(はじめに)
この章は「香川県の山々」と題し、香川県/徳島県の県境ともなっている「讃岐山地」と、小豆島を含む、香川県内の低山の地質、及び地形的特徴について説明します。
さて1−9章までは、中央構造線の南側、「西南日本外帯」の、広義の「四国山地」の地質について説明してきました。広義の「四国山地」には、石鎚山、剣山など1500〜1900m台の山々が多数あり、登山対象としても多くの山が親しまれています。
一方、中央構造線の北側、「西南日本内帯」側は、山自体が少なく、また標高も低山レベルの山々が殆どです。
ただし地質学的に見ると、「讃岐山地」、及び香川県内の低山は、広義の「四国山地」とは異なった地質からなり、興味深い点もあります。
また、地形学的にも、「メサ」状地形、「ビュート地形」などがあり、多彩です。
さて1−9章までは、中央構造線の南側、「西南日本外帯」の、広義の「四国山地」の地質について説明してきました。広義の「四国山地」には、石鎚山、剣山など1500〜1900m台の山々が多数あり、登山対象としても多くの山が親しまれています。
一方、中央構造線の北側、「西南日本内帯」側は、山自体が少なく、また標高も低山レベルの山々が殆どです。
ただし地質学的に見ると、「讃岐山地」、及び香川県内の低山は、広義の「四国山地」とは異なった地質からなり、興味深い点もあります。
また、地形学的にも、「メサ」状地形、「ビュート地形」などがあり、多彩です。
1)「讃岐山地」の地質
香川県と徳島県の境には、「讃岐山地」(「讃岐山脈」、「阿讃(あさん)山地」とも呼ぶ)が、東西方向に約90kmの長さで延びています。
標高はせいぜいが1000m強で、広義の「四国山地」に比べると高さがなく、また各山々の見栄えもあまりぱっとしませんが、地元では気軽なハイキングの山々として親しまれています(文献1)。
「讃岐山地」で登山対象となっている主な山は東側から順に、大麻山(おおあさやま;538m)、女体山(にょたいさん;四国八十八カ所 結願の寺である大窪寺の、裏手の山;774m)、大滝山(おおたきさん;946m)、竜王山(りゅうおうざん;1060m)、大川山(だいせんざん;1043m)、が挙げられます(文献1)。
また西部には、雲辺寺山(うんぺんじさん;927m)があります。が、これは山頂付近までロープウェイが通じており、登山対象というよりは、四国八十八所巡りの人たちの山、という感じです。
さて、これら「讃岐山地」の山々の地質を、産総研「シームレス地質図v2」や(文献2−a)で確認すると、ほぼ全てが、白亜紀末に堆積した「和泉層群(いずみそうぐん)」の砂岩、泥岩とごくわずかの礫岩で形成されています。
「和泉層群」とは、その名の通り、近畿地方の和泉(いずみ)山地に因んだ地質体の名称で、この「和泉層群」の分布は、西は、四国西部(松山市付近)から四国中央部を経て、「讃岐山地」、更には淡路島南部を経て東端の「和泉山地」まで、中央構造線の北側に沿うように、東西方向の総延長が約300km、南北方向の幅は、10〜20kmと、東西方向に細長く分布している地質体です。
「和泉層群」に関しては、この連載の、「1−2章 四国地方の地質概要」の項でも触れたので説明がやや重複しますが、(文献2−a)などによると、「和泉層群」が形成された時代は、白亜紀末(カンパニアン期〜マーストリヒチアン期;約83〜66Ma)であり、その形成メカニズムとしては、断層としての「中央構造線」の左横ずれ断層活動が生じ、その断層活動に伴って形成された、帯状に沈降してできた海域(「プルアパート型盆地」地形)に、「西南日本内帯」側から供給された砂や泥が堆積したもの、と推定されています。
逆にこの「和泉層群」の存在が、巨大な断層(帯)としての「中央構造線」の起源や活動履歴が、少なくとも白亜紀末(約80Ma)まで遡れることの証拠ともなっています。
「中央構造線」の断層活動により生じたプルアパート型盆地は、少なくとも「和泉山地」から、この「讃岐山地」までは、西側から東側へと順に形成されたと推定されており、堆積構造を元にした古流路の研究からは、「和泉層群」を構成している砂や泥は、この細長い地域の東側から西向きの流れとして流入した、と推定されています。
「讃岐山地」を形成している「和泉層群」の厚さは、現世での残存厚みとして、(文献2−a)によると約5〜7km、(文献6)によると約4kmに及びますが、その構造的下位には、「西南日本内帯」のうち最南部の「地帯」である、「領家帯(りょうけたい)」の花崗岩類、高温型変成岩類が伏在している、と推定されています。
「讃岐山地」の北側山麓の一部では、「領家帯」の地質体(主に白亜紀の花崗岩類)と、「和泉層群」の地質体が不整合の関係で接していることが確認できる、とのことです(文献2−b)。
「讃岐山地」を形成している「和泉層群」は、白亜紀の、非付加体型の堆積岩であるので、恐竜などの大型化石があるのでは、と思いたくなりますが、以外と化石の産出は少なく、(文献2―a)によると、一部でアンモナイトの化石が見つかっている程度で、他には目視レベルの化石はほとんど含まれていません。ただし放散虫化石は多数含まれており、この放散虫から、堆積年代が推定されています。
「讃岐山地」では、なだらかな山容であることもあり、和泉層群の砂岩、泥岩の良い露頭はあまり見かけませんが、川沿いの登山道では、層状に堆積した構造が確認できる場所もあります。
なお、「和泉層群」に関する研究、論文は多数ありますが、「讃岐山地」など四国の「和泉層群」に関する近年の論文として、例えば(文献4)、(文献5)、(文献6)などがあります。ここではそれらの論文の詳細は略しますが、ご興味のある方はご覧ください。
※ “Ma”は、百万年前を意味する単位
標高はせいぜいが1000m強で、広義の「四国山地」に比べると高さがなく、また各山々の見栄えもあまりぱっとしませんが、地元では気軽なハイキングの山々として親しまれています(文献1)。
「讃岐山地」で登山対象となっている主な山は東側から順に、大麻山(おおあさやま;538m)、女体山(にょたいさん;四国八十八カ所 結願の寺である大窪寺の、裏手の山;774m)、大滝山(おおたきさん;946m)、竜王山(りゅうおうざん;1060m)、大川山(だいせんざん;1043m)、が挙げられます(文献1)。
また西部には、雲辺寺山(うんぺんじさん;927m)があります。が、これは山頂付近までロープウェイが通じており、登山対象というよりは、四国八十八所巡りの人たちの山、という感じです。
さて、これら「讃岐山地」の山々の地質を、産総研「シームレス地質図v2」や(文献2−a)で確認すると、ほぼ全てが、白亜紀末に堆積した「和泉層群(いずみそうぐん)」の砂岩、泥岩とごくわずかの礫岩で形成されています。
「和泉層群」とは、その名の通り、近畿地方の和泉(いずみ)山地に因んだ地質体の名称で、この「和泉層群」の分布は、西は、四国西部(松山市付近)から四国中央部を経て、「讃岐山地」、更には淡路島南部を経て東端の「和泉山地」まで、中央構造線の北側に沿うように、東西方向の総延長が約300km、南北方向の幅は、10〜20kmと、東西方向に細長く分布している地質体です。
「和泉層群」に関しては、この連載の、「1−2章 四国地方の地質概要」の項でも触れたので説明がやや重複しますが、(文献2−a)などによると、「和泉層群」が形成された時代は、白亜紀末(カンパニアン期〜マーストリヒチアン期;約83〜66Ma)であり、その形成メカニズムとしては、断層としての「中央構造線」の左横ずれ断層活動が生じ、その断層活動に伴って形成された、帯状に沈降してできた海域(「プルアパート型盆地」地形)に、「西南日本内帯」側から供給された砂や泥が堆積したもの、と推定されています。
逆にこの「和泉層群」の存在が、巨大な断層(帯)としての「中央構造線」の起源や活動履歴が、少なくとも白亜紀末(約80Ma)まで遡れることの証拠ともなっています。
「中央構造線」の断層活動により生じたプルアパート型盆地は、少なくとも「和泉山地」から、この「讃岐山地」までは、西側から東側へと順に形成されたと推定されており、堆積構造を元にした古流路の研究からは、「和泉層群」を構成している砂や泥は、この細長い地域の東側から西向きの流れとして流入した、と推定されています。
「讃岐山地」を形成している「和泉層群」の厚さは、現世での残存厚みとして、(文献2−a)によると約5〜7km、(文献6)によると約4kmに及びますが、その構造的下位には、「西南日本内帯」のうち最南部の「地帯」である、「領家帯(りょうけたい)」の花崗岩類、高温型変成岩類が伏在している、と推定されています。
「讃岐山地」の北側山麓の一部では、「領家帯」の地質体(主に白亜紀の花崗岩類)と、「和泉層群」の地質体が不整合の関係で接していることが確認できる、とのことです(文献2−b)。
「讃岐山地」を形成している「和泉層群」は、白亜紀の、非付加体型の堆積岩であるので、恐竜などの大型化石があるのでは、と思いたくなりますが、以外と化石の産出は少なく、(文献2―a)によると、一部でアンモナイトの化石が見つかっている程度で、他には目視レベルの化石はほとんど含まれていません。ただし放散虫化石は多数含まれており、この放散虫から、堆積年代が推定されています。
「讃岐山地」では、なだらかな山容であることもあり、和泉層群の砂岩、泥岩の良い露頭はあまり見かけませんが、川沿いの登山道では、層状に堆積した構造が確認できる場所もあります。
なお、「和泉層群」に関する研究、論文は多数ありますが、「讃岐山地」など四国の「和泉層群」に関する近年の論文として、例えば(文献4)、(文献5)、(文献6)などがあります。ここではそれらの論文の詳細は略しますが、ご興味のある方はご覧ください。
※ “Ma”は、百万年前を意味する単位
2)「讃岐山地」の隆起
「讃岐山地」は、地質的には前述のとおり、白亜紀末の海成堆積岩類で形成されていますが、現在、1000m程度の山脈状の地形となっているのは、なぜでしょうか?
「讃岐山地」を構成している「和泉層群」の形成メカニズムは、「讃岐山地」のちょうど南側に並走する「中央構造線」の、白亜紀末に起きた断層活動によることを前節で述べましたが、実は「讃岐山地」の隆起も同じく、「讃岐山地」のちょうど南側に並走する「中央構造線」の断層活動によると推定されています。
但し、その活動時期は新第三紀 鮮新世〜第四紀(約3Ma〜現世)であり、その地質が形成された時期(約83−66Ma)とはまったく別ものです。
(文献3−a)によると、「讃岐山地」の隆起は、第四紀はじめの約200万年前(=約2Ma)に遡ります。なお(文献7)、(文献8)では、もう少し早い、鮮新世中期頃から、と推定しています。
(文献3−a)などによると、約3〜2Ma頃に、四国地方の南側にある「南海トラフ」でのフィリピン海プレートの沈み込む方向が、元は北向きベクトルだったのが、この頃に北西向きベクトルへと変化した、と推定されています。
それにより、起源が古い断層(古傷/力学的な弱線)としての「中央構造線」が、力学的な境界線となり、それより南側(「西南日本外帯」側)は、フィリピン海プレートの沈み込みベクトルのうち、西向きベクトルの影響で西側へ引きずられるように動くようになった、と推定されています。
活断層系としての「中央構造線」を、(鉛直成分も持った)横ずれ断層として考えると、第四紀における活動のセンスは「右横ずれ断層」であり、「右横ずれ断層活動」が現世でも引き続き起こっていることは、地形学的な開析で明らかになっています。これらのことは、1−3章「石鎚山地」の項で、「石鎚山地」の隆起メカニズムとして説明しました。
一方、「中央構造線」の北側は、「右横ずれ断層」ですので、南側とは逆に水平方向では相対的に東向きに動いたと推定されています。かつ、ベクトル的には、水平方向ベクトルでは東向きですが、鉛直方向ベクトルでは、「讃岐山地」地域では、上向きのベクトルを持ったと推定され、それにより、「讃岐山地」の隆起が生じた、と推定されています。
なお「讃岐山地」の南の山麓部を走る「中央構造線」より南側の部分は逆に、下向きベクトル(沈降傾向)となり、現世では、吉野川中下流域が流れている東西方向の帯状の低地帯が形成されています。
※ “Ma”は、百万年前を意味する単位
「讃岐山地」を構成している「和泉層群」の形成メカニズムは、「讃岐山地」のちょうど南側に並走する「中央構造線」の、白亜紀末に起きた断層活動によることを前節で述べましたが、実は「讃岐山地」の隆起も同じく、「讃岐山地」のちょうど南側に並走する「中央構造線」の断層活動によると推定されています。
但し、その活動時期は新第三紀 鮮新世〜第四紀(約3Ma〜現世)であり、その地質が形成された時期(約83−66Ma)とはまったく別ものです。
(文献3−a)によると、「讃岐山地」の隆起は、第四紀はじめの約200万年前(=約2Ma)に遡ります。なお(文献7)、(文献8)では、もう少し早い、鮮新世中期頃から、と推定しています。
(文献3−a)などによると、約3〜2Ma頃に、四国地方の南側にある「南海トラフ」でのフィリピン海プレートの沈み込む方向が、元は北向きベクトルだったのが、この頃に北西向きベクトルへと変化した、と推定されています。
それにより、起源が古い断層(古傷/力学的な弱線)としての「中央構造線」が、力学的な境界線となり、それより南側(「西南日本外帯」側)は、フィリピン海プレートの沈み込みベクトルのうち、西向きベクトルの影響で西側へ引きずられるように動くようになった、と推定されています。
活断層系としての「中央構造線」を、(鉛直成分も持った)横ずれ断層として考えると、第四紀における活動のセンスは「右横ずれ断層」であり、「右横ずれ断層活動」が現世でも引き続き起こっていることは、地形学的な開析で明らかになっています。これらのことは、1−3章「石鎚山地」の項で、「石鎚山地」の隆起メカニズムとして説明しました。
一方、「中央構造線」の北側は、「右横ずれ断層」ですので、南側とは逆に水平方向では相対的に東向きに動いたと推定されています。かつ、ベクトル的には、水平方向ベクトルでは東向きですが、鉛直方向ベクトルでは、「讃岐山地」地域では、上向きのベクトルを持ったと推定され、それにより、「讃岐山地」の隆起が生じた、と推定されています。
なお「讃岐山地」の南の山麓部を走る「中央構造線」より南側の部分は逆に、下向きベクトル(沈降傾向)となり、現世では、吉野川中下流域が流れている東西方向の帯状の低地帯が形成されています。
※ “Ma”は、百万年前を意味する単位
3) 吉野川の流路変遷と「讃岐山地」の隆起との関連
この項では、地形学的な観点から、「讃岐山地」の隆起と、四国第一の大河である「吉野川」の流路変遷の経緯について、説明します。
(文献3−a)、(文献7)、(文献8)には、「讃岐山地」の隆起と、「吉野川」の流路の変遷に関し、興味深いことが説明されています。
現在、吉野川は、中流部の大歩危・小歩危峡付近では北流していますが、徳島県三好市の中心部(=(旧)池田町)付近で、やや不自然な感じで直角に流路が曲がって東へと向きを変え、その後は「中央構造線」の南側に形成された上記の低地帯に沿って、徳島市付近に至り、紀伊水道へと注いでいます。
しかし過去の古流路の解析によると、「讃岐山地」の隆起以前は、上記の(旧)池田町付近での北向きから東向きへの急激な方向変更は無く、そのまま北流して、現世での香川県西部を流れる財田川(さいたがわ)水系へと続き、香川県西部で瀬戸内海へ注いでいた、と推定されています(以下、この川を(文献7,文献8)に基づき「古・吉野川」と呼ぶことにします)。
また「讃岐山地」の西部には、JR土讃線、国道32号線がこの山地を通り抜ける、やや標高が低い部分(現在の地名でいうと、「猪ノ鼻峠(いのはなとうげ)」)がありますが、(文献7)(文献8)によると、ここは地形学的には「風隙(ふうげき)」地形と呼ばれる、過去に河川の流路となっていた場所であり、上記の「古・吉野川」が流れていた場所と推定されています。
この、「古・吉野川」が瀬戸内海側に流れていたことは、「讃岐山地」の香川県側(北側)の山麓部に堆積している、「三豊(みとよ)層群」という、新第三紀 鮮新世〜第四紀初頭に堆積した礫岩主体の堆積層の中に、外帯(四国山地)由来の三波川結晶片岩類の礫が含まれていることが根拠となっています。
「三豊層群」の研究を元にした(文献7)、(文献8)に基づき少し詳しく述べると、鮮新世(約5.3〜2.6Ma)には、まだ「讃岐山地」は標高が低い状態(あるいは平地)であり、上記の「古・吉野川」は、現在の(旧)池田町から香川県西部(現世の財田川沿い)に流れて瀬戸内海へ注ぎ、また剣山地付近から北流する河川(どの河川かは不明)も、香川県中部(現在の土器川(どきがわ)沿いの水系;「古・土器川」)に流れて、瀬戸内海へと注いでいた、と推定されています。
その時代には、「古・吉野川」や「古・土器川」が、三波川帯由来の礫(結晶片岩の礫)も含めて各種の礫を運んできて、「三豊層群」の下位の地層(文献7,8でいう「財田層」;礫岩層)が形成されました。「財田層」に含まれる礫のうち1〜20%(場所により差異あり)は、外帯(三波川帯)由来の結晶片岩類の礫です。
その後、210〜120万年の間に「讃岐山地」は、その南麓に沿って延びる「中央構造線」の断層活動に伴い、徐々に隆起し、それまで瀬戸内側へと注いでいた「古・吉野川」は、ついに流路を東向きに変え、現在の流路となった、と推定されています。
その頃の「三豊層群」の礫岩主体の堆積層は、(文献7)、(文献8)では「焼尾層」と呼んでいますが、「和泉層群」の地質を元とした砂岩質の礫が大部分を占め、外帯(三波川帯)由来の結晶片岩の礫は認められなくなります。なお「焼尾層」の堆積時期は明確ではありませんが、(文献7)では、約120万年前以降の、第四紀中ごろと推定しています。
なお、(文献7)、(文献8)によると、現世で、吉野川が屈曲する旧・池田町地点と、旧・吉野川が通り抜けていたと推定される、前記の「猪ノ鼻峠」(風隙地形部)とは、直線距離で約4kmずれていますが、これは、この間にある「中央構造線」の右横ずれ活動の活動量を表している、と推定されています。
現在、香川県では大きな河川がなく、しばしば渇水に見舞われていますが、もしも「讃岐山地」の隆起がなかったとすれば、吉野川が香川県に流れこんでいて、渇水に悩まなくても済んだのかも知れませんね。
※ “Ma”は、百万年前を意味する単位
(文献3−a)、(文献7)、(文献8)には、「讃岐山地」の隆起と、「吉野川」の流路の変遷に関し、興味深いことが説明されています。
現在、吉野川は、中流部の大歩危・小歩危峡付近では北流していますが、徳島県三好市の中心部(=(旧)池田町)付近で、やや不自然な感じで直角に流路が曲がって東へと向きを変え、その後は「中央構造線」の南側に形成された上記の低地帯に沿って、徳島市付近に至り、紀伊水道へと注いでいます。
しかし過去の古流路の解析によると、「讃岐山地」の隆起以前は、上記の(旧)池田町付近での北向きから東向きへの急激な方向変更は無く、そのまま北流して、現世での香川県西部を流れる財田川(さいたがわ)水系へと続き、香川県西部で瀬戸内海へ注いでいた、と推定されています(以下、この川を(文献7,文献8)に基づき「古・吉野川」と呼ぶことにします)。
また「讃岐山地」の西部には、JR土讃線、国道32号線がこの山地を通り抜ける、やや標高が低い部分(現在の地名でいうと、「猪ノ鼻峠(いのはなとうげ)」)がありますが、(文献7)(文献8)によると、ここは地形学的には「風隙(ふうげき)」地形と呼ばれる、過去に河川の流路となっていた場所であり、上記の「古・吉野川」が流れていた場所と推定されています。
この、「古・吉野川」が瀬戸内海側に流れていたことは、「讃岐山地」の香川県側(北側)の山麓部に堆積している、「三豊(みとよ)層群」という、新第三紀 鮮新世〜第四紀初頭に堆積した礫岩主体の堆積層の中に、外帯(四国山地)由来の三波川結晶片岩類の礫が含まれていることが根拠となっています。
「三豊層群」の研究を元にした(文献7)、(文献8)に基づき少し詳しく述べると、鮮新世(約5.3〜2.6Ma)には、まだ「讃岐山地」は標高が低い状態(あるいは平地)であり、上記の「古・吉野川」は、現在の(旧)池田町から香川県西部(現世の財田川沿い)に流れて瀬戸内海へ注ぎ、また剣山地付近から北流する河川(どの河川かは不明)も、香川県中部(現在の土器川(どきがわ)沿いの水系;「古・土器川」)に流れて、瀬戸内海へと注いでいた、と推定されています。
その時代には、「古・吉野川」や「古・土器川」が、三波川帯由来の礫(結晶片岩の礫)も含めて各種の礫を運んできて、「三豊層群」の下位の地層(文献7,8でいう「財田層」;礫岩層)が形成されました。「財田層」に含まれる礫のうち1〜20%(場所により差異あり)は、外帯(三波川帯)由来の結晶片岩類の礫です。
その後、210〜120万年の間に「讃岐山地」は、その南麓に沿って延びる「中央構造線」の断層活動に伴い、徐々に隆起し、それまで瀬戸内側へと注いでいた「古・吉野川」は、ついに流路を東向きに変え、現在の流路となった、と推定されています。
その頃の「三豊層群」の礫岩主体の堆積層は、(文献7)、(文献8)では「焼尾層」と呼んでいますが、「和泉層群」の地質を元とした砂岩質の礫が大部分を占め、外帯(三波川帯)由来の結晶片岩の礫は認められなくなります。なお「焼尾層」の堆積時期は明確ではありませんが、(文献7)では、約120万年前以降の、第四紀中ごろと推定しています。
なお、(文献7)、(文献8)によると、現世で、吉野川が屈曲する旧・池田町地点と、旧・吉野川が通り抜けていたと推定される、前記の「猪ノ鼻峠」(風隙地形部)とは、直線距離で約4kmずれていますが、これは、この間にある「中央構造線」の右横ずれ活動の活動量を表している、と推定されています。
現在、香川県では大きな河川がなく、しばしば渇水に見舞われていますが、もしも「讃岐山地」の隆起がなかったとすれば、吉野川が香川県に流れこんでいて、渇水に悩まなくても済んだのかも知れませんね。
※ “Ma”は、百万年前を意味する単位
4) 「讃岐平野」の低山の、地質的特徴
この章の(はじめに)の項でも述べましたが、香川県には、徳島県との県境となっている「讃岐山地」以外に、高い山はなく、平野部(「讃岐平野」)の中に、300〜600m級の低山が点在している地域となっています。
ここにある低山群は、登山対象というよりは軽いハイキングとして、香川県民に親しまれている程度で、全国的な知名度はありません。が、地質学的、地形学的には興味深いものがあります。
この節では、これら、讃岐平野に点在している低山の地質、地形について説明します。また合わせて、瀬戸内海に浮かぶ、瀬戸内海第二位の面積を誇る、小豆島の地質、地形についても述べます。
さて、「讃岐平野」に点在する低山は多数ありますが、特にハイキングや観光の対象としてよく知られているものとしては、大麻山(琴平山、象頭山(ぞうずさん)とも呼ばれ、中腹に金比羅宮がある山;616m)、飯野山(讃岐富士とも呼ばれる;421m)、我拝師山(がはいしやま、弘法大師が修業したという伝説がある;481m)、五色台(ごしきだい;479m)、屋島(源平合戦の地としても有名;292m)、五剣山(ごけんざん、山麓に八十八か所霊場の八栗寺がある、366m)などが挙げられます(文献1)。
このうち五色台と屋島は観光地化されていますが、他は軽いハイキングができ、瀬戸内海の景色が眺められる良い山々です。
また、瀬戸内海に浮かぶ小豆島も標高は800m以上あり、全体が台地状の山とも言えます。標高の最高点は、星ヶ城(ほしがじょう;813m)ですが、この最高点を目指す山歩きというより、中腹の寒霞渓(かんかけい)を含めたハイキングの場所といえます。
さて、産総研「シームレス地質図v2」で確認すると、この「讃岐平野」に点在するこれらの山々の地質は、基盤地質として、「領家帯」に属する白亜紀の花崗岩類があり、その上に、新第三紀 中新世の火山岩類が乗っている状態となっています。
実際に上記の山々に登ると、麓から標高100〜200m付近までは風化した花崗岩類で、その上は急に火山岩へと岩相が変化します。
山によって、火山岩のタイプはやや異なり、大麻山、我拝師山、飯野山は、流理構造(「溶岩シート状構造」)が認められる溶岩層(溶岩流)でできています。
産総研「シームレス地質図v2」で火山岩の種類を確認すると、ほぼどの山でも、珪長質な「デイサイト〜流紋岩質」の火山岩が下位にあり、その上に「玄武岩質安山岩〜安山岩質」の火山岩が乗っている2層構造になっています。
また五色台と屋島は、上部が平坦な地形であり、周辺部から徐々に浸食を受け、残存した溶岩台地と推定されています(文献3−b)。
一方、五剣山は、凝灰角礫岩でできており、その地質が風化に弱いためと思われますが、その山名のとおり、岩峰が林立した特異な山容をしています。
小豆島は、中腹は凝灰角礫岩からなり、それが浸食された険しい渓谷部は、「寒霞渓(かんかけい)」と呼ばれ、観光地としても知られています。小豆島の場合、その凝灰角礫岩の層の上に、さらに溶岩の層があり、最高点の星ヶ城(ほしがじょう;813m)付近は、平坦な地形をなし、溶岩台地となっています。
現世では火山の気配もない讃岐平野ですが、新第三紀 中新世 中期(約15〜12Ma)には、この一帯は、火山活動がさかんだったことが、地質を見ると良く解ります。
(文献2―b)によると、この讃岐平野と小豆島を含む一帯の、中新世の火山活動は一括して「瀬戸内火山活動」と呼ばれています。なお古くは、関西中部の火山岩分布域を含め、「瀬戸内火山帯」と呼ばれていましたが、火山岩の年代測定により、現世の火山活動ゾーンではないことが解ったことで、「瀬戸内火山帯」という用語は今では使われません(文献13―1)。
これら「瀬戸内火山活動」が生じた理由は、この連載の第1部のうち、1−3章「石鎚山地」で、石鎚山がカルデラ式火山として活動したのと同じメカニズム、と推定されています。
すなわち、約20〜15Maに起きた「日本海拡大/日本列島移動イベント」の際、「西南日本」ブロックが、まだ海洋底拡大プロセスにより出来立てであったフィリピン海プレートの上に強制的に乗り上げた形となり、その間の部分でマグマが形成され、そのマグマが元で火山活動が生じた、というメカニズムです(文献2−b)、(文献9)。
個々の山域の地質、火山活動について、(文献2−c)に細かく解説されていますが、このうち、小豆島、五剣山、五色台について、多少詳しく説明します。
a) 小豆島;小豆島に分布している火山岩類は(文献2−c)や(文献9)では細かく12グループに分けられていますが、大きく見ると、中腹の「寒霞渓」付近の凝灰角礫岩層と、星ヶ城山など上部の溶岩台地を形成している溶岩層の2つにわけることができます。
このうち、凝灰角礫岩層(神懸山火砕岩類)を形成した火山活動は、寒霞渓付近を噴火中心とし、かつ水中噴火に特徴的な急冷構造や、堆積物に葉理やスランプ構造といった水中堆積物特有の特徴が認められることから、この一帯は火山活動が起きた当時、比較的大きな淡水湖があり、その湖底で噴火したもの、と推定されています(文献2−c)、(文献9)。
b)五剣山;五剣山も小豆島と同じく、凝灰角礫岩、凝灰岩(流紋岩質、安山岩質)の多い地質となっていますが、五剣山に近い位置に、火道跡が確認されており、小豆島とは別の火山として活動したと推定されています(文献2−c)。
なお、地形については後述しますが、小豆島とは異なり、凝灰角礫岩、凝灰岩層の上部に溶岩層は無く、五剣山の険しい岩峰群は、浸食された凝灰角礫岩からなっています。
c)五色台;五色台の火山性地質は、基盤地質である花崗岩類の上に、中腹層として凝灰角礫岩層(流紋岩質、デイサイト質)があり、さらにその上に大量のサヌキトイド安山岩質(注1)の溶岩流が乗っている構成となっています。このうち凝灰岩部分は、小豆島と同様に、水中での噴出物と推定されています。その上に乗っている安山岩質の溶岩流は場所によって層厚に差異があることから、複数の層厚の厚い場所が、元々は火口があった場所であり、それら複数の火口から溶岩流が噴出した、と推定されています。
五色台を形成している火山岩類は、周辺部から浸食をうけて溶岩台地状の地形となっていますが、火山活動時には、現在の約2倍の面積をもつ溶岩台地を形成していた、とも推定されています(文献2−c)。
なお、五色台の一部には、ガラス質(アモルファス)の火山岩である「サヌカイト」(注1)が産出するとされています(文献12)。しかし実際には、かなり採掘されてしまったのか?、「サヌカイト」の良い露頭はありません。
「サヌカイト」は、透明感を持つ黒っぽい岩石で、色々な特徴がありますが、(注1)の項にその詳細はまとめました。
ところで、「讃岐平野」に分布している中新世の火山岩類のうち、安山岩質〜玄武岩質のものは、マグネシウム(Mg)の含有量が比較的多いことを特徴としており、「サヌキトイド」(Sanukitoid)、(注1) と呼ばれる、やや特殊な種類の火山岩です(文献2−c)。
「サヌキトイド」に関する詳細は、(注1)の項にまとめました。
※ "Ma”は、百万年前を意味する単位
ここにある低山群は、登山対象というよりは軽いハイキングとして、香川県民に親しまれている程度で、全国的な知名度はありません。が、地質学的、地形学的には興味深いものがあります。
この節では、これら、讃岐平野に点在している低山の地質、地形について説明します。また合わせて、瀬戸内海に浮かぶ、瀬戸内海第二位の面積を誇る、小豆島の地質、地形についても述べます。
さて、「讃岐平野」に点在する低山は多数ありますが、特にハイキングや観光の対象としてよく知られているものとしては、大麻山(琴平山、象頭山(ぞうずさん)とも呼ばれ、中腹に金比羅宮がある山;616m)、飯野山(讃岐富士とも呼ばれる;421m)、我拝師山(がはいしやま、弘法大師が修業したという伝説がある;481m)、五色台(ごしきだい;479m)、屋島(源平合戦の地としても有名;292m)、五剣山(ごけんざん、山麓に八十八か所霊場の八栗寺がある、366m)などが挙げられます(文献1)。
このうち五色台と屋島は観光地化されていますが、他は軽いハイキングができ、瀬戸内海の景色が眺められる良い山々です。
また、瀬戸内海に浮かぶ小豆島も標高は800m以上あり、全体が台地状の山とも言えます。標高の最高点は、星ヶ城(ほしがじょう;813m)ですが、この最高点を目指す山歩きというより、中腹の寒霞渓(かんかけい)を含めたハイキングの場所といえます。
さて、産総研「シームレス地質図v2」で確認すると、この「讃岐平野」に点在するこれらの山々の地質は、基盤地質として、「領家帯」に属する白亜紀の花崗岩類があり、その上に、新第三紀 中新世の火山岩類が乗っている状態となっています。
実際に上記の山々に登ると、麓から標高100〜200m付近までは風化した花崗岩類で、その上は急に火山岩へと岩相が変化します。
山によって、火山岩のタイプはやや異なり、大麻山、我拝師山、飯野山は、流理構造(「溶岩シート状構造」)が認められる溶岩層(溶岩流)でできています。
産総研「シームレス地質図v2」で火山岩の種類を確認すると、ほぼどの山でも、珪長質な「デイサイト〜流紋岩質」の火山岩が下位にあり、その上に「玄武岩質安山岩〜安山岩質」の火山岩が乗っている2層構造になっています。
また五色台と屋島は、上部が平坦な地形であり、周辺部から徐々に浸食を受け、残存した溶岩台地と推定されています(文献3−b)。
一方、五剣山は、凝灰角礫岩でできており、その地質が風化に弱いためと思われますが、その山名のとおり、岩峰が林立した特異な山容をしています。
小豆島は、中腹は凝灰角礫岩からなり、それが浸食された険しい渓谷部は、「寒霞渓(かんかけい)」と呼ばれ、観光地としても知られています。小豆島の場合、その凝灰角礫岩の層の上に、さらに溶岩の層があり、最高点の星ヶ城(ほしがじょう;813m)付近は、平坦な地形をなし、溶岩台地となっています。
現世では火山の気配もない讃岐平野ですが、新第三紀 中新世 中期(約15〜12Ma)には、この一帯は、火山活動がさかんだったことが、地質を見ると良く解ります。
(文献2―b)によると、この讃岐平野と小豆島を含む一帯の、中新世の火山活動は一括して「瀬戸内火山活動」と呼ばれています。なお古くは、関西中部の火山岩分布域を含め、「瀬戸内火山帯」と呼ばれていましたが、火山岩の年代測定により、現世の火山活動ゾーンではないことが解ったことで、「瀬戸内火山帯」という用語は今では使われません(文献13―1)。
これら「瀬戸内火山活動」が生じた理由は、この連載の第1部のうち、1−3章「石鎚山地」で、石鎚山がカルデラ式火山として活動したのと同じメカニズム、と推定されています。
すなわち、約20〜15Maに起きた「日本海拡大/日本列島移動イベント」の際、「西南日本」ブロックが、まだ海洋底拡大プロセスにより出来立てであったフィリピン海プレートの上に強制的に乗り上げた形となり、その間の部分でマグマが形成され、そのマグマが元で火山活動が生じた、というメカニズムです(文献2−b)、(文献9)。
個々の山域の地質、火山活動について、(文献2−c)に細かく解説されていますが、このうち、小豆島、五剣山、五色台について、多少詳しく説明します。
a) 小豆島;小豆島に分布している火山岩類は(文献2−c)や(文献9)では細かく12グループに分けられていますが、大きく見ると、中腹の「寒霞渓」付近の凝灰角礫岩層と、星ヶ城山など上部の溶岩台地を形成している溶岩層の2つにわけることができます。
このうち、凝灰角礫岩層(神懸山火砕岩類)を形成した火山活動は、寒霞渓付近を噴火中心とし、かつ水中噴火に特徴的な急冷構造や、堆積物に葉理やスランプ構造といった水中堆積物特有の特徴が認められることから、この一帯は火山活動が起きた当時、比較的大きな淡水湖があり、その湖底で噴火したもの、と推定されています(文献2−c)、(文献9)。
b)五剣山;五剣山も小豆島と同じく、凝灰角礫岩、凝灰岩(流紋岩質、安山岩質)の多い地質となっていますが、五剣山に近い位置に、火道跡が確認されており、小豆島とは別の火山として活動したと推定されています(文献2−c)。
なお、地形については後述しますが、小豆島とは異なり、凝灰角礫岩、凝灰岩層の上部に溶岩層は無く、五剣山の険しい岩峰群は、浸食された凝灰角礫岩からなっています。
c)五色台;五色台の火山性地質は、基盤地質である花崗岩類の上に、中腹層として凝灰角礫岩層(流紋岩質、デイサイト質)があり、さらにその上に大量のサヌキトイド安山岩質(注1)の溶岩流が乗っている構成となっています。このうち凝灰岩部分は、小豆島と同様に、水中での噴出物と推定されています。その上に乗っている安山岩質の溶岩流は場所によって層厚に差異があることから、複数の層厚の厚い場所が、元々は火口があった場所であり、それら複数の火口から溶岩流が噴出した、と推定されています。
五色台を形成している火山岩類は、周辺部から浸食をうけて溶岩台地状の地形となっていますが、火山活動時には、現在の約2倍の面積をもつ溶岩台地を形成していた、とも推定されています(文献2−c)。
なお、五色台の一部には、ガラス質(アモルファス)の火山岩である「サヌカイト」(注1)が産出するとされています(文献12)。しかし実際には、かなり採掘されてしまったのか?、「サヌカイト」の良い露頭はありません。
「サヌカイト」は、透明感を持つ黒っぽい岩石で、色々な特徴がありますが、(注1)の項にその詳細はまとめました。
ところで、「讃岐平野」に分布している中新世の火山岩類のうち、安山岩質〜玄武岩質のものは、マグネシウム(Mg)の含有量が比較的多いことを特徴としており、「サヌキトイド」(Sanukitoid)、(注1) と呼ばれる、やや特殊な種類の火山岩です(文献2−c)。
「サヌキトイド」に関する詳細は、(注1)の項にまとめました。
※ "Ma”は、百万年前を意味する単位
注1) 「サヌカイト」、「サヌキトイド」について
「サヌカイト」(Sanukite)と「サヌキトイド」(Sanukitoid)とは、言葉としては似ていて混同しそうですが、岩石の種類としては、本来、別の意味のものです。
1)「サヌカイト」(Sanukite)
「サヌカイト」とは、アモルファス(=ガラス質)な構造を持つ火山岩の一種であり、岩石中の原子結合様式に着目した用語といえます。
香川県で見られる「サヌカイト」は、岩石の化学組成的な性質としては、主には安山岩質です。なお(文献13−2)では、「一般的には安山岩質とされるが、Sio2含有量を元にした厳密な火成岩分類では、デイサイト質である」、と記載されています。
(文献13−2)では、日本語の岩石学的名称として、「非顕晶質 古銅輝石 安山岩」と書いてあります。また別名として「讃岐岩(さぬきがん)」とも呼びます(文献14)。
「サヌカイト」は、見た目も普通の火山岩とはかなり異なり、黒っぽくて透明感を持ちます。見た目は「黒曜石」にかなり似ています。
なお「黒曜石(こくようせき)」(「黒曜岩」とも言う、英語では ”Obsidian")も、アモルファス(=ガラス質)の岩石であり、類似した原子結合様式を持っています。ただし、岩石の化学組成的には、流紋岩質(〜デイサイト質)です(文献13-4)、(文献14)。
「黒曜石」の産地は日本列島のうち長野県和田峠付近など4〜5カ所が知られており、縄文〜弥生時代にかけ、「サヌカイト」と同様に、石器(矢じりなど)に使われたことは、考古学の分野でよく知られています(文献13-4)、(文献14)。
最初に「サヌカイト」という岩石に注目したのは、19世紀後期(明治時代)に日本にやってきて、日本各地の地質研究を行った、E.Naumann(ナウマン)で、その後、1891年にドイツの岩石学者 E.Weinscenk が”Sanukite”と命名した、日本特産の岩石種です(文献13−3)。
「サヌカイト」は石同士を叩き合わせると、金属質のきれいな音色がでることから、「カンカン石」とも呼ばれ、楽器(石琴)として使用されることもあります(文献2−c)、(文献12)、(文献13−3)、(文献14)。
また、縄文〜弥生時代には、黒曜石と同様に、石器(矢じりなど)の材料として使用されたことは、考古学の分野でよく知られています(文献12)、(文献14)。
2)「サヌキトイド」(Sanukitoid)
「サヌキトイド」とは、香川県(=讃岐地方)に分布する、マグネシウム含有量が比較的多い、主に安山岩質の火山岩全般を指す用語であり、化学組成的な特徴に着目した用語といえます。
(文献12)や(文献13ー2)によると、日本人の地質学者、小藤先生が、1915年に命名したものです。
("…oid” という英語の接尾語は、「何かに類似した」という意味合いを持つ)。
なお文献によっては、「讃岐岩質」と訳されていることもあります。
その化学組成上の特徴から、マグネシウム含有量の多い「サヌキトイド」は、マントル由来のマグマの特徴を持つと推定されています(文献2−c)、(文献9)。
ただし、目視レベルでの見た目は、普通の安山岩〜玄武岩質安山岩と大きな差異はありません。また「サヌカイト」のような透明感も持ちません。
※ なお「サヌカイト」と「サヌキトイド」とは言葉が似ていることもあり、ネット上の情報などでは、この2つの用語の混同が見られます。また「サヌカイト」は(広義の)「サヌキトイド」の一種、としている文献も見受けられます。
1)「サヌカイト」(Sanukite)
「サヌカイト」とは、アモルファス(=ガラス質)な構造を持つ火山岩の一種であり、岩石中の原子結合様式に着目した用語といえます。
香川県で見られる「サヌカイト」は、岩石の化学組成的な性質としては、主には安山岩質です。なお(文献13−2)では、「一般的には安山岩質とされるが、Sio2含有量を元にした厳密な火成岩分類では、デイサイト質である」、と記載されています。
(文献13−2)では、日本語の岩石学的名称として、「非顕晶質 古銅輝石 安山岩」と書いてあります。また別名として「讃岐岩(さぬきがん)」とも呼びます(文献14)。
「サヌカイト」は、見た目も普通の火山岩とはかなり異なり、黒っぽくて透明感を持ちます。見た目は「黒曜石」にかなり似ています。
なお「黒曜石(こくようせき)」(「黒曜岩」とも言う、英語では ”Obsidian")も、アモルファス(=ガラス質)の岩石であり、類似した原子結合様式を持っています。ただし、岩石の化学組成的には、流紋岩質(〜デイサイト質)です(文献13-4)、(文献14)。
「黒曜石」の産地は日本列島のうち長野県和田峠付近など4〜5カ所が知られており、縄文〜弥生時代にかけ、「サヌカイト」と同様に、石器(矢じりなど)に使われたことは、考古学の分野でよく知られています(文献13-4)、(文献14)。
最初に「サヌカイト」という岩石に注目したのは、19世紀後期(明治時代)に日本にやってきて、日本各地の地質研究を行った、E.Naumann(ナウマン)で、その後、1891年にドイツの岩石学者 E.Weinscenk が”Sanukite”と命名した、日本特産の岩石種です(文献13−3)。
「サヌカイト」は石同士を叩き合わせると、金属質のきれいな音色がでることから、「カンカン石」とも呼ばれ、楽器(石琴)として使用されることもあります(文献2−c)、(文献12)、(文献13−3)、(文献14)。
また、縄文〜弥生時代には、黒曜石と同様に、石器(矢じりなど)の材料として使用されたことは、考古学の分野でよく知られています(文献12)、(文献14)。
2)「サヌキトイド」(Sanukitoid)
「サヌキトイド」とは、香川県(=讃岐地方)に分布する、マグネシウム含有量が比較的多い、主に安山岩質の火山岩全般を指す用語であり、化学組成的な特徴に着目した用語といえます。
(文献12)や(文献13ー2)によると、日本人の地質学者、小藤先生が、1915年に命名したものです。
("…oid” という英語の接尾語は、「何かに類似した」という意味合いを持つ)。
なお文献によっては、「讃岐岩質」と訳されていることもあります。
その化学組成上の特徴から、マグネシウム含有量の多い「サヌキトイド」は、マントル由来のマグマの特徴を持つと推定されています(文献2−c)、(文献9)。
ただし、目視レベルでの見た目は、普通の安山岩〜玄武岩質安山岩と大きな差異はありません。また「サヌカイト」のような透明感も持ちません。
※ なお「サヌカイト」と「サヌキトイド」とは言葉が似ていることもあり、ネット上の情報などでは、この2つの用語の混同が見られます。また「サヌカイト」は(広義の)「サヌキトイド」の一種、としている文献も見受けられます。
5) 讃岐平野の低山の、地形学的特徴
前述のとおり、小豆島も含め、讃岐平野にある山々は標高が1000m以下の低山群ではありますが、地形学的には特徴のある山々が多いといえます。
まず、頂上部が平坦で、その周辺部が急峻になっている、台地状の山が目につきます。地形学的には「メサ」と呼ばれる地形です。具体的には屋島が典型的な「メサ」状地形をもち、その他に「五色台」も「メサ」的な台地状の山です(文献3−b)。このうち「屋島」は典型的な「メサ」状地形として国の天然記念物に指定されています(文献11)。
また小豆島の地形は、一般的には「メサ」とは呼ばれませんが、寒霞渓付近から頂上部台地にかけては、「メサ」状地形に類似した特徴を有しています。(文献3−c)では、上部層の溶岩層がキャップロックとなって、上部は平坦な溶岩台地を形成しており、「寒霞渓」付近は、中層にあたる凝灰角礫岩層が浸食を受けて標高差400m程の急峻な地形を形成している、と説明されています。
一方で、低山ながら尖峰状の山々もあります。具体的には「五剣山」や、「我拝師山」が代表的な山々です。これらは地形学的には「ビュート」と呼ばれる地形です(文献3−b)。(文献3−b)では、讃岐富士(飯野山)も「ビュート」としています。
前項で述べたように、讃岐平野の低山や小豆島は、地質学的には、基盤地質として花崗岩質の岩体が広く分布し、その上に中新世の火山噴出物として、凝灰角礫岩類、更に一部の山ではその上に溶岩層が乗っかっている構造を持っています。
(文献3−d)によると、これらの「瀬戸内火山活動」が生じた新第三紀 中新世(約15〜12Ma)の後、第四紀までの間の長い期間、この香川県一帯は、地殻変動が少なかったと推定されています。そのために、中新世に噴出した火山岩類は、徐々に浸食されて、残丘としてあちこちに点在する形となっています。
このうち、上部に溶岩層が乗っかっているものは、比較的浸食に抵抗力を持つため、周辺部から徐々に浸食を受けつつも、溶岩からなる台地状地形を現世でも保っており、それが、屋島や五色台のような、「メサ」状地形を形成した、と推定されています(文献3−b)。
一方、上部に溶岩層が元々無かったもの、あるいは以前はあったが、既に浸食によって失われ、浸食に比較的弱い凝灰角礫岩層が露出したものは、浸食によって削られて、五剣山や我拝師山のような、「ビュート」状の地形を形成したと推定されています(文献3−b)。
(文献10)は、近接した位置にある屋島(メサ状地形)と、五剣山(ビュート状地形)に関し、地質と地形との関連を検討したものですが、上部に溶岩層を持つ屋島は浸食抵抗性が強いためメサ状地形を残しており、五剣山は上部まで凝灰角礫岩層なので浸食が進み、ビュート状地形となった、と考察しています。
また(文献11)は、(文献10)の内容を踏まえ、屋島と五剣山の特徴的な地形(メサ、ビュート地形)に関し、解りやすく解説してある資料です。
まず、頂上部が平坦で、その周辺部が急峻になっている、台地状の山が目につきます。地形学的には「メサ」と呼ばれる地形です。具体的には屋島が典型的な「メサ」状地形をもち、その他に「五色台」も「メサ」的な台地状の山です(文献3−b)。このうち「屋島」は典型的な「メサ」状地形として国の天然記念物に指定されています(文献11)。
また小豆島の地形は、一般的には「メサ」とは呼ばれませんが、寒霞渓付近から頂上部台地にかけては、「メサ」状地形に類似した特徴を有しています。(文献3−c)では、上部層の溶岩層がキャップロックとなって、上部は平坦な溶岩台地を形成しており、「寒霞渓」付近は、中層にあたる凝灰角礫岩層が浸食を受けて標高差400m程の急峻な地形を形成している、と説明されています。
一方で、低山ながら尖峰状の山々もあります。具体的には「五剣山」や、「我拝師山」が代表的な山々です。これらは地形学的には「ビュート」と呼ばれる地形です(文献3−b)。(文献3−b)では、讃岐富士(飯野山)も「ビュート」としています。
前項で述べたように、讃岐平野の低山や小豆島は、地質学的には、基盤地質として花崗岩質の岩体が広く分布し、その上に中新世の火山噴出物として、凝灰角礫岩類、更に一部の山ではその上に溶岩層が乗っかっている構造を持っています。
(文献3−d)によると、これらの「瀬戸内火山活動」が生じた新第三紀 中新世(約15〜12Ma)の後、第四紀までの間の長い期間、この香川県一帯は、地殻変動が少なかったと推定されています。そのために、中新世に噴出した火山岩類は、徐々に浸食されて、残丘としてあちこちに点在する形となっています。
このうち、上部に溶岩層が乗っかっているものは、比較的浸食に抵抗力を持つため、周辺部から徐々に浸食を受けつつも、溶岩からなる台地状地形を現世でも保っており、それが、屋島や五色台のような、「メサ」状地形を形成した、と推定されています(文献3−b)。
一方、上部に溶岩層が元々無かったもの、あるいは以前はあったが、既に浸食によって失われ、浸食に比較的弱い凝灰角礫岩層が露出したものは、浸食によって削られて、五剣山や我拝師山のような、「ビュート」状の地形を形成したと推定されています(文献3−b)。
(文献10)は、近接した位置にある屋島(メサ状地形)と、五剣山(ビュート状地形)に関し、地質と地形との関連を検討したものですが、上部に溶岩層を持つ屋島は浸食抵抗性が強いためメサ状地形を残しており、五剣山は上部まで凝灰角礫岩層なので浸食が進み、ビュート状地形となった、と考察しています。
また(文献11)は、(文献10)の内容を踏まえ、屋島と五剣山の特徴的な地形(メサ、ビュート地形)に関し、解りやすく解説してある資料です。
(参考文献)
文献1) 高松勤労者山の会 著
「新・分県登山ガイド 第36巻 香川県の山」
山と渓谷社 刊 (2006) のうち、
「概説;香川県の山に登る」の項、及び各山々の項
文献2)日本地質学会 編
「日本地方地質誌 第7巻 四国地方」
朝倉書店 刊 (2016)
文献2−a) 文献2)のうち、2−5章「和泉層群」の項
文献2−b) 文献2)のうち、第7部「(四国地方の)第三紀火成岩類」の、序章
文献2−c) 文献2)のうち、7−3章「瀬戸内火山岩類」の各項
文献3) 太田、成瀬、田中、岡田 編
「日本の地形 第6巻 近畿・中国・四国」
東京大学出版会 刊 (2004)
文献3−a) 文献3)のうち、
6−4章 「讃岐山脈と中央構造線」の項
文献3−b) 文献3)のうち、
5−3−(1)―1)項 「高松平野」、及び
5−3−(1)―2)項 「丸亀・坂出平野」の項
文献3−c) 文献3)のうち、
5−1―(1)節 「瀬戸内海の島」の項
文献3−d) 文献3)のうち、
9−1章 「(近畿・中国・四国地方の)プレート運動と地殻変動、
および古地理変遷の概略」の項、
9−2章 「(近畿・中国・四国地方の)中新世以降の
小起伏面の形成と堆積物の関係」の項、及び、
9−3章 「(近畿・中国・四国地方の)鮮新世以降における
隆起・堆積域の変遷と、山地と盆地・平野の形成時期」の項
文献4) 西浦、山崎、奥村
「阿讃山脈西部の和泉層群に見られる堆積構造」
堆積学研究会報誌 第38巻 p33-44 (1993)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssj1972/38/38/38_38_33/_pdf/-char/ja
文献5) 野田、利光、栗原、岩野
「愛媛県新居浜地域における和泉層群の層序と堆積年代」
地質学雑誌 第116号、p99-113 (2010)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc/116/2/116_2_99/_pdf
文献6) 山北、伊藤
「和泉層群堆積盆形成に関する数値モデル実験」
構造地質誌 第43号 p1-9 (1999)
http://struct.geosociety.jp/pub/trgj/43/4301.pdf
文献7) 植木、満塩
「阿讃山地の隆起過程;鮮新〜更新統 三豊層群を指標にして」
地質学雑誌 第104号 p247-267 (1998)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc1893/104/4/104_4_247/_article/-char/ja/
文献8) 植木
「香川県中部、阿讃山地北麓の三豊層群 ―その記載と鮮新世以降の古地理の変遷」
地学雑誌 第110号、p708-724 (2001)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8766651/1/1
(このリンク先は、国立 国会図書館デジタルコレクションで、
このサイト内に、当該論文のPDFファイルがあります)
文献9) 巽、谷、川畑
「小豆島の瀬戸内火山岩類;水中火山活動とサヌキトイド」
地質学雑誌 第115巻 (補遺) 、p15-20 (2009)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc/115/Supplement/115_Supplement_S15/_pdf
文献10) 国方、松倉
「讃岐平野北部の屋島五剣山周辺の地形と岩石に関する予察的研究」
筑波大学水理実験センター報告 No.19 p33-44 (1994)
https://www.ied.tsukuba.ac.jp/wordpress/wpcontent/uploads/pdf_papers/ercbull19/1933.pdf
文献11)長谷川
「屋島のメサはどのようにしてできたのか?」
インターネット上の、市民講座用の(?)資料 (2013)
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/kako/kako.files/20736_L87_2-1.pdf
文献12)
「香川大学ホームページ」のうち、「サヌカイト」の項
2023年3月 閲覧
https://www.museum.kagawa-u.ac.jp/hokanko/sanukaite/sanukite.html
文献13) 地質団体研究会 編
「新編 地学事典」 平凡社 刊 (1994)
文献13−1) 文献13)のうち、「瀬戸内火山帯」の項
文献13−2) 文献13)のうち、「サヌキトイド」の項
文献13−3) 文献13)のうち、「サヌカイト」の項
文献12−4) 文献13)のうち、「黒曜石」の項
文献14) 西本
「観察を楽しむ 特徴がわかる 岩石図鑑」
ナツメ社 刊 (2020) のうち、
「サヌカイト(讃岐岩)」の項 及び 「黒曜石」の項
「新・分県登山ガイド 第36巻 香川県の山」
山と渓谷社 刊 (2006) のうち、
「概説;香川県の山に登る」の項、及び各山々の項
文献2)日本地質学会 編
「日本地方地質誌 第7巻 四国地方」
朝倉書店 刊 (2016)
文献2−a) 文献2)のうち、2−5章「和泉層群」の項
文献2−b) 文献2)のうち、第7部「(四国地方の)第三紀火成岩類」の、序章
文献2−c) 文献2)のうち、7−3章「瀬戸内火山岩類」の各項
文献3) 太田、成瀬、田中、岡田 編
「日本の地形 第6巻 近畿・中国・四国」
東京大学出版会 刊 (2004)
文献3−a) 文献3)のうち、
6−4章 「讃岐山脈と中央構造線」の項
文献3−b) 文献3)のうち、
5−3−(1)―1)項 「高松平野」、及び
5−3−(1)―2)項 「丸亀・坂出平野」の項
文献3−c) 文献3)のうち、
5−1―(1)節 「瀬戸内海の島」の項
文献3−d) 文献3)のうち、
9−1章 「(近畿・中国・四国地方の)プレート運動と地殻変動、
および古地理変遷の概略」の項、
9−2章 「(近畿・中国・四国地方の)中新世以降の
小起伏面の形成と堆積物の関係」の項、及び、
9−3章 「(近畿・中国・四国地方の)鮮新世以降における
隆起・堆積域の変遷と、山地と盆地・平野の形成時期」の項
文献4) 西浦、山崎、奥村
「阿讃山脈西部の和泉層群に見られる堆積構造」
堆積学研究会報誌 第38巻 p33-44 (1993)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssj1972/38/38/38_38_33/_pdf/-char/ja
文献5) 野田、利光、栗原、岩野
「愛媛県新居浜地域における和泉層群の層序と堆積年代」
地質学雑誌 第116号、p99-113 (2010)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc/116/2/116_2_99/_pdf
文献6) 山北、伊藤
「和泉層群堆積盆形成に関する数値モデル実験」
構造地質誌 第43号 p1-9 (1999)
http://struct.geosociety.jp/pub/trgj/43/4301.pdf
文献7) 植木、満塩
「阿讃山地の隆起過程;鮮新〜更新統 三豊層群を指標にして」
地質学雑誌 第104号 p247-267 (1998)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc1893/104/4/104_4_247/_article/-char/ja/
文献8) 植木
「香川県中部、阿讃山地北麓の三豊層群 ―その記載と鮮新世以降の古地理の変遷」
地学雑誌 第110号、p708-724 (2001)
https://dl.ndl.go.jp/pid/8766651/1/1
(このリンク先は、国立 国会図書館デジタルコレクションで、
このサイト内に、当該論文のPDFファイルがあります)
文献9) 巽、谷、川畑
「小豆島の瀬戸内火山岩類;水中火山活動とサヌキトイド」
地質学雑誌 第115巻 (補遺) 、p15-20 (2009)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc/115/Supplement/115_Supplement_S15/_pdf
文献10) 国方、松倉
「讃岐平野北部の屋島五剣山周辺の地形と岩石に関する予察的研究」
筑波大学水理実験センター報告 No.19 p33-44 (1994)
https://www.ied.tsukuba.ac.jp/wordpress/wpcontent/uploads/pdf_papers/ercbull19/1933.pdf
文献11)長谷川
「屋島のメサはどのようにしてできたのか?」
インターネット上の、市民講座用の(?)資料 (2013)
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/kako/kako.files/20736_L87_2-1.pdf
文献12)
「香川大学ホームページ」のうち、「サヌカイト」の項
2023年3月 閲覧
https://www.museum.kagawa-u.ac.jp/hokanko/sanukaite/sanukite.html
文献13) 地質団体研究会 編
「新編 地学事典」 平凡社 刊 (1994)
文献13−1) 文献13)のうち、「瀬戸内火山帯」の項
文献13−2) 文献13)のうち、「サヌキトイド」の項
文献13−3) 文献13)のうち、「サヌカイト」の項
文献12−4) 文献13)のうち、「黒曜石」の項
文献14) 西本
「観察を楽しむ 特徴がわかる 岩石図鑑」
ナツメ社 刊 (2020) のうち、
「サヌカイト(讃岐岩)」の項 及び 「黒曜石」の項
このリンク先の、1−1章の文末には、第1部「四国の山々の地質」の各章へのリンク、及び、序章(本連載の各部へのリンクあり)を付けています。
第1部の他の章や、他の部をご覧になりたい方は、どうぞご利用ください。
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【書記事項】
・本連載の第1部「四国地方の山々の地質」のうち、初版リリース時には説明していなかった、「讃岐山地」と香川県の山々について、新しく書き下ろした。(2023年3月18日)
△最新改定日;2023年3月18日
△最新改定日;2023年3月18日
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