この本を片手に史跡を巡りました。歩いて現地で腰をおろして、当該頁を読む。たいへん理解が進みます。
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5/20 23:13
この本を片手に史跡を巡りました。歩いて現地で腰をおろして、当該頁を読む。たいへん理解が進みます。
武田勝頼敗走の際、地に挿した桑の枝が逆さになったそうです。長篠城駅前にありました。
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5/20 11:42
武田勝頼敗走の際、地に挿した桑の枝が逆さになったそうです。長篠城駅前にありました。
長篠城駅から武田勝頼本陣の医王寺へ向かうところにあり、大通寺によってみましたら、
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5/20 11:55
長篠城駅から武田勝頼本陣の医王寺へ向かうところにあり、大通寺によってみましたら、
結構なお寺でした。1575年には武田軍の詰め所になりました。
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5/20 11:56
結構なお寺でした。1575年には武田軍の詰め所になりました。
大通寺の裏には、馬場信房61歳、山縣昌景47歳、内藤昌豊54歳、土屋直村がここの井戸で水杯を交わした。四人は勝頼の突撃に待ったをかけたが容れられなかった。
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5/20 11:57
大通寺の裏には、馬場信房61歳、山縣昌景47歳、内藤昌豊54歳、土屋直村がここの井戸で水杯を交わした。四人は勝頼の突撃に待ったをかけたが容れられなかった。
大通寺の裏には、馬場信房61歳、山縣昌景47歳、内藤昌豊54歳、土屋直村がここの井戸で水杯を交わした。四人は勝頼の突撃に待ったをかけたが容れられなかった。
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5/20 11:57
大通寺の裏には、馬場信房61歳、山縣昌景47歳、内藤昌豊54歳、土屋直村がここの井戸で水杯を交わした。四人は勝頼の突撃に待ったをかけたが容れられなかった。
武田勝頼の本陣のある医王寺の南東にある、大通寺裏山の台地山頂部(大通寺山陣地)に遊歩道あり。
この、今は平らな杉林に二千人野営してたのか〜。
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5/20 12:04
武田勝頼の本陣のある医王寺の南東にある、大通寺裏山の台地山頂部(大通寺山陣地)に遊歩道あり。
この、今は平らな杉林に二千人野営してたのか〜。
武田勝頼の本陣のある医王寺の南東にある、大通寺裏山の台地山頂部(大通寺山陣地)に遊歩道あり。
この、今は平らな杉林に二千人野営してたのか〜。
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5/20 12:07
武田勝頼の本陣のある医王寺の南東にある、大通寺裏山の台地山頂部(大通寺山陣地)に遊歩道あり。
この、今は平らな杉林に二千人野営してたのか〜。
武田勝頼の本陣のある医王寺の南東にある、大通寺裏山の台地山頂部(大通寺山陣地)に遊歩道あり。
この、今は平らな杉林に二千人野営してたのか〜。
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5/20 12:10
武田勝頼の本陣のある医王寺の南東にある、大通寺裏山の台地山頂部(大通寺山陣地)に遊歩道あり。
この、今は平らな杉林に二千人野営してたのか〜。
大通寺から医王寺に抜ける草原
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5/20 12:15
大通寺から医王寺に抜ける草原
医王寺と案内板
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5/20 12:18
医王寺と案内板
医王寺の案内板。寺の裏山が、15分くらいで登れる本陣跡の医王寺山で、最近出来た櫓がある。
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5/20 12:19
医王寺の案内板。寺の裏山が、15分くらいで登れる本陣跡の医王寺山で、最近出来た櫓がある。
医王寺本堂。よく手入れされ、美しい境内。
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5/20 12:22
医王寺本堂。よく手入れされ、美しい境内。
本堂の横に、民具を集めた展示館あり。
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5/20 12:27
本堂の横に、民具を集めた展示館あり。
案内板。武田勝頼30歳、まだまだ若かったもんね。
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5/20 12:32
案内板。武田勝頼30歳、まだまだ若かったもんね。
弥陀ヶ池と葦。葦の精も
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5/20 12:32
弥陀ヶ池と葦。葦の精も
花咲く紅葉の葉越しの弥陀ヶ池
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5/20 12:33
花咲く紅葉の葉越しの弥陀ヶ池
医王寺山門
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5/20 12:33
医王寺山門
弥陀ヶ池ごしに医王寺本堂
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5/20 12:34
弥陀ヶ池ごしに医王寺本堂
武田勝頼本陣跡に物見台櫓あり
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5/20 12:42
武田勝頼本陣跡に物見台櫓あり
丁寧な縄張り図あり
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5/20 12:43
丁寧な縄張り図あり
勝頼本陣案内板。4月下旬から5月19日までこの場所に居て、勝利を夢見ていたとのこと。いい案内文です。
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5/20 12:44
勝頼本陣案内板。4月下旬から5月19日までこの場所に居て、勝利を夢見ていたとのこと。いい案内文です。
3年前に作ったのですね。結構です。
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5/20 12:45
3年前に作ったのですね。結構です。
櫓から医王寺を見下ろす。この斜面、杉を刈ってあって展望よし。左遠方に長篠城が見えます。
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5/20 12:46
櫓から医王寺を見下ろす。この斜面、杉を刈ってあって展望よし。左遠方に長篠城が見えます。
その展望図。
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5/20 12:46
その展望図。
深い渓谷、豊川本流を渡る。上流を見る。武田軍が渡ったのはもっと上流の「猿橋」
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5/20 13:14
深い渓谷、豊川本流を渡る。上流を見る。武田軍が渡ったのはもっと上流の「猿橋」
深い渓谷、豊川本流を渡る。下流側を見る。
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5/20 13:14
深い渓谷、豊川本流を渡る。下流側を見る。
和楽亭で、中華そば。650圓。おいしいですよ。
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5/20 13:54
和楽亭で、中華そば。650圓。おいしいですよ。
東郷東小学校前のよろずやさんでモナカアイスを買う。
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5/20 14:28
東郷東小学校前のよろずやさんでモナカアイスを買う。
武田勝頼観戦地(赤ハゲ山)。武田台地の最高点。この北側(右翼)に真田兄弟や馬場信房、南側(左翼)に山縣や土屋、原などを配置して、西の正面に対した。当時はもちろん禿山で対面陣地と連吾川の戦場が丸見え。この台地の土は全体に赤いのが特徴だった。大砲も飛行機もないからお互いの陣地も合戦場も丸見えだったんだ。1975年、戦後400年の記念に碑を建てた。
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5/20 14:38
武田勝頼観戦地(赤ハゲ山)。武田台地の最高点。この北側(右翼)に真田兄弟や馬場信房、南側(左翼)に山縣や土屋、原などを配置して、西の正面に対した。当時はもちろん禿山で対面陣地と連吾川の戦場が丸見え。この台地の土は全体に赤いのが特徴だった。大砲も飛行機もないからお互いの陣地も合戦場も丸見えだったんだ。1975年、戦後400年の記念に碑を建てた。
武田勝頼観戦地(赤ハゲ山)。武田台地の最高点。この北側(右翼)に真田兄弟や馬場信房、南側(左翼)に山縣や土屋、原などを配置して、西の正面に対した。当時はもちろん禿山で対面陣地と連吾川の戦場が丸見え。この台地の土は全体に赤いのが特徴だった。大砲も飛行機もないからお互いの陣地も合戦場も丸見えだったんだ。1975年、戦後400年の記念に碑を建てた。
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5/20 14:38
武田勝頼観戦地(赤ハゲ山)。武田台地の最高点。この北側(右翼)に真田兄弟や馬場信房、南側(左翼)に山縣や土屋、原などを配置して、西の正面に対した。当時はもちろん禿山で対面陣地と連吾川の戦場が丸見え。この台地の土は全体に赤いのが特徴だった。大砲も飛行機もないからお互いの陣地も合戦場も丸見えだったんだ。1975年、戦後400年の記念に碑を建てた。
武田勝頼観戦地(赤ハゲ山)。武田台地の最高点。この北側(右翼)に真田兄弟や馬場信房、南側(左翼)に山縣や土屋、原などを配置して、西の正面に対した。当時はもちろん禿山で対面陣地と連吾川の戦場が丸見え。この台地の土は全体に赤いのが特徴だった。大砲も飛行機もないからお互いの陣地も合戦場も丸見えだったんだ。1975年、戦後400年の記念に碑を建てた。
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5/20 14:39
武田勝頼観戦地(赤ハゲ山)。武田台地の最高点。この北側(右翼)に真田兄弟や馬場信房、南側(左翼)に山縣や土屋、原などを配置して、西の正面に対した。当時はもちろん禿山で対面陣地と連吾川の戦場が丸見え。この台地の土は全体に赤いのが特徴だった。大砲も飛行機もないからお互いの陣地も合戦場も丸見えだったんだ。1975年、戦後400年の記念に碑を建てた。
武田と言う名の集落あり。武田台地の上の一本通り。この脇に土屋昌次の塚あり。最も若い重臣32歳。
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5/20 14:54
武田と言う名の集落あり。武田台地の上の一本通り。この脇に土屋昌次の塚あり。最も若い重臣32歳。
武田と言う名の集落あり。武田台地の上の一本通り。この脇に土屋昌次の塚あり。最も若い重臣32歳。
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5/20 14:54
武田と言う名の集落あり。武田台地の上の一本通り。この脇に土屋昌次の塚あり。最も若い重臣32歳。
武田と言う名の集落あり。武田台地の上の一本通り。この脇に土屋昌次の塚あり。最も若い重臣32歳。
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5/20 14:55
武田と言う名の集落あり。武田台地の上の一本通り。この脇に土屋昌次の塚あり。最も若い重臣32歳。
横田備中守綱松(よこたびっちゅうのかみつなまつ)51歳 戦没碑 ここは天王山で、碑が並んでいます。
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5/20 15:03
横田備中守綱松(よこたびっちゅうのかみつなまつ)51歳 戦没碑 ここは天王山で、碑が並んでいます。
横田備中守綱松(よこたびっちゅうのかみつなまつ)51歳 戦没碑 ここは天王山で、碑が並んでいます。
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5/20 15:03
横田備中守綱松(よこたびっちゅうのかみつなまつ)51歳 戦没碑 ここは天王山で、碑が並んでいます。
天王山の内藤修理之亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)54歳戦没碑。二代に渡って仕えた武田の四天皇の1人。ここから勝頼を逃し、本人はここで戦死。
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5/20 15:03
天王山の内藤修理之亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)54歳戦没碑。二代に渡って仕えた武田の四天皇の1人。ここから勝頼を逃し、本人はここで戦死。
勝頼の本陣は、医王寺→清井田→赤禿(才ノ神)→ここ天王山と四ヶ所目。勝頼はここから連吾川激戦地と向かいの馬防柵、鉄砲隊を見て、戦況の不利を悟って退却した。
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5/20 15:05
勝頼の本陣は、医王寺→清井田→赤禿(才ノ神)→ここ天王山と四ヶ所目。勝頼はここから連吾川激戦地と向かいの馬防柵、鉄砲隊を見て、戦況の不利を悟って退却した。
勝頼の本陣は、医王寺→清井田→赤禿(才ノ神)→ここ天王山と四ヶ所目。勝頼はここから連吾川激戦地と向かいの馬防柵、鉄砲隊を見て、戦況の不利を悟って退却した。
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5/20 15:05
勝頼の本陣は、医王寺→清井田→赤禿(才ノ神)→ここ天王山と四ヶ所目。勝頼はここから連吾川激戦地と向かいの馬防柵、鉄砲隊を見て、戦況の不利を悟って退却した。
甘利郷左衛門尉信康(あまりごうざえもんのじょうのぶやす)の碑
重臣甘利虎泰の息子。山縣と共に左翼帯で戦い、退却の際、立ったまま無念の切腹をしたそうな。この部落の裏切りに、呪いの言葉をつぶやいて。ナンマンダブ。
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5/20 15:16
甘利郷左衛門尉信康(あまりごうざえもんのじょうのぶやす)の碑
重臣甘利虎泰の息子。山縣と共に左翼帯で戦い、退却の際、立ったまま無念の切腹をしたそうな。この部落の裏切りに、呪いの言葉をつぶやいて。ナンマンダブ。
甘利郷左衛門尉信康(あまりごうざえもんのじょうのぶやす)の碑
重臣甘利虎泰の息子。山縣と共に左翼帯で戦い、退却の際、立ったまま無念の切腹をしたそうな。この部落の裏切りに、呪いの言葉をつぶやいて。ナンマンダブ。
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5/20 15:16
甘利郷左衛門尉信康(あまりごうざえもんのじょうのぶやす)の碑
重臣甘利虎泰の息子。山縣と共に左翼帯で戦い、退却の際、立ったまま無念の切腹をしたそうな。この部落の裏切りに、呪いの言葉をつぶやいて。ナンマンダブ。
甘利郷左衛門尉信康(あまりごうざえもんのじょうのぶやす)の碑
重臣甘利虎泰の息子。山縣と共に左翼帯で戦い、退却の際、立ったまま無念の切腹をしたそうな。この部落の裏切りに、呪いの言葉をつぶやいて。ナンマンダブ。
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5/20 15:17
甘利郷左衛門尉信康(あまりごうざえもんのじょうのぶやす)の碑
重臣甘利虎泰の息子。山縣と共に左翼帯で戦い、退却の際、立ったまま無念の切腹をしたそうな。この部落の裏切りに、呪いの言葉をつぶやいて。ナンマンダブ。
柳田激戦地
武田信廉(信玄弟)、内藤昌豊、原昌胤、安中繁らは信玄台地から柳田前に討って出た。橋の袂。
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5/20 15:21
柳田激戦地
武田信廉(信玄弟)、内藤昌豊、原昌胤、安中繁らは信玄台地から柳田前に討って出た。橋の袂。
激戦地の橋から連吾川上流。対岸は織田徳川軍。
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5/20 15:21
激戦地の橋から連吾川上流。対岸は織田徳川軍。
激戦地の橋から連吾川下流。対岸は織田徳川軍。
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5/20 15:21
激戦地の橋から連吾川下流。対岸は織田徳川軍。
設楽原歴史資料館。前に来たから今回は素通り。
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5/20 15:28
設楽原歴史資料館。前に来たから今回は素通り。
信玄塚。大塚は武田方戦死者の埋葬地。ナンマンダブ
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5/20 15:35
信玄塚。大塚は武田方戦死者の埋葬地。ナンマンダブ
大塚脇の閻魔堂1757年建立。前の小道が信州往還道。
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5/20 15:37
大塚脇の閻魔堂1757年建立。前の小道が信州往還道。
大塚脇の閻魔堂1757年建立
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5/20 15:37
大塚脇の閻魔堂1757年建立
小塚。こちらは徳川、織田軍の戦没者埋葬と言われる。
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5/20 15:39
小塚。こちらは徳川、織田軍の戦没者埋葬と言われる。
原隼人佐昌胤(はらはやとのすけまさたね)の碑。山形高地の田んぼの畦の真中にあり。
武田二十四将の1人、陣場奉行。
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5/20 15:50
原隼人佐昌胤(はらはやとのすけまさたね)の碑。山形高地の田んぼの畦の真中にあり。
武田二十四将の1人、陣場奉行。
原隼人佐昌胤(はらはやとのすけまさたね)の碑。山形高地の田んぼの畦の真中にあり。
武田二十四将の1人、陣場奉行。
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5/20 15:50
原隼人佐昌胤(はらはやとのすけまさたね)の碑。山形高地の田んぼの畦の真中にあり。
武田二十四将の1人、陣場奉行。
連吾川を見下ろす坂道の中腹にある山縣三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)の碑。武田四天王の1人で赤備え、赤い彗星シャア。ここで最後に自害した。47歳。
1
5/20 15:55
連吾川を見下ろす坂道の中腹にある山縣三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)の碑。武田四天王の1人で赤備え、赤い彗星シャア。ここで最後に自害した。47歳。
連吾川を見下ろす坂道の中腹にある山縣三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)の碑。武田四天王の1人で赤備え、赤い彗星シャア。ここで最後に自害した。47歳。
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5/20 15:56
連吾川を見下ろす坂道の中腹にある山縣三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)の碑。武田四天王の1人で赤備え、赤い彗星シャア。ここで最後に自害した。47歳。
連吾川を見下ろす坂道の中腹にある山縣三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)の碑。武田四天王の1人で赤備え、赤い彗星シャア。ここで最後に自害した。47歳。
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5/20 15:56
連吾川を見下ろす坂道の中腹にある山縣三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)の碑。武田四天王の1人で赤備え、赤い彗星シャア。ここで最後に自害した。47歳。
小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)の碑。小幡一族の誰かわからないそうです。信貞は戦後を生き延びているので別の小幡さん?
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5/20 16:10
小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)の碑。小幡一族の誰かわからないそうです。信貞は戦後を生き延びているので別の小幡さん?
小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)の碑。小幡一族の誰かわからないそうです。信貞は戦後を生き延びているので別の小幡さん?
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5/20 16:11
小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)の碑。小幡一族の誰かわからないそうです。信貞は戦後を生き延びているので別の小幡さん?
小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)の碑。小幡一族の誰かわからないそうです。信貞は戦後を生き延びているので別の小幡さん?
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5/20 16:11
小幡上総介信貞(おばたかずさのすけのぶさだ)の碑。小幡一族の誰かわからないそうです。信貞は戦後を生き延びているので別の小幡さん?
首洗池。釣り堀かと思った。護岸整備しすぎです。武田台地がバイパス道路にぶった切られる近くにあります。
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5/20 16:21
首洗池。釣り堀かと思った。護岸整備しすぎです。武田台地がバイパス道路にぶった切られる近くにあります。
首洗池の横の、武田台地上の畑の脇に岡田竹雲斎、岩手左馬之助胤秀の墓。あまり知らない武将さま。
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5/20 16:26
首洗池の横の、武田台地上の畑の脇に岡田竹雲斎、岩手左馬之助胤秀の墓。あまり知らない武将さま。
首洗池の横の、武田台地上の畑の脇に岡田竹雲斎、岩手左馬之助胤秀の墓。あまり知らない武将さま。
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5/20 16:26
首洗池の横の、武田台地上の畑の脇に岡田竹雲斎、岩手左馬之助胤秀の墓。あまり知らない武将さま。
首洗池の横の、武田台地上の畑の脇に岡田竹雲斎、岩手左馬之助胤秀の墓。あまり知らない武将さま。
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5/20 16:26
首洗池の横の、武田台地上の畑の脇に岡田竹雲斎、岩手左馬之助胤秀の墓。あまり知らない武将さま。
武田台地上を南北に通る一本道と武田集落。
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5/20 16:29
武田台地上を南北に通る一本道と武田集落。
踏切渡って三河東郷駅へ
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5/20 16:41
踏切渡って三河東郷駅へ
三河東郷駅前看板。一日歩いた工程をおさらいできます。
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5/20 16:44
三河東郷駅前看板。一日歩いた工程をおさらいできます。
三河東郷駅
1
5/20 16:44
三河東郷駅
電車の時間待ちで勝楽寺境内へ。
2
5/20 16:48
電車の時間待ちで勝楽寺境内へ。
左右に仁王様
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5/20 16:49
左右に仁王様
勝楽寺縁起。家康と信長が戦勝祝杯のお参りしている。
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5/20 16:51
勝楽寺縁起。家康と信長が戦勝祝杯のお参りしている。
勝楽寺縁起。家康と信長が戦勝祝杯のお参りしている。
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5/20 16:52
勝楽寺縁起。家康と信長が戦勝祝杯のお参りしている。
勝楽寺鐘楼
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5/20 16:52
勝楽寺鐘楼
三河東郷駅プラットフォーム
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5/20 16:55
三河東郷駅プラットフォーム
来ました!飯田線。
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5/20 17:00
来ました!飯田線。
yoneちゃん、お疲れさんでした。いっぺんに、暑くなって、もう、体がえらかったんじゃないでしょうか???
そこは時代劇どころか、本物の豪華キャスト!タイムスリップしてみたい気分です
歩くって、本当に景色が変わるって、私も、そう、思うね〜
暑くなりましたね。ラーメンの塩味と、アイスクリームの滋味が沁みました。上り下りの丘陵地をてくてく歩いて木陰で本を読み風景を見て想像する。自転車小学生とあいさつを交わす。楽しいです。
昨夜の直虎で、今川は、武田を絶対に海に来させぬと言ってました。真田丸の勝頼は渋かったですね
武田信玄は1572年に三方原でイエヤスを負かした後、豊橋の吉田城まで来ていて、1575年の勝頼も設楽原の前哨戦で吉田城まで来てちょっかいを出していたと思いましたが、ここからは海はまだちょっと遠いかな。海見たことなかったんだ!そろそろ武田勝頼で大河見たいですね。
武田が上洛するには、直虎の時代は今川倒して新幹線ルートじゃないと無理だったんですかね、サンダーバードルートだと、上杉や真田を超えてからしか無理ですもんね。今日は滋賀出張でした。安土城や彦根など天下取りの織田、豊臣エリアです
京都に行くなら、美濃や三河経由だと思いますよ。行く気になっていなかったのではないかな。
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