(はじめに)
「中央構造線」より南側にあたる紀伊半島は山が多い地域で、海岸部を除いたほとんどの部分を「紀伊山地」と呼びます(文献2−a)、(文献2−b)。
地理学上は、「紀伊山地」をさらに細かくは分けないようですが(文献2−b)、登山界では、その紀伊山地のうち、最も標高も高く、かつ長く南北に延びている山脈を、「大峰山脈(おおみねさんみゃく)」と呼びます(文献3)。
大峰山脈は、紀伊山地の中では大台ヶ原とともに、紀伊山地の中では、一般の登山者も多い山地です。
また大峰山脈は古くから山岳信仰/修験道が盛んな地域であり、現在でも山岳信仰が続いている場所でもあります。
「大峯奥駆路:(おおみねおくがけみち)」を含んだ大峰山脈や、熊野神社、那智の滝のある熊野地域が、日本独特の山岳信仰の聖地であることから、2004年に、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定されたことはよく知られており、日本の山々の中でも、独特の世界を作っている山地と言えます(文献4)。
さて地理的には「大峰山脈」は、ほぼ南北に約50kmの長さで延びており(文献3)、その中には、山上ヶ岳(さんじょうがたけ:1719m)、大普賢岳(だいふげんだけ;1780m)、八経ヶ岳(はっきょうがたけ;1915m)、弥山(みせん;1895m)、釈迦が岳(しゃかがたけ:1800m)など、1700m〜1900m台の山々が連なっています。
この10−2章では、以下、これらの山々の地質について、説明します。
地理学上は、「紀伊山地」をさらに細かくは分けないようですが(文献2−b)、登山界では、その紀伊山地のうち、最も標高も高く、かつ長く南北に延びている山脈を、「大峰山脈(おおみねさんみゃく)」と呼びます(文献3)。
大峰山脈は、紀伊山地の中では大台ヶ原とともに、紀伊山地の中では、一般の登山者も多い山地です。
また大峰山脈は古くから山岳信仰/修験道が盛んな地域であり、現在でも山岳信仰が続いている場所でもあります。
「大峯奥駆路:(おおみねおくがけみち)」を含んだ大峰山脈や、熊野神社、那智の滝のある熊野地域が、日本独特の山岳信仰の聖地であることから、2004年に、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に指定されたことはよく知られており、日本の山々の中でも、独特の世界を作っている山地と言えます(文献4)。
さて地理的には「大峰山脈」は、ほぼ南北に約50kmの長さで延びており(文献3)、その中には、山上ヶ岳(さんじょうがたけ:1719m)、大普賢岳(だいふげんだけ;1780m)、八経ヶ岳(はっきょうがたけ;1915m)、弥山(みせん;1895m)、釈迦が岳(しゃかがたけ:1800m)など、1700m〜1900m台の山々が連なっています。
この10−2章では、以下、これらの山々の地質について、説明します。
1)山上ヶ岳とその周辺
山上ヶ岳は、大峰山脈の最も北側に位置する山ですが、山岳信仰/修験道の観点から見ると、大峰山岳信仰の中心地でもあります。実際に山頂部には、寺院、宿坊などの建物が沢山建っており、山頂部が一つの集落のような雰囲気があります(文献4)。
また建物が密集している山頂部はわりと平坦な部分になっており、紀伊山地が大きく隆起する前の、標高が低い時代(いつ頃かは不明)の小起伏面ではないかと思われます(この段落は私見です)。
一方で、山上ヶ岳の周辺には「西の覗き(にしののぞき)」などの岩壁があり、後述の大普賢岳あたりの稜線部付近にも、地形図上は崖記号が多く、険しい山腹部となっています。
さて山上ヶ岳や、その近傍にそびえる大普賢岳、稲村ヶ岳(いなむらがたけ:1726m)辺りの地質を、産総研「シームレス地質図v2」にて確認すると、東西幅 約7km、南北幅 約10kmの大きな、チャートを主体とした岩体(「大普賢岳コンプレックス」と呼ばれる(文献1―a))で形成されています。
そのさらに外側には、メランジュ相の付加体(「わさび谷コンプレックス」と呼ばれる(文献1−a))が取り巻いています。メランジュ相の付加体の付加時期はジュラ紀であり、地帯区分でいうと「秩父帯」に相当します(文献1―a)。
更にその外側もメランジュ相の付加体ゾーンが取り巻いていますが、その付加体ゾーンの形成年代は、前述のものとは異なり、白亜紀の付加体である「四万十帯」に相当する地質です。
この、「四万十帯」ゾーンと、その内側に円形状にまとまっている「秩父帯」ゾーンとの間は、「大峯−大台(おおみね・おおだい)スラスト」と呼ばれる断層で区切られています(文献1−a)。この断層については、次の節で詳しく説明します。
さて、地形と地質との関係で言うと、大峰山脈北部にそびえている前記の山々が周囲より高く、かつ岩壁状の険しい箇所が多い理由としては、周囲を囲んでいるメランジュ相の地質より、それらの山々の山体のほとんどを構成しているチャート岩体が、硬くて浸食にも強いので、周囲よりやや高く、かつ険しい岩壁状地形を形成しているのだと考えられます(この段落は私見です)。
なお、稲村ヶ岳の山頂部、直径500mほどの小領域は、産総研「シームレス地質図v2」をよくよく見るとチャート岩体ではなく、新第三紀 中新世に形成された海成の礫岩層の地質体が分布しています。
この礫岩層は、「稲村ヶ岳礫岩層」と呼ばれ(文献5)、チャート層より構造的上位に形成された地質体だと推定されます。(文献5)では、この礫岩層の形成された時期を、古第三紀〜新第三紀 中新世、と推定しています。なお(文献1)には、この「稲村ヶ岳礫岩層」に関しての記載はありませんでした。
このような、標高の高い場所に孤立した小さな地質体を「ルーフペンダント状」地質体とも呼びますが、これは、チャート岩体がジュラ紀に付加したのち、かなり時代が下った、古第三紀もしくは新第三紀 中新世において、この山を含む紀伊半島中央部一帯がまだ山地にはなっておらず、逆に海の底であり、そこに当時の陸地(どこかは不明)から河川によって流れてきた礫が堆積したことを示す証拠といえます。
その後、紀伊半島一帯が大きく隆起しつつ、浸食もされてきたため、恐らく隆起前にはもっと広い範囲に分布していた礫岩層が浸食により削り取られ、現世では稲村ヶ岳の山頂部のわずか直径500m程度の狭い範囲に、まるで化石のように残存していることになります。
なお、このような新第三紀 中新世の非付加体型堆積岩(礫岩、砂岩、泥岩)の地質は、紀伊半島の海岸部にも分布しており、このうち、紀伊半島南西部の分布域のものは「田辺層群」、紀伊半島南東部の分布域のものは「熊野層群」という名前がついています(文献1−b)。これらも、稲村ヶ岳山頂部に取り残されている海成礫岩層と、基本的には同時期、同堆積環境にて形成されたと推定できます。
つまり紀伊半島は、中央部が隆起する前には、中新世の堆積岩層がかなり広く分布しており、その後、中央部を中心にドーム状にどんどんと隆起しつつ、かつ周辺部から河川による浸食が進んでいったため、かなりの範囲では、その堆積岩層は浸食で失われたと考えられます。
一方海岸部は「隆起量が少ない = 河川浸食が少ない」という理由で中新世の堆積岩層が残存し、また稲村ヶ岳のような隆起中心部付近は、「隆起量は大きいが、河川の源流部なので浸食量が少ない」という理由で、同じ堆積岩層がルーフペンダント状に残存している、と考えることができます(この段落はあくまで、私見です)。
※ ”Ma”は、百万年前を意味する単位
また建物が密集している山頂部はわりと平坦な部分になっており、紀伊山地が大きく隆起する前の、標高が低い時代(いつ頃かは不明)の小起伏面ではないかと思われます(この段落は私見です)。
一方で、山上ヶ岳の周辺には「西の覗き(にしののぞき)」などの岩壁があり、後述の大普賢岳あたりの稜線部付近にも、地形図上は崖記号が多く、険しい山腹部となっています。
さて山上ヶ岳や、その近傍にそびえる大普賢岳、稲村ヶ岳(いなむらがたけ:1726m)辺りの地質を、産総研「シームレス地質図v2」にて確認すると、東西幅 約7km、南北幅 約10kmの大きな、チャートを主体とした岩体(「大普賢岳コンプレックス」と呼ばれる(文献1―a))で形成されています。
そのさらに外側には、メランジュ相の付加体(「わさび谷コンプレックス」と呼ばれる(文献1−a))が取り巻いています。メランジュ相の付加体の付加時期はジュラ紀であり、地帯区分でいうと「秩父帯」に相当します(文献1―a)。
更にその外側もメランジュ相の付加体ゾーンが取り巻いていますが、その付加体ゾーンの形成年代は、前述のものとは異なり、白亜紀の付加体である「四万十帯」に相当する地質です。
この、「四万十帯」ゾーンと、その内側に円形状にまとまっている「秩父帯」ゾーンとの間は、「大峯−大台(おおみね・おおだい)スラスト」と呼ばれる断層で区切られています(文献1−a)。この断層については、次の節で詳しく説明します。
さて、地形と地質との関係で言うと、大峰山脈北部にそびえている前記の山々が周囲より高く、かつ岩壁状の険しい箇所が多い理由としては、周囲を囲んでいるメランジュ相の地質より、それらの山々の山体のほとんどを構成しているチャート岩体が、硬くて浸食にも強いので、周囲よりやや高く、かつ険しい岩壁状地形を形成しているのだと考えられます(この段落は私見です)。
なお、稲村ヶ岳の山頂部、直径500mほどの小領域は、産総研「シームレス地質図v2」をよくよく見るとチャート岩体ではなく、新第三紀 中新世に形成された海成の礫岩層の地質体が分布しています。
この礫岩層は、「稲村ヶ岳礫岩層」と呼ばれ(文献5)、チャート層より構造的上位に形成された地質体だと推定されます。(文献5)では、この礫岩層の形成された時期を、古第三紀〜新第三紀 中新世、と推定しています。なお(文献1)には、この「稲村ヶ岳礫岩層」に関しての記載はありませんでした。
このような、標高の高い場所に孤立した小さな地質体を「ルーフペンダント状」地質体とも呼びますが、これは、チャート岩体がジュラ紀に付加したのち、かなり時代が下った、古第三紀もしくは新第三紀 中新世において、この山を含む紀伊半島中央部一帯がまだ山地にはなっておらず、逆に海の底であり、そこに当時の陸地(どこかは不明)から河川によって流れてきた礫が堆積したことを示す証拠といえます。
その後、紀伊半島一帯が大きく隆起しつつ、浸食もされてきたため、恐らく隆起前にはもっと広い範囲に分布していた礫岩層が浸食により削り取られ、現世では稲村ヶ岳の山頂部のわずか直径500m程度の狭い範囲に、まるで化石のように残存していることになります。
なお、このような新第三紀 中新世の非付加体型堆積岩(礫岩、砂岩、泥岩)の地質は、紀伊半島の海岸部にも分布しており、このうち、紀伊半島南西部の分布域のものは「田辺層群」、紀伊半島南東部の分布域のものは「熊野層群」という名前がついています(文献1−b)。これらも、稲村ヶ岳山頂部に取り残されている海成礫岩層と、基本的には同時期、同堆積環境にて形成されたと推定できます。
つまり紀伊半島は、中央部が隆起する前には、中新世の堆積岩層がかなり広く分布しており、その後、中央部を中心にドーム状にどんどんと隆起しつつ、かつ周辺部から河川による浸食が進んでいったため、かなりの範囲では、その堆積岩層は浸食で失われたと考えられます。
一方海岸部は「隆起量が少ない = 河川浸食が少ない」という理由で中新世の堆積岩層が残存し、また稲村ヶ岳のような隆起中心部付近は、「隆起量は大きいが、河川の源流部なので浸食量が少ない」という理由で、同じ堆積岩層がルーフペンダント状に残存している、と考えることができます(この段落はあくまで、私見です)。
※ ”Ma”は、百万年前を意味する単位
2)八経ヶ岳、弥山
大峰山脈の稜線を、山上ヶ岳−>大普賢岳とたどり、やや標高が低めの行者還岳(ぎょうじゃがえしだけ;1547m)とその近くのコル(峠)を越えると、再び稜線は高くなり、大峰山脈の最高峰、かつ近畿地方の最高峰でもある、八経ヶ岳(1915m)に至ります。またその手前には、山小屋もある弥山(1895m)があります。
この辺りは、近畿地方の最高地点にしてはあまり鋭い山容ではなく、むしろなだらかな山です。
これは、地質学的に見ると砂岩や泥岩で形成されている点、また紀伊山地自体がドーム状の隆起をしたため、隆起の中心部にあたる八経ヶ岳一帯はまだ本格的な河川浸食が及んでおらず、隆起前の小起伏面が残存しているため、とも考えられます(この段落は、私見です)。
この2つの山は1900m前後あるにしては山頂部まで針葉樹が生い茂っています。逆に深い森の奥にある山、という感じを深くする山容ともいえます。
なお地質について細かく言うと、これらの山々を形成している砂岩、泥岩は、産総研「シームレス地質図v2」にて確認すると、ジュラ紀ではなく、白亜紀に形成された付加体であり、地帯でいうと「四万十帯」に含まれます(これより南へと続く山々も、後述の花崗岩地帯を除きく大部分が、「四万十帯」の地質で形成されています)
一方、前の節で説明した山上ヶ岳、大普賢岳などはジュラ紀付加体である「秩父帯」に属しています。「秩父帯」と「四万十帯」との地質境界は、ちょうど稜線部が多少低くなっている、行者還のコルあたりにあります。
この地質境界は、地質学用語でスラスト(英語では“Thrust”、日本語では「衝上断層(しょうじょうだんそう)」と呼ばれる、低角度(ほぼ水平に近い)の断層でできており、「大峯−大台スラスト」という固有名詞が付けられています(文献1―a)。
この大峰山脈北部の地質構造を上下方向で考えると、「四万十帯」の地質体が、山上ヶ岳付近も含め、広く広がっており、その構造的上位に、「大峯−大台スラスト」を境に、「秩父帯」の地質体が、薄い皿のような感じで乗っかっている状態になります。
なお、この「大峯−大台スラスト」の活動時期などは詳しく解っていませんが、白亜紀(の終わり頃)に活動した断層である可能性がある、と推定されています(文献5)
この辺りは、近畿地方の最高地点にしてはあまり鋭い山容ではなく、むしろなだらかな山です。
これは、地質学的に見ると砂岩や泥岩で形成されている点、また紀伊山地自体がドーム状の隆起をしたため、隆起の中心部にあたる八経ヶ岳一帯はまだ本格的な河川浸食が及んでおらず、隆起前の小起伏面が残存しているため、とも考えられます(この段落は、私見です)。
この2つの山は1900m前後あるにしては山頂部まで針葉樹が生い茂っています。逆に深い森の奥にある山、という感じを深くする山容ともいえます。
なお地質について細かく言うと、これらの山々を形成している砂岩、泥岩は、産総研「シームレス地質図v2」にて確認すると、ジュラ紀ではなく、白亜紀に形成された付加体であり、地帯でいうと「四万十帯」に含まれます(これより南へと続く山々も、後述の花崗岩地帯を除きく大部分が、「四万十帯」の地質で形成されています)
一方、前の節で説明した山上ヶ岳、大普賢岳などはジュラ紀付加体である「秩父帯」に属しています。「秩父帯」と「四万十帯」との地質境界は、ちょうど稜線部が多少低くなっている、行者還のコルあたりにあります。
この地質境界は、地質学用語でスラスト(英語では“Thrust”、日本語では「衝上断層(しょうじょうだんそう)」と呼ばれる、低角度(ほぼ水平に近い)の断層でできており、「大峯−大台スラスト」という固有名詞が付けられています(文献1―a)。
この大峰山脈北部の地質構造を上下方向で考えると、「四万十帯」の地質体が、山上ヶ岳付近も含め、広く広がっており、その構造的上位に、「大峯−大台スラスト」を境に、「秩父帯」の地質体が、薄い皿のような感じで乗っかっている状態になります。
なお、この「大峯−大台スラスト」の活動時期などは詳しく解っていませんが、白亜紀(の終わり頃)に活動した断層である可能性がある、と推定されています(文献5)
3)釈迦ヶ岳とその周辺
八経ヶ岳から更に稜線部を南にたどると、仏性嶽(ぶっしょうがたけ;1805m)、孔雀岳(くじゃくだけ:1779m)などの峰があり、さらにその先には、大峰山脈の南部の山の代表ともいえる、釈迦ヶ岳(しゃかがたけ:1800m)がそびえています。
さらに主稜線は、その南へと緩やかに高度を下げつつ延びており、大日岳(だいにちだけ: 1566m)、天狗岳(てんぐだけ:1537m)、地蔵岳(じぞうだけ:1464m)、涅槃岳(ねはんだけ:1376m)などの、仏教に因んだ名称の山々が続きます。
この付近の稜線も、修験道の修行の場として、いわゆる大峯奥駆路(おおみねおくがけみち)となっています。
これら、釈迦ヶ岳とその周辺の山々の地質を、産総研「シームレス地質図v2」にて確認すると、これらの稜線の東側山腹、西側山腹とも、白亜紀の付加体型地質(東側は、「砂泥互層」、西側は「メランジュ相」、いずれも「四万十帯」に含まれる)で形成されています。
一方、稜線部だけは、幅2−4kmほどにわたって、新第三紀 中新世の年代を示す花崗岩(マグマ由来の深成岩の一種)で形成されています。花崗岩ゾーンの北端としては、仏性嶽と孔雀岳との間に地質境界があり、南端としては、涅槃岳の手前に地質境界があります。地形図を見るとその花崗岩のゾーンには崖記号が多く、険しい山容であることが解ります。(文献1−c)によると、この花崗岩体の形成時期は、中新世の約16−14Maと推定されています。
地形と地質との関連で考えてみると、あくまで推定ですが、両側の山腹を形成している砂岩、泥岩、メランジュ相堆積岩よりも、この花崗岩体のほうが浸食に強く、そのためにこの稜線部が高くなっているのではないか?とも考えられます(この段落は私見です)。
紀伊山地において、このような、付加体が幅広く分布している一帯の中に、新第三紀 中新世;約23−6Ma)の深成岩や火山岩が点在しているのは、10−1章でも多少説明しました。
この大峰山脈中の花崗岩体が形成された、新第三紀 中新世のうち、約20−15Maの時代は、「日本海拡大/日本列島移動」イベントという、日本列島にとって大きなプレートテクトニクス的な出来事が起きた時代でもあります。
通常、海洋プレート沈み込みゾーンである海溝にあまり近すぎる、紀伊半島のような場所では、地下ではマグマ形成の条件に達せず、火山の形成や深成岩の貫入は起こりませんが、上記イベントの際には、南へと移動してきた「西南日本」ブロックが強制的にフィリピン海プレートの上に乗っかった形となり、地下でのマグマ生成が起こったものと考えられています(文献1−b)、(文献1−c)、(文献1−d)。
なお、この連載では細かくは触れませんが、同じような花崗岩質岩体としては、三重県の熊野地域に、「熊野酸性岩類」と呼ばれる岩体(火山岩である流紋岩と、深成岩である花崗岩、及び凝灰岩など)が大規模に分布しています(文献1−d)。
この岩体の形成年代は約17−14Maと推定されており、上記の大峰山脈の南部に分布している花崗岩体(大峯火成岩体)と同時期に形成されたものと考えられています(文献1−c)、(文献1−d)。
※ ”Ma”は、百万年前を意味する単位
さらに主稜線は、その南へと緩やかに高度を下げつつ延びており、大日岳(だいにちだけ: 1566m)、天狗岳(てんぐだけ:1537m)、地蔵岳(じぞうだけ:1464m)、涅槃岳(ねはんだけ:1376m)などの、仏教に因んだ名称の山々が続きます。
この付近の稜線も、修験道の修行の場として、いわゆる大峯奥駆路(おおみねおくがけみち)となっています。
これら、釈迦ヶ岳とその周辺の山々の地質を、産総研「シームレス地質図v2」にて確認すると、これらの稜線の東側山腹、西側山腹とも、白亜紀の付加体型地質(東側は、「砂泥互層」、西側は「メランジュ相」、いずれも「四万十帯」に含まれる)で形成されています。
一方、稜線部だけは、幅2−4kmほどにわたって、新第三紀 中新世の年代を示す花崗岩(マグマ由来の深成岩の一種)で形成されています。花崗岩ゾーンの北端としては、仏性嶽と孔雀岳との間に地質境界があり、南端としては、涅槃岳の手前に地質境界があります。地形図を見るとその花崗岩のゾーンには崖記号が多く、険しい山容であることが解ります。(文献1−c)によると、この花崗岩体の形成時期は、中新世の約16−14Maと推定されています。
地形と地質との関連で考えてみると、あくまで推定ですが、両側の山腹を形成している砂岩、泥岩、メランジュ相堆積岩よりも、この花崗岩体のほうが浸食に強く、そのためにこの稜線部が高くなっているのではないか?とも考えられます(この段落は私見です)。
紀伊山地において、このような、付加体が幅広く分布している一帯の中に、新第三紀 中新世;約23−6Ma)の深成岩や火山岩が点在しているのは、10−1章でも多少説明しました。
この大峰山脈中の花崗岩体が形成された、新第三紀 中新世のうち、約20−15Maの時代は、「日本海拡大/日本列島移動」イベントという、日本列島にとって大きなプレートテクトニクス的な出来事が起きた時代でもあります。
通常、海洋プレート沈み込みゾーンである海溝にあまり近すぎる、紀伊半島のような場所では、地下ではマグマ形成の条件に達せず、火山の形成や深成岩の貫入は起こりませんが、上記イベントの際には、南へと移動してきた「西南日本」ブロックが強制的にフィリピン海プレートの上に乗っかった形となり、地下でのマグマ生成が起こったものと考えられています(文献1−b)、(文献1−c)、(文献1−d)。
なお、この連載では細かくは触れませんが、同じような花崗岩質岩体としては、三重県の熊野地域に、「熊野酸性岩類」と呼ばれる岩体(火山岩である流紋岩と、深成岩である花崗岩、及び凝灰岩など)が大規模に分布しています(文献1−d)。
この岩体の形成年代は約17−14Maと推定されており、上記の大峰山脈の南部に分布している花崗岩体(大峯火成岩体)と同時期に形成されたものと考えられています(文献1−c)、(文献1−d)。
※ ”Ma”は、百万年前を意味する単位
(参考文献)
文献1)日本地質学会 編
「日本地方地質誌 第5巻 近畿地方」 朝倉書店 刊 (2009)
文献1−a) 文献1)のうち、3−2−10節―(c)項
「秩父帯」のうち「紀伊半島中央部地域」の項、
および 図3.2.33「紀伊半島中央部の秩父帯」
文献1−b) 文献1)のうち、4−1章「(近畿地方の)第三系」のうち、
4−1−3―(c)項 「(新第三系) 紀伊半島」の項
文献1−c) 文献1)のうち、4−3章「(近畿地方の)新生代火成作用」のうち、
4−3−4―(b)項 「熊野・大峯火成岩体」の、
(2)「大峯花崗岩質岩」の項
文献1―d) 文献1)のうち、4−3章「(近畿地方の)新生代火成作用」のうち、
4−3−4―(b)項 「熊野・大峯火成岩体」の、
(1)「熊野酸性岩類」の項
文献2)太田、成瀬、田中、岡田 編
「日本の地形 第6巻 近畿・中国・四国」 東京大学出版会 刊 (2004)
文献2−a) 文献2)のうち、
7−2章 「紀伊山地」の項
文献2−b) 文献2)のうち、
1−1―(4)節 「外帯山地と前弧海盆」の項
文献3)「実用 登山用語データブック」山と渓谷社 刊 (2011)
のうち、「大峰山脈」の項
文献4)ウイキペディア 「大峯山」の項
(2022年1月 閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B0%E5%B1%B1
文献5)佐藤、大和・大台研究グループ
「紀伊半島中央部に見られる弧状および半円状の断層・岩脈群と陥没構造」
地球科学 誌 第60巻、p403−413 (2006)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/agcjchikyukagaku/60/5/60_KJ00004480797/_pdf/-char/ja
「日本地方地質誌 第5巻 近畿地方」 朝倉書店 刊 (2009)
文献1−a) 文献1)のうち、3−2−10節―(c)項
「秩父帯」のうち「紀伊半島中央部地域」の項、
および 図3.2.33「紀伊半島中央部の秩父帯」
文献1−b) 文献1)のうち、4−1章「(近畿地方の)第三系」のうち、
4−1−3―(c)項 「(新第三系) 紀伊半島」の項
文献1−c) 文献1)のうち、4−3章「(近畿地方の)新生代火成作用」のうち、
4−3−4―(b)項 「熊野・大峯火成岩体」の、
(2)「大峯花崗岩質岩」の項
文献1―d) 文献1)のうち、4−3章「(近畿地方の)新生代火成作用」のうち、
4−3−4―(b)項 「熊野・大峯火成岩体」の、
(1)「熊野酸性岩類」の項
文献2)太田、成瀬、田中、岡田 編
「日本の地形 第6巻 近畿・中国・四国」 東京大学出版会 刊 (2004)
文献2−a) 文献2)のうち、
7−2章 「紀伊山地」の項
文献2−b) 文献2)のうち、
1−1―(4)節 「外帯山地と前弧海盆」の項
文献3)「実用 登山用語データブック」山と渓谷社 刊 (2011)
のうち、「大峰山脈」の項
文献4)ウイキペディア 「大峯山」の項
(2022年1月 閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B0%E5%B1%B1
文献5)佐藤、大和・大台研究グループ
「紀伊半島中央部に見られる弧状および半円状の断層・岩脈群と陥没構造」
地球科学 誌 第60巻、p403−413 (2006)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/agcjchikyukagaku/60/5/60_KJ00004480797/_pdf/-char/ja
「大和・大台研究グループ」による論文(2006)
このリンク先の、10−1章の文末には、第10部「近畿地方の山々の地質」の各章へのリンク、及び、序章ー1へのリンク(序章ー1には、本連載の各部へのリンクあり)を付けています。
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【書記事項】
初版リリース;2022年1月19日
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