松江と島根大学
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S31年4月希望に燃えて島根大学教育学部中学四年課程理科に入学した。
出雲高校からは理科にK君、M君、数学にT君、Oさん、Mさん、職業にW君、体育にKさん,O君など10人ぐらいいた。音楽高校課程、小学四年課程、小学二年課程全部で合計30人近くが入った。
寮を希望したがかなわず、内中原町の教育学部の近く、〇〇さんに間借りした。そこは年配の未亡人の家で、益田出身の美術の真庭君と一緒だった。食事は教育学部の食堂で食べた。
僕は第2専攻が職業だったが、講義は職業以外はすべて川津町の本館だったので、大学のスクールバスを利用していた。そのうちに家から自転車を持って来て自転車を利用した。自転車は実家から松江まで乗って来た。
理科には外にKAくん、A君、S君、紅一点Yさんなどがいた。
月2000円の奨学資金はもらっていたが、家は前年父が亡くなり、兄貴は農業高校季節定時制を前年卒業、田圃6反、畑3反を耕作していたが、家族は祖母、母、僕の下に弟2人、妹2人いたので仕送りは期待できない。
早速アルバイトを探した。電器に関心があったので電気屋をあたった。何軒目かでOKしてくれた。K電舎と云って主人が1人でやっていて、たまに奥さんが店番に来る、という感じだった。働くのは土曜の午後と日曜で店番をしたり、主人と一緒に蛍光灯の取り付けに行ったりした。
主人は好奇心旺盛な人で、近くの親しい鉄工所を利用させてもらって、バイクのエンジンをはずして、手製の小型4輪車を作ったりしていた。
松江で何十年かに1回行われる「ホーランエンヤ」には、舟を借りで飾り付けをして参加した。そんな手伝いをし、本番には僕も舟に乗った。
2学期になって解雇された。店は主人1人で十分間に合っていたのである。
母の妹の連れ合い・Oさんが県森連に勤めていてT町の魚屋さんに間借りして自炊、週末だけ実家に帰っていた。僕はそこで共同生活することにした。と云っても居候に近いものだったが。そして冬休みや春休みには県森連や県庁の森業課でアルバイトをさせてもらった。
2年の後期「稲作」を履修したが受講者は僕1人だった。担当のY助教授は気さくな人情味ある人で、講義の後では雑談などするようになった。そのうちにアルバイトを世話してくれた。それは彼の友人であるK県議の娘の家庭教師だった。初対面にはびくびくしながら行ったが、K県議は鷹揚な人で奥さんも親切だった。娘は島大教育学部付属小の6年生、僕の下の妹と同年、一人娘・美那子、愛称・美那ちゃんで、天真爛漫、歌が上手で当時ラジオの放送劇・向こう3軒両隣のテーマ曲「♪イッチョウメーイチバンチ♪」をよく口ずさんでいた。また1つのメロデーを2,3回聴くと自分で歌えるようになる、という特技を持っていた。
あとで聞いたことだが、父のすぐ下の叔父は師範学校時代、若い頃のK県議に習ったことがあり「厳しい先生だった」と云っていた。
K県議からは「叩いてもいいからしごいてくれ」と云われた。
天真爛漫なだけに、勉強に集中させるのには一工夫必要だったが、楽しく勉強することができた。週2日、4時頃から始めて、一息やって、夕食をご馳走になり、一休みして、10時頃までだった。どれくらい効果が挙がったかについては自信はない。
その後、島大教育学部付属中学に入り2年の時、僕は4年だった。そして僕が北海道に来たのでその後のことはよくわからないが、山陰合同銀行に勤めた後、松江近郊の鉄工所の若主人に嫁いだようである。
K県議からも奥さんからも親切にしてもらい、このアルバイトは経済的にもであるが、精神的に僕の学生生活を大変豊かなものにしてくれた。
現職時代は自分の仕事や勉強で精一杯、退職後も10年間は山にうつつを抜かしていて、Y助教授やK県議夫妻には何ら報いることなく今に至ったのが心残りである。
美那ちゃんとはその後、年賀状のやり取りも途絶えがちであったが、数年前の年賀状で「孫6人のおばあちゃんになりました」と。「美那ちゃんが、おばあちゃんに‥…」、どんなおばあちゃんか、全く想像もできない。僕の頭の中では、中学2年の時なままである。
その次の年は、孫6人が背の高さの順に並んだ見事な写真の年賀状だった。そしてその年の暮れに「夫永眠」の喪中はがきが来た。僕はお悔やみのはがきを送った。
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