北陸古墳出現期の旅1)24日呉羽・婦負丘陵から加賀の出現期古墳まで

- GPS
- 56:00
- 距離
- 35.4km
- 登り
- 219m
- 下り
- 216m
コースタイム
| 天候 | 曇り時々雨 |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2017年05月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車 バス タクシー
自転車
|
写真
感想
富山市内の呉羽丘陵の王塚古墳(前方後方墳)や富山市考古館、埋文センターなどは昨年も訪問したが、今回は弥生の四隅突出墳丘墓や出現期古墳への移行などについて集中的に見学する予定、夜行バスで富山駅について、早速レンタサイクルを借りる手続きをして6時ごろ出発。
神通川を渡って呉羽丘陵を見ながら、最初に富崎墳墓群を目指す。神通川両岸は弥生中期から水田の開けた地域で、日本海(北部九州〜出雲〜丹後)から新しい文化が到来し、あるいは人の移動もあったかもしれない。神通川から井田川が分かれ、さらに山田川が分かれる手前あたりから、少なくとも古代から婦負(ねい)と呼ばれる地域だったが、平成の大合併で婦負郡が消滅,婦負の地名も富山市婦中町の「婦」の字のみが残った。
丘の夢牧場に向かう坂道を上り、牧場の敷地手前にある富崎墳墓群に到着、駅から1時間半くらいかかるかと思ったが1時間10分で到着、解説の看板はあるが、墳丘墓そのものはたけやぶの中でわずかに高まりが感じられるくらいで、どの高まりがどの墳丘か、見分けがつかない。富崎墳墓群は1号から3号簿まであり、四隅突出型という出雲地方にみられる弥生墳丘墓で、北陸では福井や富山で見られ、そうした地域は出雲・山陰地方との関係が密接だったと考えられている。海上ルートの交流だろう。
墳丘規模は21m四方くらいで、隔絶した王墓のようなお墓ではな区、地域のリーダー層の墓だろう。元に戻って先に進むと富阪城址という中世の山城跡があり、さらに牧場方面に進むと、牧場ゲートがあり、許可なくしては入れそうもない。そのときに牧場関係者の車が来て赤坂千里古墳まで、牧場の中を通ってよいと許可を得た。
途中、高地性集落の赤坂遺跡を探すが、先ほどの車の人は場所を知らず、丘の上のほうらしいが案内板も見当たらず、牧場なので許可を得ないとそれ以上進めないのであきらめる。富阪千里古墳方面に下り、看板を見つけるが、古墳群はやぶの中で入れそうもないので外から観察するにとどめる。7時40分過ぎ、時間が押しているので集落遺跡を探すのをやめて、杉谷4号墳に向かう。
北陸自動車道手前に富山大学杉坂キャンパスがあり、杉坂4号墳はその敷地内にあるようだ。道路わきに案内板を見つけ、チャリを置いて墳丘に登る。杉谷4号墳も四隅突出型で、墳丘規模は一変25m、高さ4mで周溝の大きさは一辺50mで富阪に比べて巨大な印象がある。四隅は埋め戻してあるので表面から観察することはできない。
キャンパスの中には関連遺跡があるが、中で探すのは面倒なので今回はここで見学を終わり、8時半前に県埋文センターと富山市考古館に向かう。
特に富山市民芸村の中にある考古館では、市内に多くある弥生遺跡や墳丘墓、前期古墳に関する展示が多い。神通川とその市流域の様々な遺跡の出土品が並んでいる。河口付近の打出遺跡は弥生中期かと思ったら、後期の遺跡だった。小松市の八日町地方遺跡北陸を北上してきた弥生文化がいかに富山湾周辺に到達したのか、そうした大きなテーマを考えさせられる遺跡群だ。
弥生から古墳時代への変遷を様々な遺跡の遺物を見ながら思いをはせる。時間があまりなくなり、10時40分頃、富山駅前でチャリを返却し、次の予定地の津幡町に向かう。忙しい旅だ。
参考資料:
富崎墳墓群(史跡王塚・千坊山遺跡群の一部=南西端)
標高約70mの富崎丘陵北東縁辺部に立地し、北側の谷には山田川が流れています。
弥生時代後期から終末期に築かれた四隅突出型墳丘墓よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ3基で構成されています。これらは山陰系の墳墓の形態であることから、当時の日本海沿岸交流を物語る証拠として注目されます。
墳墓には、中型の1・2号墓と大型の3号墓の2つの規模があります。中型と大型の墳墓は、小さな谷を挟んで150m離れて立地しています。
基盤集落としては、170m東の平野にある富崎遺跡や、同じ丘陵上の580m南西にある高地性集落の富崎赤坂とみさきあかさか遺跡・離山砦はなれやまとりで遺跡が考えられます。
1号墓は一辺21.7m、高さ3mで、突出部とっしゅつぶは長さ6m、幅9mです。2号墓は、損壊により正確な規模は分かりませんが、1号墓とほぼ同規模と推測されます。
墳墓はどちらも墳丘の周囲に溝(周溝しゅうこう)がめぐらされ、突出部は楕円形に膨らむ特徴があります。
遺物には、2号墓の周溝から出土した器台きだいのほか、富山県畜産試験場・丘の夢牧場造成工事の際に1・2号墓周辺で採集された小型台付装飾壺2点があります。
3号墓は一辺22m、高さ3.9mと大型で、突出部は長さ4m以上、幅12mです。
墳丘は、周囲の地山を広く削り出した後、側面のみに周溝をめぐらせて区画しています。
遺物には、周溝から壺、高杯たかつき、器台、蓋ふた、甕かめが出土したほか、墳墓の近辺にあった土坑から壺4個体(うち3個体が完形品)や甕の一部が出土しました。
3号墓から出土した土器は、試掘調査だけで遺物収納ケース24箱分におよび、越中の弥生墳墓では傑出した量です。」(富山市HP)
「史跡王塚・千坊山遺跡群概要」
「富山湾から約12キロメートル内陸に入った井田川・山田川合流域にある羽根はね丘陵、富崎とみさき丘陵に分布し、弥生時代後期末から古墳時代前期(約1,800年から1,700年前)の遺跡7ヶ所で構成されています。
史跡には、弥生集落のほか、日本海沿岸交流を物語る山陰系の四隅突出型よすみとっしゅつがた墳丘墓、前方後方墳への過渡期の墳丘形態を示す前方後方形墳丘墓、越中を代表する大型前方後方墳、17基からなる大規模な古墳群などの多彩な墳墓があります。
史跡王塚・千坊山遺跡群の位置
史跡は、弥生時代から古墳時代へと移り変わる激動の時代における地域間交流(山陰・東海・畿内など)や、ムラの出現から首長誕生までの過程を、墳墓・集落の両面から具体的に知ることができる貴重な資料であり、北陸における地域国家の成立を考える上で重要です。」(富山市)
杉谷古墳群、A遺跡他
杉谷古墳群
「杉谷古墳群は呉羽山丘陵南西端の杉谷丘陵に位置し、標高は50から60mです。丘陵上には昭和50年に開校した富山医科薬科大学の校舎や病院棟が建ち並び、古墳群は、これら施設の富山平野側周辺をとりまく緑樹帯に所在します。
昭和49年に概要調査が実施され、丘陵縁辺に150から200mの間隔をおいて11基の出現期古墳とそれに関連する方形周溝墓群の存在が確認されました。
古墳は北東から南西に11号墳・9号墳・10号墳・8号墳(以上、方形墳)・三番塚(円形墳)・二番塚(方形墳)・一番塚(前方後方墳)・5号墳(方形墳)・7号墳(方形墳)・4号墳(四隅突出墳)・6号墳(長方形墳)の順に立地します。また、5号墳と4号墳の間には大学設置の際に発掘調査が行われた杉谷A遺跡があり、各古墳はそれぞれに形を違えますが、方形墳が主流をなしています。これらの古墳から出土した土器類より、この古墳群は古墳時代出現期に形成されたことがわかりました。
四隅突出墳(杉谷4号墳)
この古墳(墳丘墓ともいう)は、古墳時代出現期に作られた杉谷古墳群のなかのひとつで、「四隅突出墳」と呼ばれる方墳の四隅が舌状に突出する特異な形の古墳です。
方墳の一辺が25m、高さ3m、突出部の長さは方墳の角から12mでこれを囲む溝を含めた一辺は50mにもなり、四隅突出墳の中では最大級のものです。墳丘はすべて盛土により成形され、周溝は最大幅7.5m・深さ1.3mの堂々たるもので、古墳の裾にそって大きく張り出し、最大突出部は約12m張り出します。墳頂部や周溝からは古墳時代初め頃の高杯形土器等を出土しました。
このような形の墳墓は、弥生時代の中頃に島根県を中心とする山陰地方に発達したもので、四隅突出墳(四隅突出型墳丘墓または四隅突出型方墳)と呼ばれています。四隅突出墳は、山陰地域と北陸地域にだけ発見されており、福井県で6基、石川県で2基、県内では呉羽山丘陵に4基、婦中町に6基の計10基が確認されています。
「四隅突出墳」は、弥生から古墳出現期に営まれたもので、島根県を中心とした「山陰文化圏」が生み出した独特の墓制です。この墓の形は2世紀に福井平野、3世紀に金沢平野と富山市・婦中町の井田川流域で見られるようになります。北陸の四隅突出墳は山陰とは違い、墳丘の裾に貼石や列石がなく、周溝があります。
古代山陰地方と親密な交流を反映する四隅突出墳を築きながらも、独自の墳墓形式を確立していったと考えられます。
当時の越と出雲の関わりは地名や神話などの研究からも指摘されるところで、この古墳は「日本海文化圏」という新しい考え方を提唱するための大きな柱のひとつとなりました。
杉谷A遺跡
杉谷A遺跡は、杉谷丘陵上の杉谷古墳群の5号墳と4号墳の間に位置します。昭和49年の調査で、方形周溝墓17基・円形周溝墓1基・土壙2基等古墳出現期の墳墓群を検出しました。
方形周溝墓は溝の四隅を掘り残すタイプと溝を四角くめぐらすタイプがあります。また一辺11mの大きな周溝墓を中心に一辺5から6mのものが3から4基伴うように配置されており、副葬品も大きな周溝墓から主に出土していることからして、この時期にかなり進んだ階層分化があったことがわかります。
さらに棺においても同様で、小さな周溝墓が板を箱型に組んだ組合せ式木棺であるのに対し、大きな周溝墓からは樹幹を用いた割竹形木棺が採用されていたことが推測できます。
墳墓群からは副葬品としてガラス小玉や素環頭大刀そかんとうたちをはじめ、銅鏃・刀子・やりがんななどが発見されました。これらは主に日本海を通じて北九州方面からもたらされたものと考えられています。
素環頭太刀には絹織物の断片が付着していました。大刀をくるんでいた布の一部と考えられます。絹織物は北部九州で発見された弥生時代前期のものが国内最古とされており、杉谷A遺跡の絹の繊維は北部九州のものに比べると断面が細かく織目密度が粗いことから北陸で生産された可能性があり、当時、富山でも蚕が飼われ、絹の生産が行われていたと推測できます。
また周溝墓の周りからは、底部を穿孔せんこうした土器や赤彩の台付壷・高杯形土器などの土師器が出土しました。特に赤彩の台付壷は全面に朱色が塗られ、北陸東北部に特有な台付長頚型だいつきちょうけいがたの土器の中でも、その形の華麗さにおいて特に優れたものとされています。
この遺跡のある杉谷丘陵上には、杉谷4号墳(四隅突出墳)をはじめとする多くの出現期古墳の存在が知られており、古墳出現期の複雑な社会構造のあり方や初期国家形成期の動向をうかがう点において、多くの興味深い問題を提起する貴重な遺跡の集合地帯となっています。」(富山市)
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