番目
山頂 | |
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駐車場 | |
トイレ | |
展望ポイント |
山の解説 - [出典:Wikipedia]
真弓山城(まゆみやまじょう)は、三河国加茂郡足助庄(現・愛知県豊田市足助町)の真弓山(標高301メートル)にあった日本の城。「真弓山城」「松山城」などが廃城前の呼称で、発掘調査に基づいて一部を復元して「城跡公園足助城」として1993年(平成5年)に公開する際、地元住民の意見により「足助城」と呼ぶようになった。城郭学者の千田嘉博は、戦国時代の山城のイメージを体感できる、まれな施設と評価している。周辺には関連する多くの山城があり、真弓山城(足助城)は足助氏が支配した鎌倉時代の「足助七屋敷」、足助鈴木氏が支配した戦国時代の「足助七城」の双方に数えられている。ただ、後述の発掘調査では足助氏の時代の遺構は検出されず、戦国時代にこの地を治めた足助鈴木氏の本城のみが確認されている。最初の築城時期は不明。
1525年(大永5年)に松平清康がこの城を攻めた記録が残り、この際に清康の妹である久を2代目鈴木重政の嫡子であった重直に嫁すことで一旦は松平氏に下っている。その後は離反帰服を経て、1564年(永禄7年)に松平家康(徳川家康)に攻められたのちは完全に服属し、以降は松平氏の家臣団として戦った。
小牧・長久手の戦い後も続く羽柴秀吉(豊臣秀吉)と家康との対立において1585年(天正13年)、羽柴方の森一重(森忠政)に攻められるが、撃退した。
1590年(天正18年)、豊臣政権下での家康の関東転封に従って鈴木氏も足助を離れ、真弓山城は廃城となった。
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