丹沢
源実朝公首塚
神奈川県
最終更新:翔亀
基本情報
場所 | 北緯35度23分39秒, 東経139度13分26秒 |
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鎌倉幕府3代将軍源実朝は、建保7(1219)年1月27日に鶴岡八幡宮への参拝が終わり、階段を下りている最中に潜んでいた甥の公暁に暗殺されます。公暁は実朝の御首を持ち三浦義村を頼って逃走しました。しかし、義村には北条氏より公暁追討が命じられていたため、公暁は義村の家来に殺されてしまいます。その時以来、実朝の首は行方不明となり、実朝は首のないまま勝長寿院に葬られました。この失われた首を三浦の武将武常晴が探し出し葬ったのが、東田原の御首塚であると伝えられています。
武常晴は三浦氏が公暁を討ち取るために差し向けた家臣の中の一人で、公暁との戦いの中、偶然に実朝の御首を手に入れました。その後、何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず、当時三浦氏と仲の悪かった波多野氏を頼り埋葬したと伝えられています。
その後、波多野忠綱が実朝の厚い帰依を受けていた僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて御首塚の近くに金剛寺を建て供養しました。その際、木造であった御首塚の五輪塔を石造に代えたと云われています。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。
--秦野市指定文化財ホームページより
https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000002222/index.html
武常晴は三浦氏が公暁を討ち取るために差し向けた家臣の中の一人で、公暁との戦いの中、偶然に実朝の御首を手に入れました。その後、何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず、当時三浦氏と仲の悪かった波多野氏を頼り埋葬したと伝えられています。
その後、波多野忠綱が実朝の厚い帰依を受けていた僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて御首塚の近くに金剛寺を建て供養しました。その際、木造であった御首塚の五輪塔を石造に代えたと云われています。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は、現在、鎌倉国宝館に収蔵されています。
--秦野市指定文化財ホームページより
https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1001000002222/index.html
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