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ハイキング
中国
出雲ファンに贈る◆’湘臚況◆頁尚襦某星れの磐、御陵神社。 西出雲王家、神門家の軌跡を辿る
2016年08月16日(火) [日帰り]


- GPS
- 18:00
- 距離
- 12.8km
- 登り
- 756m
- 下り
- 741m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2016年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス タクシー 自家用車
その,呂海舛 https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1291906.html そのはこちら https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1278869.html 概要 紀元前200年頃徐福が出雲にやってきます。 出雲王家第八代政権は東の向家、西の神門家が主王と副王を交代で代わって出雲王国を運営していました。 第八代出雲王権 主王の名は大穴持=大国主=個人名:八千矛:西出雲王家=神門臣家 副王の名はスクナ彦=事代主=個人名:八重波津身:東出雲王家=向家・富家 こちらは神門臣家、西出雲王家をテーマに情報をまとめています。 「出雲大社の真裏の素戔嗚神社」は実は今の宮司家によって書き換えられています。 宮司家は北島家が本家で、大社真裏の本家屋敷と呼ばれるところに住んでいました。 S家から見れば目の上のたんこぶだったわけですね。 明治より前の廃物令の際に、大社造営の規模に制限が出る事を利用する事を思いついた宮司家は(大きくないと造営できない決まりを利用して本家屋敷を移転させた)大社真裏に素鵞社を祀るからと約束して、「大社の土地の持ち主である向上官家」を仲間に引き入れ、屋敷を壊すことに成功します。 素鵞社というのは、蘇我氏に養子入りした向家の太彦を指します。 太彦は別名、オホドの王と呼ばれ、後に継体天皇になった人です。 禁則地になっている八雲山の岩盤がこの神社の真裏に突き出ています。何気に重要な神社です。 結局大社から向家を追い出した後には、祭神が素戔嗚に宮司家に書き換えられてしまいました。 徐福と天のホヒの手引きによって出雲王家8代の主王、副王は殺害されてしまいます(これが後に古事記で国譲りの話に書き換えられます)が、主王の八千矛の遺体は神隠れの岩屋とも呼ばれる洞窟で発見されます。 古事記に書かれている洞窟の表現が、猪目洞窟だと全く合わないらしく、ここなら情景が合うと言われているのが脳(なずき)の洞窟です。 地元の年輩の方は子供のころから遊んでいた所らしいですね。 遺体は後に発見され、北山山地の竜山に埋葬されたそうです。 その第一の霊廟が「御霊神社」 現在の出雲大社の宮司家が何をするか解ったものではないと、旧王家13家は「宝筋」という集まりを作り千家をけん制しますが、国造職が無くなって失職を恐れた千家が杵築大社造営を持ちかけます。 建物を建てたのが旧西出雲王家の神門家。資金の大半を出したのが旧東出雲王家の向家。建物管理でカギを預かったのが別火家でした。 実は出雲大社は、どさくさに紛れてS家がいつの間にか居座ってしまっていますが、本来は所有権も向家、神門家で、別火家がカギを開けなければ雇われ宮司のS家は神社に入る事も出来ませんでした。 現在の出雲大社の裏の八雲山には、再び八千矛王の遺体が移されたとも言われる第二の霊廟=磐座があるそうです。 無くなった大国主を最初に祀ったのが神門家の三屋神社です。(雲南市三刀屋町) 出雲大社はこの神社から御神霊が遷座されたのが始まりとの事です。 なので神紋が出雲大社と同じになっています。 S家って面白くて、徐福を手引きして「国譲り事件」を起こし、国政の変化で国造職廃止で失職になりそうになったら、何と滅ぼした旧王家に話をかけ、資金と資材を出させて、自ら奸計に陥れて殺害した大国主を祀りたいから神社作りましょうよと声をかけたのです。 これが出雲大社の始まりだったなんて流石に驚きました。 上官職の向家は明治の代の次の口伝伝承者からは嫌気がさして出雲大社から手を引いてしました。 千家は、東出雲王家、向家の直系の子孫である野見の宿祢を、何と自分の家の家系図に組み入れてしまいます。 スクナ彦直系の子孫である野見の宿祢がS家の先祖なら、本殿の近い方に配置しなければ失礼にあたるでしょう。 野見の宿祢神社の前の広場には、上官家の屋敷のあった処です。案内看板に「富家と神門家」が全く抜け落ちています。明治の時まで居た上官家の家を抹消する程に現在でも歴史の改竄には熱心な様子です。(まあ、大家さんが別にいますよだなんて背乗りした側から見ればトップシークレットなんでしょうが) かつての歴代向家の上官職の苦悩が慮れます。 ーーーーーアクセスーーーー 公共交通機関でも何とか弾丸工程で回れます。 車の場合 ナビで「さぎ浦マリーナ」に直行してください。 住所は「島根県出雲市大社町鷺浦244−1」 漁協の方にきちんと頭を下げて、「出雲ファンなんです、洞窟を見学させて下さい」と駐車の許可を受けて下さい。近くには駐車場はありません。 「私はマジでそう言ってお願いしました。何事も熱意です。」 2015年のお盆には陸路の存在を知らずに出雲市立鵜鷺小を猪目洞窟方面に抜ける途中のトンネルから行こうとして、隣の谷に出てしまい、発見できませんでした。 基本は予約なりをして船をチャーターしていく事を推奨しますが、少人数だと現実的ではないと思われます。あと確実に依頼が通るとも限りません。 大国主の尊が幽閉されたとされる「鵜鷺峠の洞窟」ですが、実際には鵜鷺峠という地名は厳密に言うと存在しません。鵜峠と鷺浦の行政界が鵜鷺と呼ばれる地名の様です。 公共交通機関の場合 出雲大社バス駐車場からコミュニティーバスが、猪目洞窟方面まで出ています。 そこから 銑イ泙任浪鵑譴襪隼廚錣譴泙后 モデルコース ―弍逝膽匯嫁 猪の目洞窟 G湘臚況 に婿鎧鈎蕨爾痢大国主墓所:御霊神社 ド々盪嚇仍魁扮復3時間くらい)一畑電車大社線の高浜駅から北に向かい、矢尾信号を右折。400m進み左ナナメに入ると神門谷。大歳神社を経由して山頂に。 車がある方は追加でここがお勧め 出雲神奈微備神社 Э戚膸 ┻彳犹區声 三屋神社(雲南市にあるので一番遠い) ------ *長野県出身者の方は是非、鰐淵寺にも寄られてください。出雲大社より歴史が古く、開祖の智春上人は推古天皇の時代に鰐淵寺を開きました。 鎌倉時代には守護佐々木氏(塩冶氏=神門臣家のひとつ)の保護を得て栄えています。 出雲系唯一の源氏である宇多源治は神門臣系の源氏です。 弁慶も修行したとされるこのお寺は出雲大社と密接な関係にありました。 ------ 参考書籍 ・書籍「謎の出雲帝国」(絶版)昭和55年出版 ・書籍「出雲と蘇我王国」(現在も入手可) →大元出版 http://oomoto.net/ ・書籍「私の大国主」(伝説の超ウルトラレア本:自費出版)この本でもうひとつの黄泉の穴とされる場所に慰霊に出かける話が出てきます。 最近、私の初めてのヤマレコのフォローの方にご提供頂きまして入手の大願成就がかないました。この場をお借りしまして熱く御礼申し上げます。有難うございました。 出雲王家本をかなり忠実に現地を回ったHP とても参考になりますよ。 https://omouhana.com/ 「八雲ニ散ル花」 脳島洞窟に関する資料・記事 JTCOホームページ →http://www.jtco.or.jp/column/readings/?act=detail&id=33 PDFファイル →「島根県出雲市、「神話の国」黄泉の穴、脳島洞窟の形態と猪目洞窟」で検索 黄泉の穴考 たいしゃ情報総合サイト →「黄泉の穴考」で検索 これだけあればほぼ完ぺき。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
元々大国主の別名は大穴持。鉱山に関係があります。銅の露鉱がある地域はシダ類が繁茂すると言われていますが、正にそれです。 脳島洞窟のコースはゲイター必須。足は汚れると思った方が良いです。 |
写真
野見の宿祢神社
物部氏&豊国連合軍が出雲を滅ぼした時、現在の秋上氏の祖先が出雲の首領に指名されましたが、ホヒ家はこれに反発。
ヤマトに居座った天のヒボコ軍と、邪魔になった豊国の兄弟、二代目卑弥呼兄弟が邪魔になった物部王はホヒ家に軍隊を要求します。
当然に人望が無く、ホヒ家では人が集まらなかったので、裏切った相手の出雲王家の富家に進軍を依頼します。富の名を野見に変えて軍を組織した野見の宿祢がついでに三輪山までも奪還し、大勝利を収めます。
何と、向家の英雄である野見の宿祢を自分の親戚だと嘘をつき、出雲はホヒ家でなければ纏まらないと強く主張。それを大和の物部の王に認めさせます。
ホヒ家の手引きによって連合軍が防御の弱い処を付くことが出来たので発言権があったのでしょうね。家族で大和まで押しかけたそうです。
物部氏&豊国連合軍が出雲を滅ぼした時、現在の秋上氏の祖先が出雲の首領に指名されましたが、ホヒ家はこれに反発。
ヤマトに居座った天のヒボコ軍と、邪魔になった豊国の兄弟、二代目卑弥呼兄弟が邪魔になった物部王はホヒ家に軍隊を要求します。
当然に人望が無く、ホヒ家では人が集まらなかったので、裏切った相手の出雲王家の富家に進軍を依頼します。富の名を野見に変えて軍を組織した野見の宿祢がついでに三輪山までも奪還し、大勝利を収めます。
何と、向家の英雄である野見の宿祢を自分の親戚だと嘘をつき、出雲はホヒ家でなければ纏まらないと強く主張。それを大和の物部の王に認めさせます。
ホヒ家の手引きによって連合軍が防御の弱い処を付くことが出来たので発言権があったのでしょうね。家族で大和まで押しかけたそうです。
出雲大社は、鰐淵寺に遅れる事716年に杵築大社の名前でスタートします。資金の大半を富家、土地材木、人足を神門臣家が負担し、鍵は神門臣家の分家である別火家が所持。
ホヒ家は勝手に大社に入る事すらできませんでした。
写真の上官屋敷跡には、神門臣家と、富家がごっそり抜かれています。
明治まで富家の上官家が勤めていたにも関わらずです。余程邪魔な存在だったのでしょう。当時の明治の富家上官は、西郷隆盛との近いが果たせず客死します。
https://www.yamareco.com/modules/diary/100156-detail-166823
富家の名前を消して、すぐそばに本殿から離れたところに英雄であると主張した野見の宿祢の社があるこの矛盾こそが出雲大社の神髄の一つなのです。
ホヒ家は勝手に大社に入る事すらできませんでした。
写真の上官屋敷跡には、神門臣家と、富家がごっそり抜かれています。
明治まで富家の上官家が勤めていたにも関わらずです。余程邪魔な存在だったのでしょう。当時の明治の富家上官は、西郷隆盛との近いが果たせず客死します。
https://www.yamareco.com/modules/diary/100156-detail-166823
富家の名前を消して、すぐそばに本殿から離れたところに英雄であると主張した野見の宿祢の社があるこの矛盾こそが出雲大社の神髄の一つなのです。
さて本殿に向かう前に銅の鳥居を。
国造職が無くなって失職の恐れがあったホヒ家が出雲王家に神社作って「大国主を祀って共同で運営しよう」と持ちかけたのが出雲大社の前身です。それを神社完成前に素戔嗚を祀ろうとして当時の右大臣に怒られ、渋々大国主が主祭神になったという経過があります。
わざわざミトヤにあった、神門臣家の三屋神社で祀ってた大国主を遷座させたのに馬脚を現すのが早すぎました。
国造職が無くなって失職の恐れがあったホヒ家が出雲王家に神社作って「大国主を祀って共同で運営しよう」と持ちかけたのが出雲大社の前身です。それを神社完成前に素戔嗚を祀ろうとして当時の右大臣に怒られ、渋々大国主が主祭神になったという経過があります。
わざわざミトヤにあった、神門臣家の三屋神社で祀ってた大国主を遷座させたのに馬脚を現すのが早すぎました。
2015年にうろついて到着できず、手掛かりは鹿除けのような金網の扉に「黄泉の穴」の木札。どうしても発見できず、ダメ元でこの地形に目を付けました。
さぎ浦マリーナに車を止め、漁協の人に目的を伝え、とりつき部に行ったら・・
さぎ浦マリーナに車を止め、漁協の人に目的を伝え、とりつき部に行ったら・・
恐らく、神様の書き換えがあって今の伊那西波伎神社の名前になったのでしょうね。
大社が出来たのが720年ですから、その前から大国主:八千矛王を慰めてきていた信仰が存在してたはずですから。
墓守の方々の地域のように思えます。
大社が出来たのが720年ですから、その前から大国主:八千矛王を慰めてきていた信仰が存在してたはずですから。
墓守の方々の地域のように思えます。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ズボン
靴下
グローブ
ザック
飲料
地図(地形図)
コンパス
ヘッドランプ
GPS
ガイド地図(ブック)
携帯
時計
タオル
ストック
カメラ
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感想
諦めないで探し続けて良かったです。
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